29. 守り、守られること(下)
ジェラルドは城の正面にスヴァジルを着け、カレンを横抱きでジェラルドの自室へ運ぶ。
ひとまずベッドへ寝かせマントを取ると、血まみれの手、乱れた髪とドレス、青い顔のカレンが現れた。
「なんてこと…!」
エマは悲鳴に近い声だ。ニコルはすでに泣いている。
アイザックが指示したのたのだろう、モリスと共に侍医がすぐに入ってきた。侍医がカレンの具合を確認する横で、ジェラルドは現状を説明した。
「ひとまず手の止血をしますが…肩の製復が先かと」
「…私がはめよう」
侍医はジェラルドを見上げ、頷いて答えた。
戦場を共にした侍医は、ジェラルドの医者並みの応急措置能力と経験を知っている。
脱臼の製復は劇痛を伴う。
相手がカレンとなると、信頼する者が処置を施すことが望ましい。
侍医はカレンの右手に新しい包帯を巻く。だがまだ血は止まらず、すぐに滲む。同時にエマやカレンは、カレンの足を湯で濡らしたタオルで丁寧に暖める。
カレンは辛うじて意識はあるが、青い顔に変化はない。
「ではジェラルド様、お願いします」
「わかった。…ザックだけ残して皆は部屋を出てもらいたい」
ジェラルドは冷静に指示する。
アイザックを残し皆が部屋から出たのを確認し、ジェラルドがカレンの枕元に屈み込んだ。
カレンの額にかかる髪をそっとよけながら、囁くように話しかける。
「カレン、今からあなたの肩を治す。先に謝るが…かなり痛いかもしれない…私を信じて欲しい」
カレンは目を瞑ったまま、眉間に皺を寄せた顔で小さくコクコクと頷いた。
ジェラルドはそのまま額に小さくキスを落とすとアイザックに目で合図し、背もたれのないスツールをベッドまで運ばせた。
ジェラルドはシャツの両袖を捲る。
全く力の入らないカレンをそっと抱き起こし、横抱きにすると椅子へ座らせる。
「ザック、カレンの体をささえてくれ」
アイザックは首肯すると「姫様、失礼するよ」と呟き、カレンの後ろから体を支える。いつもの軽い調子は一切なく、真剣そのものだ。
ジェラルドは取り出したナイフで、ドレスの右肩付近を慎重に切り裂いた。
カレンの肩が露になる。
外れた肩骨は、本来の優美な曲線を奇妙に乱している。
「ッ!!」
腕を動かすと、カレンの顔が苦痛に歪む。
ジェラルドは「カレン、もうちょっとだから」と、優しく宥めるように話しかける。
ジェラルドはいったん直立し、フーッと息を整えた。
「ザック、左肩を抑えてくれ」
「わかった…姫様、頑張れ」自身もその劇痛を知る者として、カレンに声をかけ、動かないように左肩を固定した。
「カレン、力を抜いて…」
ジェラルドは用心深くカレンの右腕伸ばし、予備動作から一気に肩へ力を加えた。
「ッッッツ!!!!!」
体が硬直したあと、カレンは気を失い脱力した。
「入った…」
ジェラルドは玉の汗を浮かべている。
侍医から渡された三角巾を肩から腕に強めに巻き、またベッドへと寝かせた。
「…姫様、すげーな、俺なんか喚き散らしたぞ」
「胆力が違う」
アイザックは憮然としたが、それでもホッとした表情だ。
「侍医と皆を入れてくれ。次は右手だ」
右手の他にも、至るところに切り傷や擦り傷があり、侍医やエマ達は治療を続けた。
あとから、ジェラルドが器用に寝着に着替えさせた。ただ右腕は着せられないので、上からそっと柔らかな寝具だけを。
カレンは2日間、肩からの高熱に見舞われ意識は戻らなかったが、3日目の朝に目覚め皆を一安心させた。
ジェラルドは付きっきりで看病し、仕事も寝室で行った。
目が覚めたカレンは自室に移ることを提案したが、こちらの方が広いから仕事に都合がいい、と即却下された。
ランドールは足の捻挫程度で、まだダヴィネス城で療養中だが、恐ろしいほど大人しく過ごしているとのことだった。
ランドールの沙汰については、まだ保留中らしい。
・
「ん?どうした?」
カレンはまだベッドから起き上がれない。
ジェラルドの大きなベッドを占領し、寝たままジェラルドの仕事振りを観察する日が続く。
主寝室はかなりの広さがあるので、すっかり執務室へと模様替えをし、カレンの目線の先にジェラルドの執務机がある。(というか、執務机はカレンが見える位置に設置されている)
カレンの目線に気づいたジェラルドが、書き物から目を上げずにカレンに聞いてきた。
「…いえ」
カレンは目覚めてからこちら、あのディナーの夜にランドールが放った言葉のことを考えていた。
- 私はジェラルド様の弱みにしかならない -
ランドールの発言は、大概はカレンをあからさまに攻撃するものなので聞き流せたが、あの言葉だけは引っ掛かっている。
確かにその通りだと思うから。
ジェラルドは違うと言うだろうが、今、こうやって大切に守られていること自体、すでにジェラルドの弱みなのでは、と思う。
“守るもの”…そう、私は守られている。
父や兄にも守られていたが、それは家族としての当然の愛情や義務だった。ジェラルドは…つい何ヵ月か前までは何も知らなかった他人だ。しかもとてつもなく大きな物を背負っている人だ。
守るものは少ない方がいいに決まっている。
何日かジェラルドの仕事振りを観察したが、驚くべき量のことをこなしていて、カレンは改めてジェラルドの凄さを知った。
ベッドの横に衝立を立ててもらったので、時間を決めてフリードやアイザック、他の部下もこの部屋へ訪れる。聞くともなしに話を聞いていても、様々な内容のことがとてつもない早さで処理されていくのがわかった。
この数ヶ月、よくカレンとの時間を割いてくれたものだと思う。なんだかもう、それだけで申し訳なさでいっぱいになる。今だって、カレンの着替えから食事まで手ずから行ってもらい世話をかけている…
この愛する素晴らしい人に、ただ守られるだけでなく、どうすれば私は守ることができるのだろう。
どうすれば“弱み”にならずに側に居れるのだろう。
次から次へと湧いてくる心の呟きに、カレンは知らず眉根を寄せていたらしい。ジェラルドが心配げな顔だ。
「カレン、どこか傷む?」
甘くて優しい、安心する声。深緑の瞳。
大好き。
カレンは首を短く振ると、目を閉じた。
・
その日の夜半過ぎ。月明かりに照らされた静かな夜。
執務室に、ジェラルド、フリード、アイザックの3人がいた。
久しぶりに3人でグラスを傾けている。いや、フリードはまだ仕事をしていた。
「しっかしお姫様にはほんと驚かされっ放しだぜ」
「何も考えてないただのお姫様ではないってことですよ…わかってましたが」
アイザックとフリードは驚くやら感心するやらだ。
「……」
ジェラルドは黙っている。
フリードとアイザックは目配せし合う。
「…聞きますよ、ジェラルド」
フリードは書き物の手を止める。いつものようにジェラルドの聞き役だ。
「…手に入れたかと思うとすり抜ける」
ジェラルドは遠くを見つめる。
「それが恋愛の醍醐味ってモンじゃねーの?」
「珍しくまともな意見ですね、ザック」
フリードは眉を上げる。
「うるせーよ、俺は重いのはごめんだが…そもそも、女の考えることなんてわかんねーから追いたくなるし、だから面白いってことはあるよ」
へえーとフリードは感心した風だ。
「すべてを理解し合えるとは端から思ってない」
ジェラルドはソファに座り、クロスさせた足をそのままローテーブルの上に伸ばしている。珍しくあまり行儀はよくないが、誰も咎めない。
「私は…」
フリードは胸の前で手を組んだ。
「私は、ジェラルドとカレン様の仲睦まじい姿を見るのが好きですよ。…微笑み合って、互いに信頼を預けている姿が。そんな二人を見ていると、ああ、ダヴィネスは大丈夫だ、これからも心配ないと、強く感じます…理屈じゃないんですよ」
フリードはジェラルドを見る。
ジェラルドは黙ってグラスを傾ける。
「いいじゃないですか、すり抜けたらまた捕まえてください。何度でも。粘り強く攻めるのはあなたの得意な戦術だ」
アイザックはそーそーと頷く。
何度でも…か
ジェラルドはグラスの残りを一気に呷った。
その様子を見たアイザックも一気に呷る。
「…ってか、フリード、お前シラフ?まじ?自家発電でアドバイス?…信じらんねー」
と、いつもの調子に戻る。
うるさいですよ、私にも注いでください、と
フリードが言った時、執務室のドアがノックされた。
「入れ」
ジェラルドの許しの声で現れたのは、今日のカレンの護衛番のネイサンだった。
3人に緊張が走る。
「報告します。お部屋の中から椅子がぶつかるような音がし」
最後まで聞かず、ジェラルドがガバッと起き上がると、風を起こす勢いで寝室へ向かった。
・
同じ日の同じくの夜半過ぎ。
ジェラルドの寝室。
パチリとカレンは目が覚めた。
断続的に眠る生活のせいか、思わぬ時間に目が覚める。
首を巡らせて、サイドテーブルの時計を見ると、続けてジェラルドが寝る時に使う大きめのカウチを見る。
…いない。
カレンが広いし構わないと言うのに、ジェラルドはカレンの肩や手の怪我を気遣って、一緒のベッドは使わなかった。
暖炉の火がパチパチと燃えさかっている。
今夜は月が明るいのか、窓枠の形が部屋の絨毯にくっきりと明るい影を落とす。
ちょっとだけ
カレンは慎重に怪我をしていない方の肩を下にして、ゆっくりと起き上がろうとした。
「うゎっ… っいたっ」
三角巾を巻いた肩が痛く、その痛みは腕にも響く。支えがないので、いったいどこに力を入れればいいのかわからない。
でも、もうちょっと。
おそるおそる、少しずつ起き上がる。
ふう。
やっとのことでベッドに腰掛けることができた。
続いて、立ち上がる。
支え無しで立つのは久しぶりで、足元がおぼつかない。その場で少し足踏みしてみる。
室内履き…は、今は面倒だった。
久しぶりに歩く感覚を確かめたくて、部屋の中をウロウロする。
「あっ!…っつ!」
ガタンッ
ジェラルドの執務用の椅子に足を取られてよろめきそうになり、とっさに右手を動かすと、まずは肩、そして手のひらに鋭い痛みが走った。
結局支えきれず、中途半端な体勢で椅子に座り込む。
~~~ッツ!
肩のあまりの痛さに背を丸めてやり過ごす。
「…もう…」
あまり痛みは引かないが、気を取り直してゆっくりと立ち上がる。
バルコニーへ通じる窓の鍵を開け、キィと軽く軋む音で窓を開けると、夜の冷たい外気に全身が晒された。
裸足のまま、ソロソロとバルコニーに出ると、手すりまで歩く。
やはり今日は満月に近い月だった。
月明かりに照らし出される、雪に覆われた庭。
ところどころキラキラと静かなきらめきを見せている。
まるで別世界のようだ。
「キレイ…」
カレンはダヴィネスの雪景色に何度も心を奪われる。まるで、深緑の瞳に何度も捕らわれるように…
手元のこんもりと雪の積もった手すりに左手を乗せた。手の形に雪が沈む。
「!」
急に背中が暖かさに覆われ、同時にムスクウッディのよく知る香りに包まれた。
続いて手すりのカレンの手の外側に、大きな手が添えられ、カレンの右側からもうひとつの大きな手が腰辺りに回ってきた。
「…」
ジェラルドは何も言わない。
少し、苦いお酒の香りが漂う。
つむじにキスを落とされた。
次にこめかみへ、次に耳へ…そして細い首筋へ熱い唇を感じる。
首筋の唇はそのまま下へ辿る。
「ッツ!」
ジェラルドの動きに沿って、左へ首を傾けた瞬間、右肩にツンとした痛みが走った。
「すまない!」
ジェラルドは慌てて唇を離す。
カレンは小さく首を横に振った。
「体が冷たい。中へ入ろう」
カレンの手を取り、腰を支えて室内へ入る。
暖炉近くのカウチへカレンを座らせると、タイミングよくモリスが湯を張った洗面器とタオルを持ってきた。
以前と同じように、カレンの足を温かな濡れたタオルで拭う。
「…すみません、ありがとうございます」
「目を離すと、この足はすぐにどこかへ行ってしまう」
言いながら、カレンの足へ室内履を履かせた。
ジェラルドは自分のガウンを取りカレンの肩へそっと掛けると、怪我をしていない方へ腰掛け、己の胸へカレンを持たれ掛けさせた。
ジェラルドのシャツ一枚を隔てて、固くて温かな感触が広がる。
お互い黙って、暖炉の火を見つめる。
「…ジェラルド」
「ん?」
「スタンレイ男爵は?」
騒ぎからこちらカレンは気にはなっていたが、改めてランドールの話はしていなかった。
フリード達ともこの部屋で話をしているのを聞いたことはない。
「…まだ捻挫がよくならないらしいが…人が変わったように大人しくしている」
こちらも助かる、と答える。
ディナーの時のジェラルドの発言も気になるが、領主としての考えを聞くのは憚られる。
そんなカレンの思いを察したのか、ジェラルドは続けた。
「ヤツの処遇については…表立っては保留ということにしているが、恐らくこのままだ。ヤツには大人になってもらう」
…よかった
カレンはホッとした。
今回、彼は誰かを故意に傷つけたわけではない。カレンの怪我は行き掛かり上のものだ。拗れたものが少しでも解れれば、変わりようはあるだろう。
「カレン」
「はい」
「あなたがヤツに心を砕く必要はない」
「…でも」
「チャンスは与えた。あとはヤツ次第だ」
…厳しい。
「…私、スタンレイ男爵のことは嫌いではないんです」
「?!」
ジェラルドはもたれ掛かるカレンの顔を勢いよく見る。
カレンもジェラルドをゆっくり見上げる。
「…なんとなくだけど、男爵のお気持ちはわかるから」
「カレン、憐れみや同情は…」
「好きな人が離れるのは辛いから」
ジェラルドの深緑の瞳が、優しくカレンを貫く。
「ふふ、私、雪の窪みの中で男爵に言われたんです『ジェラルドをその顔と体で籠絡させて、さぞ気分がいいだろう』って」
「なに?」
アイツめ…とジェラルドは憎々しげに呟く。
「私、『ちっとも』って答えました」
ジェラルドは眉を上げる。
カレンはジェラルドの胸に顔を預け、暖炉の火を見つめる。
「男爵は、私がジェラルド様を変えてしまったと…自分を必要とされなくなったと感じて…そういうのって、何だか可愛いっていうか、ちょっといじらしいっていうか…」
そんな心配はいらないのに…
「…カレン」
ジェラルドは大きな息を吐いた。
カレンの顎をつまみ、無理のない程度に上に向かせる。
「理由はどうあれ、ランドールはあなたを傷つけようとした。それに疑いの余地はない」
「…私は傷ついていません」
ジェラルドの目をまっすぐに見つめる。
「私は…」
あなたに守られているから傷つかない
「あなたを守りたいの、ジェラルド」
ジェラルドの目が大きく瞠かれた。
腕の中にいる信じられない存在に瞠目する。
満身創痍で自分では何もままならない状態だというのに、なおも「ジェラルドを守りたい」と言う。その強さと美しさにひれ伏したい気持ちだった。
透き通ったライトブルーの瞳から目が離せない。
ジェラルドは幾分やつれたカレンの頬を片手で包む。
「カレン、私はあなたに変えられることを微塵も恐れていない。あなたは私の弱みにはなり得ない、強みでしかないんだ」
ー 私は…あなたに守られているから強く在りたいと思える ー
紛れもない真実だと、深緑の瞳が訴えた。




