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信孝なんかに『本能寺の変』のとばっちりで殺されていられません~信澄公転生記~   作者: 柳庵


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455/484

455話 南伊勢、蠢動 前段

まさかルイス・フロイスと信長の面会話で3ヶ月かかると思っとりませんでした…。

やっと別エピソードに入ります。

ルイス・フロイスと織田信長が岐阜城面会した永禄十二年七月より、わずかに時は遡る。


時に永禄十二年四月。

滝川一益は、柘植保重、源浄院主玄への調略が始まったことに安堵していた。


「殿からの密命、やっと果たせるな」


桑名城にて甲賀衆の報告を聞いた滝川一益はそう、呟いた。木造家重臣の柘植保重、木造家一門衆の源浄院主玄を織田方に転じさせ、さらにはその主、木造具政を織田方に転ばせる。その為の第一歩としての調略が始まったのだった。



柘植保重は、木造具政の重臣の一人である。

そして、彼は伊賀は柘植、福地の出身であった。もともとは伊賀の豪族福地家の庶流に生まれ、比較的才覚と体格に恵まれていたことから福地家及び本家筋の柘植家で当主を補佐する役割を期待されていた。


が、運命の悪戯というものはどこにでも転がっているものである。

室町時代中期、柘植の一族のうち伊賀を離れ、伊勢に移り住んだ者たちがいた。その家は後年、北畠の有力庶家の一つ、木造御所と呼ばれる木造家の有力家臣となったのだが、北畠氏と長野工藤氏の抗争の中、跡継ぎを次々と失った。そこで、やむなく伊賀に残る柘植本家から養子を迎え入れようと言うことになる。


彼らが柘植本家を訪れた時、福地城を離れ柘植本家で様々な修行を兼ねて立ち働く一人の青年を見た。彼らはその青年を伊勢柘植家の跡取りとして迎えることを願い、それは叶った。

福地家庶流の青年はなんと、伊勢柘植家の当主として抜擢されるという幸運をつかんだのだ。


そして伊勢柘植家の長老達は、彼の出自の弱さを補佐するため、先代当主の木造具康の娘を嫁に迎えることで、主家木造家の一族という肩書を手配した。


この時点では、最上の待遇と婚姻策であったのは間違いがない。が、時は戦国。

木造具政の兄にして北畠家を南伊勢しか領有しない国司大名から中伊勢、志摩をも傘下に納める戦国大名へと変化させた北畠具教の威光も徐々に減じ、永禄十一年には北伊勢から中伊勢は織田家の勢力圏に組み込まれてしまったていた。


長野工藤氏とその支配地域二郡を失い、北畠具教は口惜しい思いをその胸に抱えていたが、伊勢柘植氏の老臣達はさらにその思いを強していた。が、その方向性は違っていた。

自分達が木造家勢の中で一番対長野工藤氏戦では活躍し、当主や世継ぎまで失ったにも関わらず、北畠家はあっさりと長野工藤氏を見捨た、と。何のために奮戦したのか、と。彼らが北畠家は頼りにならないと思い始めても致し方なかった。


そして、伊勢柘植家を継いだ柘植保重は、自分を見いだし担ぎ出し支え続けてくれている彼ら老臣の思いに飲み込まれ始める。


そして、木造家の支配地域は北畠家の勢力下の北端、すなわち織田家の圧を一番に受ける立ち位置となっていた。

しかも、長野工藤氏の当主は織田信長の弟、信包。信長の伊勢平定の意思を感じ取り、安濃城城主を任された津田一安と桑名の滝川一益の支援を受けて信包は北畠家との戦いに備え続けていた。

さらに木造城は周囲に湿地帯があるとはいえ平城である。木造具政とその家臣団は織田信長の北伊勢併呑からこちら、常にその圧に耐え続けていたのだ。


そんな折、伊賀柘植家の遠縁の者が伊勢柘植家を訪れた。その者は、柘植の一族でお伊勢参りのついでに父福地宗隆からの消息伺いの書状を持って現れた。

伊勢柘植家に入ってから、家門を守る為、伊勢柘植家の当主たらんとするために、一意専心励んできた柘植保重が父からの手紙という思いがけず郷愁を誘う品に警戒をわずかに緩めたのを咎めることができる者があろうか。


一晩の宿を請われれば、これを追い払うようなことは偲びなく、また、柘植保重も故郷の話も聞きたいと小さなな宴を催すこととなった。


父福地宗隆からの手紙は、紛れもなく父からの手紙であった。子を思う親心にあふれ、柘植保重の安否を問うところから始まり、福地の一族の消息などが簡単に書いてあるだけの本当の親子の私信に過ぎなかった。


頭の片隅には伊賀からの手紙の形をした密書なども考えていた柘植保重であったが、自分を気遣う久しぶりの父の文字に一人自室にて泪した。


柘植保重とともに伊賀出身の数名がその客人を囲んでの宴が開かれたが、誰も彼の言葉に矛盾を感じることはなかった。


それもそのはずである。近江甲賀と伊賀は山一つ挟んで隣同士。しかも柘植の里は伊賀の北に位置し甲賀との交流も盛んな場所であった。滝川一益に連なる甲賀衆は、以前から親交のある柘植近辺の伊賀衆で滝川の意を受けて動く人物を選び出し、今回の旅人役を依頼したのだ。

柘植の里近くに住む人間が近々伊勢参りに行くと福地の家を訪ね、伊勢に行くときに柘植保重の屋敷の近くを通ると告げて、親子の情をくすぐることばを吐けば、柘植保重宛の消息伺いの書状を手に入れることは難しいことではなかった。


そして、宴の場で彼は織田への転身を促す言葉を酔った勢いを装って少しづつ会話に忍ばせる。


織田家家臣にして北伊勢四郡の主である滝川一益は柘植の里の北、甲賀は南山六家が一つ滝家の縁者であること、その縁で甲賀衆伊賀衆を配下に取り立てていること、伊賀柘植の里の人間数名も滝川一益の配下に入ったこと、滝川一益の下で大身の武家になった者の噂話などを虚実取り混ぜて酒の席のつまみになる話として語っていく。

そして、彼は一夜のもてなしの礼として帰りにまた屋敷に寄るので福地家や縁者の手紙を預かり届けることを申し出るのだった。

こうして、過客の毒は仕込まれて行くのだった。


源浄院主玄、後の世では滝川雄利として知られる人物に対しては更に簡単であった。

源浄院主玄は木造具政の先代、木造具康の遺児である。木造具政が父北畠晴具の命にて木造家に入った後、先代具康の遺児達は冷遇され、出家していた源浄院主玄も木造家の血筋ということで木造城に出入りはできるが当然厚遇はされていない身であった。


木造城から一里ほど離れた源浄院に旅の僧が訪れる。訪れた旅の僧は、伊勢安養寺にて修行する予定だが、こちらで下働きをしながら数日修行したいとの申し出できた。住持とその補佐である主玄は喜び、その申し出を受けてしまう。

当然のようにこの旅の僧は、滝川一益の仕込んだ甲賀衆であった。最初は下働きに修行にと普通の旅僧として働いていたが、主玄に接する度にその才、その出自に感心してみせ、その待遇に髀肉之嘆をかこっていた主玄の自尊心を煽っていく。

源浄院を去る間際には、「木造具政殿が源浄院主玄殿を重く用いないのは損失である」「太原雪斎殿や満済准后殿のように重く用いられて然るべきだ」「自分に北伊勢の滝川一益殿に伝手があるから、望むなら推挙する」などと伝えるのであった。


そして、旅僧が去って少し後、滝川一益の使者が源浄院主玄の下を訪れ、こう伝えたのだった。

『源浄院主玄殿は、名門木造氏の一門で学才見識に優れると伝え聞く。願わくば、当家にお力をお貸し願いたく存じる。木造具政殿をその弁舌にて織田方に引き込む様なご活躍を見せていただければ、千石、いや数千石で当方に迎え入れる準備がある』、と。

更に、義理の兄である柘植保重にも滝川一益の手のものが接触していることを使者は匂わせる。


源浄院主玄は、すぐに飛びつくような真似をせず、明言を避けながらも、無碍に断るようなことはしなかった。それを消極的同意ととった滝川一益の使者は、また近いうち話をさせて欲しいとして、その場は退去するのだった。


が、源浄院主玄の灰色の脳細胞は既に動き出していた。自身の待遇への不満と才を世に明らかにしたいという自己顕示欲を薪として。

滝川雄利が出家して修行したという源浄院は現存しない仏閣のようです。とりあえず、臨済宗のお寺として想定設定しております。


滝川雄利は、木造具康の遺児という説と柘植保重の妻が木造具康の娘という説を採用しています。なので滝川雄利と柘植保重は義理の兄弟になります。


伊勢安養寺は、実在のお寺。三重県明和町の臨済宗東福寺派のお寺です。

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