28. 守り、守られること(上)
カレンは廊下を走っていた。
もはやニコルは追い付いていけない。
何も考えることができなかった。
激怒したジェラルド、部屋の隅に横たわるランドール…ジェラルドの悲しそうな瞳…さっきまでの場面が次々と頭をよぎる。
自分の激しい呼吸が耳障りだった。
もう息ができない…と、壁に手をついて立ち止まる。
どこをどう走ってきたか、城と要塞の境目あたりまで来ていた。
厩舎へ通じる回廊には篝火が焚かれているが、ぼうっとした灯りはまやかしのようだ。
カレンは回廊には進まず、回廊に沿って広がる庭へと足を踏み入れた。
夕方から降り積もった雪がかなりの厚みになっている。
わずかな月明かりはあるが、夜空は曇っていた。
まだ足跡の付いていない雪の上を進む。
一歩ずつ進むにつれ、シン…と音のない世界がカレンに染み渡る。
小さなベンチを見つけた。
雪を払い、座る。
吐く息は白く、頬や耳が冷たい。
まだ何も考えることはできないが、ジェラルドの顔や瞳が思い浮かぶ。
カレンは目を閉じた。
…傷つけたわね…
重苦しいものが、胸に広がる。
その時、厩舎の方向から人の声が聞こえた。言い争うほどではないが声が大きい。
こんな時間になんだろう?
カレンは気になり、厩舎へ向かった。
そこには、すでに顔見知りになった若手の馬丁がいた。かなり慌てた様子だ。
「どうしたの?」
「あっ、レディ、ああの、今スタンレイ男爵が…」
「え?」
聞けば、ランドールが尋常ならざる様子で現れ、鞍も着けずに駆け出したという。
護衛は誰もいない。
「どの子に乗ったの?」
「ご自分の馬に乗られました…」
…!…
カレンはため息を吐いた。
ダヴィネスの馬なら雪にも慣れ、土地勘も強い。しかし南部の馬で、しかも鞍無しではもはや自殺行為だ。
嫌な予感がする。
「オーランドに通常の鞍を着けて!大至急!!」
言葉が勝手に出た。
「え、ええ???」
「早く!…あ、でも、その前に本当にすまないけどあなたのブーツを貸して欲しいわ、ついでにロープも」
戸惑いまくる馬丁からブーツを剥ぎ取り、自分の華奢な靴は脱ぎ捨て、大急ぎで馬丁の編み上げブーツを履く。
ワケのわからない馬丁は、言われるがまま芦毛の元暴れ馬、オーランドへと鞍を着ける。
本当はタラッサの方が土地勘はあるけど…でも今はオーランドのスピードが欲しい。
カレンが“通常の鞍”と敢えて言ったのは、晩餐用のドレスで跨がって乗るためだ。
ストラトフォードの領地では、ドレスで跨がって乗馬したことが何度かある。こっそりだが。
今はとにかく急ぐので、着替える時間はない。
「レディ、できました!」
馬丁は靴下姿で、鞍を着けたオーランドを引いてきた。早い。プロ意識に感謝したい。
「すまないわね、本当にありがとう」
カレンは一言言うなり、ヒラリとドレスでオーランドに跨がり、声を発して駆け出した。
まだそう遠くへは行ってないはず!
・
一面の雪原に見えるが、よく見れば馬の足跡がある。
カレンはスピードを落とさないようにしながら注意深く足跡を追う。
足跡は森へと向かっていた。
まずいわ…
雪が積もった森は障害物の見分けが付きにくく、急な坂や窪みにはまることもありとても危険だ。
カレンは慎重にオーランドを進ませる。
手袋も借りればよかった…
さすがに手が冷たい。
手が冷たさで利かなくなる前にランドールを見つけたかった。
足跡が途切れた。
この先は…確か深さのある窪みがあったはず…
と、近くで馬の鼻を鳴らす音と息が聞こえる。
見回すと、少し離れてダヴィネスの馬ではない鹿毛がウロウロとしている。
あの子ね!
カレンはオーランドから降り、そっと鹿毛に近づくと、どうどう…と声がけして落ち着かせ、ひとまず丈夫な木に手綱をくくりつけた。
さて、乗り手は…
と、窪みを覗くと、案の定ランドールが横たわっている。
落馬して転がり落ちた…?意識は…怪我は?
とにかく確かめよう。
ランドールまでの距離は…3mほどある。
ロープ、持ってきてよかったわ
近くの木へロープをくくりつけ、自分の体へも巻き付ける。
手が冷たさで痛い。ドレスも邪魔だが仕方ない。
用心しながら窪みへと降りた。
雪のクッションのお陰か、パッと見た目は大きな怪我はなさそうだ。
近づき、顔を覗く。...息はある。
カレンはひとまずホッとする。
…ジェラルドに殴られた痕が生々しい。
血はきれいに拭ってあるが、顔の左側は赤く腫れ上がっている。
天使の顔は台無しだけど…
「スタンレイ男爵、大丈夫ですか?」
耳元で呼び掛ける。
何度か呼び掛け、肩のあたりを軽く叩く。
「…」
うっすらとターコイズの目が開く。
「男爵?」
ジロリとカレンを見る。
「…な…なんで、君…が助けにくるのさ…」
こんな状態でも悪魔健在だ。
でも意識はある。よかった。
「偶然通りかかったのです」
「…よく言うよ」
「…とにかく、城に帰りましょう。このままだと確実に死にます」
カレンだって、ドレスで馬を飛ばしたのだ。早く帰りたい。
問題はここからどうやって二人登るか…
「…ねばいい」
「え?」
「うるさいな、死んでもいいって言ったの」
ああ、やっぱり。
ジェラルドに、心酔する好きな人に殴られ、存在を切るとまで言われたら…死んでやる~となるだろう。
令嬢的な思考はわからなくもないが…ランドールの場合、姉のレベッカに自分を重ねて拗らせている。
「ダヴィネスで死ぬのは止めてください。はっきり言って迷惑です。あなたはまだ南部を治めているのですから」
取りようによっては嫌味だが、ランドールの顔色はかなり悪い。早くこの場から脱したい。
急ぐカレンは歯に衣着せない。もはや令嬢版のカレンはどこにもいない。
「…なんだよ、エラソーに。キレイなその顔と体でジェラルドを籠絡させて…さぞ気分がいいだろうね」
「いえ、ちっとも」
カレンはイライラしてきた。
「君なんかがベッカの後釜なんて…」
フリードから話を聞いた時は多少同情もしたが、この拗らせ方は質が悪すぎる。
「僕はもうベッカの代わりにジェラルドの役に立つことさえ拒まれたんだ。生きてても仕方ないよ」
…涙声だ。
「…いい加減にしてください」
「君に何がわかる」
カレンは大きなため息を吐くと、ランドールの顔の真上から目を合わせて話す。
「わかりたくもないわ。甘えるのも大概にしてください。ダヴィネスの皆が…ジェラルド様がいったいどれだけワガママなあなたに気持ちを割いていると思うの?わかっているのにわからない振りはやめて。付き合ってられないわ」
ランドールの目がこれ以上ないほど大きく見開かれた。
さあ、ここから抜け出すわよ。
カレンはまず、ロープを使って一人で上まで登った。
ランドールは空を向いて、目を大きく見開いたままだ。
木にくくり付けていたロープを外して、オーランドへと括りつけた。
「オーランド、そのままよ、待っててね」
再び窪みに降りると、ランドールを抱き起こした。
華奢な見た目とは違い、ずっしりと重い。
「スタンレイ男爵?立てますか?」
ランドールは下を向いたまま、無言で首を横に振った。
もしかして足をやられてるのかも…
急がないと。
「お嫌かと思いますが、少し我慢なさってください」
自分とランドールをロープで結び付ける。
左手はランドールの腰に手を回し、右手はロープを握った。
「オーランド、いいわよ、ゆっくりね」
右手のロープを手綱のように少し引くと、オーランドが進み出し、カレンとランドールは少しずつ上に引き上げられる。
順調に半分ほど行った時、オーランドの動きが止まった。
やっぱり重いかな…
カレンは右手の感覚がほとんど無くなった。
だがロープを離すわけにはいかない。
左手はランドールを支えている。ランドールは完全に脱力体勢だ。ロープで繋いでいるとはいえ、こちらも手を離すわけにはいかない。
次の瞬間、オーランドが急に動いた、と思ったらカレンの右手にピリッと鋭い痛みが走る。
ロープで擦れたかもしれない。
でも冷たすぎて、それ以上の痛みはない。
「オーランド…もう少し、お願い頑張って…」
声かけもやっとだ。
その時、オーランドの動きに反して、二人分の体重が重なったロープが宙を舞った。弾みで壁にあった出っ張りにドレスのスカートを取られ、ロープを持ったカレンの右肩が奇妙に捻れた。同時に右肩に劇痛が走る。
「ッツ!!」
今まで感じたことのない痛みに、カレンの顔が苦痛に歪む。
…あぁ、支えきれないかも…
やっぱり一人じゃ無理だったか…と、己の非力を恨めしく思いながら、オーランドへ一旦下ろすよう声を掛けようとしたその時、ロープが今までにない力で引っ張り上げられ、カレンとランドールは芋づるのように雪の上に倒れ込んだ。
「カレン!」
ジェラルドが必死の形相で、上がってきたカレンを抱き起こす。
肩の痛みが酷すぎて返事ができない。
「ジェラ…ル…」
助かった…。ジェラルドが…が引っ張り上げてくれたのね。
フリードやアイザック、ダヴィネスの騎士やランドールの護衛達もいた。
ジェラルドがすぐさまカレンとランドールを繋いだロープを解く。
カレンはとにかくランドールが心配だ。だが右肩が痛くて頭が回らない。左手で右腕を押さえて蹲る。
「スタンレイ男爵が…「カレン…肩をどうした、それに…!!」」
ふと見ると右手が真っ赤で、ロープから血が滴り、雪の上にポタ、ポタ、と赤い染みを作る。
ジェラルドの顔を見た安堵で、手のひらと肩に違う種類の痛みがあることを自覚する。
ジェラルドはカレンの氷のような手を持ち、手のひらを見ると顔色を失くした。
眉間に皺を寄せ、すぐに応急処置を施す。
自分のクラバットを外し止血のためカレンの手に器用に巻き付けるが、またすぐに血が滲む。
次にカレンの右肩のあたりを触る。
「!!!」
あまりの痛みに声にならない。気が遠くなる。
「外れてる」
確認したジェラルドの顔がますます厳しくなる。
「ここじゃ無理だね、手のひらも酷いし」
見ていたアイザックがジェラルドに話す。
ジェラルドは無言で頷き、トラウザーのベルトを外すとカレンの腕を仮に固定させた。次いでマントを脱ぐとカレンを包んだ。
「フリード、そいつのことは任せる!」
「かしこまりました!」
ランドールのことは二の次だ。
スヴァジルにカレンを抱いて乗り、城への道を急いだ。
カレンの額に汗が浮いている。
苦痛に耐える顔が痛々しい。
ダイニングでランドールを殴り飛ばした後、カレンに後ずさりをされた時は自分が野蛮人としか思えなかった。
だが、カレンを嘲り続けるランドールを許してはおけなかった。絶対に。
カレンは何か思い詰めた風で、ディナーの際、度々私の怒りを抑えようとした。ランドールの失礼極まりない態度には全く動じずに。
騒動の直後、退出したカレンがどこにいったかわからないとニコルから報告を受け、その時フリードから、ランドールの話をカレンへしたことを聞いた。
カレンが知りたがるのであれば、話すのはやぶさかではない。
ただ、カレンは話を聞いてランドールを憐れんだに違いない。ディナーの時の態度に納得がいく。
ジェラルドはもう一度ランドールを殴りたい気分になる。
殴った時、正直もっと早くにこうすべきだったと思った。
私はランドールを甘やかし過ぎた。
ジェラルドは腕の中のカレンを見る。
真っ青な顔で眉間に皺を寄せている。おそらく肩の痛みで意識が飛ぶ寸前だ。
…ランドールをのさばらせた結果、カレンをこの状態にしたのは、自分だ。悔やんでも悔やみきれない。
城中カレンの行方を探すなか、ランドールが馬を駆って飛び出したと報告を受け、さらに上を下への大騒ぎとなった。
次いで回廊付近でカレンを見たと見回りの兵士と馬丁からも報告があり、ランドールを追ってカレンも馬を駆って飛び出したことを知った。
「カレン…」
なぜあなたはいつも私を守ろうとするんだ
ジェラルドは汗の浮くカレンの額に軽くキスを落とすと、スヴァジルのスピードを上げた。
「ジェラルド!俺は先に帰って準備する!正面に着けろよ!!」
ジェラルドの返事は待たず、アイザックはスモークのスピードをぐんぐん上げた。
雪に慣れっこのダヴィネスの馬達は、その膝まである雪ももろともせず、雪煙を巻き上げて城までの道を急いだ。




