164話 桶狭間の戦い 第十段
信長率いる四千は、雹交じりの雨の中を駆けた。
信長と一部の小姓衆は今川義元の本陣が田楽狭間の傍の山にあることを知っているが、ほとんどの将兵は知らされていない。
ただ、信長が先頭を駆けていくので、必死についていくだけである。
雹交じりの風雨が打ち付けるが、幸い、背中側であり、顔にはうちかけない。
おかげで進軍は可能であり、さらに時折、強い風が信長軍を後押しするように、その背を押すかの様に吹く。
そしてその頃、田楽狭間近くの丘陵地に本陣を構えていた今川義元は、周囲に雨避けの為に陣幕を張り、大きな傘を出すよう指示していた。
陣幕と傘で少し風雨を避けることができた今川義元は、考えていた。
この風雨が来る前に織田信長率いる四千が中島砦に入ったのは、雹混じりの風雨の中を必死に駆けてきた伝令のおかげで知り得た。
この風雨の中、敵も動くことはあるまいと通常の人間らしい判断を今川義元は下す。
そう、この風雨が収まるまでは、敵も味方も動きは取れない、今は雨が風が落ち着くのをただ、待つしかないと。
で、あれば、雨上がりにあわせて、今後の進軍の方向、方針を決めれば良いと、思考停止。兜を外し、雨避けに専念してしまう。
もともと勝ちが続いていたところに、どしゃ降りとなり、総大将も雨上がりまで休む様子があるとなれば、今川軍の本陣周囲の空気は弛緩しきってしまう。
そして、その空気は、周囲にゆっくりとしかし確実に伝播していく。
一方、信長軍は、手越川の北岸を十町ほど、今の距離にして一キロほどを駆けた。
信長の頭の中には、善照寺砦を出るまでに集めた敵の布陣が入っていた。
そして、今のところ、想定通り会敵することもなく、滝川一益や、梁田政綱の手のものが集めてきた情報に矛盾はなかった。
信長がそろそろ渡河するか考慮しながら走り、現在の有松天満宮、祇園寺付近まで進んだとき、ダウンバーストの突風が吹いた。
進行方向左手の数本の松と楠が生える小山に向かって吹いた突風は、そのうち一本の楠の老木を根本から吹き倒したのだ。
それを見た信長はこう言った。
「全軍、止まれ!皆の者も見たであろう!今、楠が東に向けて倒れた!これは、瑞兆である。熱田大神宮のご加護ぞ!風雨は厳しいが、必ずや、敵を打ち倒せる!我に続け!」
そう、檄を飛ばすと、手越川を渡河した。
本来の時間線では、この後の信長軍は、幕山の松井宗信隊の前、敵陣前方を横断し、巻山の瀬名氏俊隊の脇を抜ける。
そして、晴れ間がのぞいたのにあわせて田楽狭間付近に布陣している勝ちと雨で気の緩んだ今川義元本隊に勇躍、打ち掛かることになる。
ちなみに松井隊、瀬名隊ともに、信長軍の動きは見えていたはずである。
見えてはいたが、「この雨の中に陣を動かすなんぞご苦労なことだ」と味方の移動だと思い込んでしまっていた。
雹が降る風雨なか、少し離れたところを動く軍勢の旗指物ははっきり見え無かったのもあろう。
そして、信長軍は中島砦にいると言う思い込みが、風雨の中、行軍する部隊は近くの山に布陣した仲間の軍勢の移動だと勘違いを後押しすることになったのだ。
本来の時間線での桶狭間の戦いのクライマックスは、この後になる。
そう、織田軍二千と今川義元本隊の五千~六千の戦いである。
だが、補項で記載したことを覚えておいでだろうか?
補項にて、江戸時代初期のデータから推察するにこの時代、一般には軍役による総動員数と実際の戦闘員の数には差が有り、戦闘員は総動員数の六割程度なことを示した。
これに対して、織田軍は信長の急な出陣に対応できる人員だけで構成されている。即ち、ほぼ全員が武士かその一族郎党の職業軍人である、と言うことになる。
これらを踏まえて本来の時間線の桶狭間の戦いの戦闘部分を再構成すると、『織田軍 戦意の高い職業軍人約二千』 対 『今川本隊 軍役に駆り出された百姓と気の緩んだ職業軍人の混成部隊 三千~三千五、六百』になる。
そう、戦場全体を見れば『織田軍 二千』対 『今川軍 二万五千』と言う十倍以上の兵力差がある状態は変わらないのだが、この局面に限った局所的兵力差は二倍弱の状態に持ち込んだのだ。
そして、戦意に勝る織田軍は今川義元の首をあげ、桶狭間の戦いで、織田信長は勝った。
さて、本来の時間線の話は、ここまでにして、今一度、この時間線における桶狭間の戦い、手越川渡河直後の織田軍の動きに戻ろう。
この時間線の織田信長の下には四千の兵がいる。
善照寺砦で集めた情報では、渡河地点の南東に、松井宗信隊二千がいるはずである。
雨宿り状態で気が緩んだ状態の二千であれば、檄を飛ばした直後の士気の高い四千で造作もなく打ち破れる、そう、信長は読んだ。
信長は、渡河の前に旗指物その他をはずすように、全軍に指示。
渡河後、陣容を整えていると、雨風が弱くなり始めた。
「皆の者、今川軍はそこぞ!生山の上に陣取る敵に打ちかかれ!勝家、可成、続け!」
織田信長が檄を飛ばすと、織田軍は生山の松井宗信隊に襲いかかった。
敵の主力はいまだ中島砦にいると思ってた松井隊は、今川義元のいる本陣と同じように、雨に濡れるのは嫌だと言う雰囲気で、あるものは武器を置き、あるものは鎧兜を脱ぐような有り様であった。
そこに、織田信長とその麾下にて双璧をなす猛将が率いる精鋭四千が襲い掛かった。
非戦闘員の農民はもとより、軍役で軍装にて参加していた百姓も、その突然の襲撃に恐れおののき、逃げ出す有り様である。
松井宗信以下の武士たちが応戦するも、鎧兜をつけた侍たちの数は少なく、一部の侍たちも本陣方向に逃げ出す有り様である。
四半刻もかからず、信長軍は、松井隊を駆逐、生山・幕山の山頂で凱歌をあげるのだった。




