26. 辺境の伊達男、もしくは悪魔(中)
「今日はビー(ベアトリスの愛称)の所へ行ったそうだな」
その日の夜、ジェラルドは仕事のキリがつかず、ディナーはともにできなかった。
寝支度を整え、鏡台に向かってニコルに髪をとかしてもらっていると、ノックの音とともにジェラルドが入ってきた。
ニコルは何も言わず一礼してさっと去る。
鏡越しにジェラルドと目が合う。
「はい。ご体調も安定されていて、お顔の色も良かったです。ダヴィネス城へのお里帰りも楽しみにされていて…」
カレンはジェラルドの方へ振り向いて続けた。
「それに、とても有意義なお話ができました」
ニッコリと応える。
風呂上がりの艶々とした肌、ダークブラウンの腰まで届く髪もしっとりと輝き、白い寝着に落ちている。
有意義か…
ジェラルドは呟くとカレンに近寄り、その細い顎を掬うと確かめるように親指でふっくらとした唇をなぞると、ゆっくりと口づけた。
「話を聞く前にあなたを味わいたい」
カレンに反論は全くない。
熱を湛え揺らめくダークグリーンの瞳に、今日も捕らわれる。
カレンが両腕を伸ばすと、いとも簡単にふわりと横抱きにされ、ベッドへと運ばれた。
・
「ジェラルドバカ…?」
「ええ」
クスクスとカレンは笑う。
カレンはジェラルドの腕の中で、うっとりとその端正な顔に手を添えている。
カレンは、心身ともにたっぷりとジェラルドから愛を受けた後の、この時間が大好きだった。
ジェラルドの腕の中で、ぴったりと体を寄せて色々なことを話す。
ジェラルドの願いもあり、ベッドではカレンは敬語はなるべく使わないことにしているので、その気安さもあり遠慮なく話せるのかも知れない。
取り繕うことは何もないので、立ったり座ったりしていては聞きづらいことも話しやすく、カレンは好奇心の赴くままにジェラルドに質問していた。
それは、つい先程の睦み事からダヴィネスの歴史についてまで、多岐に亘る。
ジェラルドは驚くべき誠実さで何にでも率直に答えてくれた。
ただ、睦み事についてはたまに言葉を濁すこともあるが、概ねカレンは納得する。
話の間にはキスや愛撫を挟み、溶けそうな時間が互いを癒す。
(その後にまた濃密な時間となることも多々あるが…)
カレンがこの時間をこよなく愛するにはもうひとつの大きな理由がある。
ジェラルドは言わずと知れた辺境伯閣下で、謂わば公人だ。それは“みんなのジェラルド”を意味する。
そのジェラルドが、カレンとだけ向き合う時間は起きている間は案外少ない。当然常に人目もある。
だが、この時間だけは“私のジェラルド”として、すべてを晒してくれる。
それがたまらなくカレンを満たすのだ。
睦み事は本能と感覚の世界だが、この時間はカレンの意志と願望が先行していた。
カレンはジェラルドを愛してから、自分の独占欲の強さに驚いた。
このことはジェラルドには秘密だ。
今は、昼間のベアトリスとの話をしていた。
だいたいビーの話で間違ってない、とジェラルドは言った。
ベアトリスにランドール・スタンレイ男爵の話を聞きに行ったことは、カレンの行動力を予想していたのか、全く咎められなかった。むしろベアトリスが放った言葉にジェラルドは反応した。
“ジェラルドバカ”と聞き、当の本人は何だそれは、という顔だ。
「心酔の枠は通り越しているとか」
「気味は悪いが、思い当たることはある」
「…やっぱり」
これは…警戒すべきかしら。
でも、まだ正式には“夫人”ではないから、そこを突かれると…
でも一応配下だし、皆もうんざりながらも受け入れはするのよね…それだけの働きはしてるってことだし…
「カレン」
考えていたら、眉間にキスが落ちてきた。
知らず、皺を寄せていたらしい。
「カレン、念のために言っておくが…」
カレンは、ん?とジェラルドの瞳を見つめた。
「戦わなくていい」
「…!」
ジェラルドはカレンの闘争心に火が点く前に先手を打った。
こういう所は本当に敵わない。なんでこんなに勘がいいのだろう。
「ヤツは良くも悪くも、人の心情を煽る術を心得ている。まともに受け取らないことだ」
ああ、ベアトリス様曰く、人たらしってやつ…。
「あなたは私の唯一なんだ」
ジェラルドの真摯な瞳の稜線が揺らめいている。
「傷ついてほしくない」
「でもジェラルド…」
これでも?と、ジェラルドが首筋をペロリと舐めあげた。
「ッん…ん」
急な動きに、カレンは逃れようのない官能を植え付けられる。
続けて強めに吸い付いたようだ。
たまらず、甘い声が漏れる。
「…いい声だカレン…愛している」
「…ジェラルド…」
こうなってはなす術はなく、カレンは愛の波に意識を取り込まれた。
・
翌日のダヴィネスは、北からの風が吹き下ろす、曇り空の冬らしい日となった。
ランドール・スタンレイ男爵がいつ現れるのかわからないので、カレンは朝から多少気合いを入れて身なりを整え、心の準備をしていた。
使用人達は昨日から男爵を迎える準備に忙しく、城の雰囲気もどこかザワザワとしている。
昼を少し過ぎた頃、カレンは自室で読書をしていると、モリスが男爵のおとないを告げに来た。
来たわね。
「すぐに降ります」
念のため、ニコルに全身をチェックしてもらう。
「大丈夫です、お嬢様。完璧です」
「ありがとう」
ニコルを伴って階下の玄関ホールへ向かうと、すでにジェラルドやフリード達は来ていた。
ジェラルドはカレンを認めると、微笑みながら手を伸ばして、こちらへ、と合図し隣に立たせると頬へキスした。
耳の側で「キレイだ」と囁くのを忘れない。
初対面の問題児だ。少し緊張するが隣にはジェラルドがいるので大丈夫。
カレンはそっと深呼吸した。
と、玄関が大きく開き、冷たい風と同時に“悪魔”が入ってきた。
一風でカレンの垂らした髪が少し乱れる。
「ランドール・スタンレイ男爵のご到着です」
モリスが告げた。
「ジェラルド!!」
風とともに入るが早いか、はじける笑顔でジェラルドへと飛びつき、一方的に抱擁している。
“悪魔”はベアトリスの言ったとおり“天使”の容貌だった。
艶々としたブロンドは短髪に整えられ、絵画的に美しく整った目鼻立ちは優美そのもの。鮮やかなターコイズの瞳。すらりとした体型と相まって全体的に中性的な印象を受ける。
濃紺の軍服に純白の毛皮を羽織り、どこかの国の王子風情だ。
「会いたかったよ、ジェラルド…!」
感極まった様子だが、抱きつかれたジェラルドは抱擁に応える様子もなく、無表情だ。手すら回していない。
「離れろ、ランドール」
普段より幾分低めの声で発する。
「嫌だよ、ねぇジェラルド、なんで秋に南部に来てくれなかったの?」
甘えるような仕草でお構い無しだ。
「…優先すべき他の案件があった。南部は落ち着いている」
「僕が治めてるからね。ねえそれより…」
ジェラルドはおもむろにランドールの襟首を掴むと、バリッと自らの体から引き剥がした。
「ッ! もうなんだよー あ、みんな元気?」
カレンは呆気に取られていた。
本人のキラキラしい容貌はもちろん、ジェラルドへの態度、言葉使い…ベアトリスの言った「ジェラルドバカ」や「常識抜け落ち」を、ああこういうことか、と自分を納得させることに忙しい。
…なるほど。確かに。でも、これは何て言うか…駄々っ子?子供みたいな…
ふと見ると、フリードやモリス達も無表情だ。
「…あれ、君、だれ?」
ランドールの目線が、隣のカレンで止まる。
「ランドール、紹介する。私の婚約者だ...カレン?」
「はい。お初にお目にかかります。スタンレイ男爵、カレン・ストラトフォードでございます」
カレンに向けて微笑むジェラルドに促され、如才なく完璧な美しい礼を取った。
「……」
ランドールは先程までとは打って代わり、真顔で一言も発することなく、カレンを上から下までじっと見つめた。
その目が左手の指輪に釘付けになる。
玄関ホール全体に緊張が漂う。
皆、カレンとランドールとの初対面を固唾を飲んで見守る。
「…へえ、ほんとに婚約したんだ…」
「しかも」と、ツイとカレンの左手をすくう。
「こんな指輪まで」
ゾッとするほど冷たく呟く。
ターコイズの瞳はほの暗く変化し、何を考えているのか底知れない。
「婚約者なのに、もう女主人気取り?」
「…!」
カレンの目が大きく見開く。
…ここで怯んではだめだ。
ジェラルドがすかさずランドールからカレンの手を取った。カレンを見る目は「乗せられるな」と訴えている。
カレンは、孤高の侯爵令嬢の極上の笑みを久しぶりに引っ張り出した。
「ふふ、いえまさか。まだまだ至りません」
「ふーん…あ!」
ランドールは、しつこく不躾にジロジロとカレンを観察し、次の興味の対象を見つけたらしい。
乱れたカレンの髪の方の、耳の下あたりを凝視している。
何?!
イヤリングはさほど目立たないものだったはず…
その天使の顔が、みるみる嫌悪に染まる。
「付いてるよ、嫌な印が…仲良くやってるんだね」
何の感情も含まない声音だ。
…!!
これにはカレンもとっさに取り繕えなかった。
夕べジェラルドにきつく吸い付けられた跡だ。
垂らした髪が風に吹かれて乱れたままで、スタンドカラーの上、耳の下のわずかな隙間の首筋が露になっていたところを目敏く見つけられた。
カレンの顔に朱が走った。
とっさに跡を手で隠す。
「口を慎め!ランドール」
ランドールの言葉にジェラルドも一瞬ギョッとはしたが、すぐにカレンを腕の中へと取り込んだ。
ランドールは二人の動きに、フフンと意地悪そうにしてやったり、という顔だ。
「あーあ、なんだかつまんない。僕おなか空いてるんだよね、エマー?」
…悔しい。
カレンはジェラルドの腕の中で俯いている。
ランドールの興味はすでに次へ移っている。
うんざりしつつも、客人はもてなさねばならず、呼ばれたエマははいはいと対応に追われる。
「僕の部屋はいつものとこー?ごはん食べたら南部の報告会?」
すっかりランドールのペースだ。
二人を気にしつつも、モリスや他の侍従達、フリードらの動きが急に慌ただしくなった。
「ジェラルドも早くきてよねっ」
ランドールは歩きながら、言い放つ。
「すみません…行ってください」
カレンは自らジェラルドの手を押した。
面倒な人でも、南部を治めている要人なのだ。だから皆も渋々でも受け入れるわけで、それはジェラルドにとっても同じだ。
「カレン、すまない」
「いえ」
関係の近い使用人達とはいえ、公衆の面前で辱しめを受けたことに変わりはない。
淑女に対してあるまじき行為だった。
しかしカレンは自分だけというより、ジェラルドごと侮られたような気分だった。
羞恥はしたが、自分のことはいい。
だが、ジェラルドを嘲るのはどうにも許しがたい。
少し冷静になって考えたかった。
「大丈夫です。ジェラルド様」
努めて明るくジェラルドに言う。
「しかし…」
ジェラルドはなおも心配そうにカレンの顔をのぞく。
私には私の戦い方がある。
「本当に、ご心配なさらないで」
ジェラルドの腕を安心させるように優しくポンポンとすると、ジェラルドはカレンを改めてきつく抱き締め、つむじにキスするとようやく離れフリード達の後を追った。
カレンは自室への廊下を歩きながら、ふと父の言葉を思い出す。
- 搦め手を使う奴に手加減は無用だ -
はい。お父様。
ジェラルドの諌言虚しく、カレンの瞳にはメラメラと闘志が漲っていた。
その夜、カレンは久しぶりに自室で一人、眠りについた。
決戦の火蓋が切って落とされたのだ。
いやにベッドが広く感じられるが、今はジェラルドに甘えられない。
胸を張ってジェラルドの隣に立ちたい。
…カレンの(謎の)決意の独り寝をモリスから聞いたジェラルドは一瞬困惑したが、手っ取り早く絡み酒のランドールを潰した後、明け方近くにカレンのベッドへ滑り込んだ。
規則正しい寝息を立てるカレンの寝顔をしばらく眺めると、そのこめかみにそっとキスを落とし、自らの懐へとしっかり抱え込んで眠りについたのだった。




