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信孝なんかに『本能寺の変』のとばっちりで殺されていられません~信澄公転生記~   作者: 柳庵


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163話 桶狭間の戦い 第九段

今回はほぼ考察回。

だって、桶狭間の戦いの資料読み漁ったり、古地図や標高差など地形確認した結果を、考察として残したんだもの。

さて、今回は主に「桶狭間の戦いの行軍経路について」の考察回である。

考察が苦手な方は、前田利家達が参陣し、雨が降り出したところまで読んでいただければ、十分である。

桶狭間の戦いのうち、織田信長が「どのようにして桶狭間、今川義元本陣近く」まで到達したかを知りたい方は熟読していただきたい。


~・~・~・~・~・~・~・~・~・~・


中島砦への道は両側が田んぼで道幅が狭く、大軍が動くには適さない。

鳴海城の岡部元信勢からはもちろん、生山方面の松井宗信勢からもその動きが確認されてしまう可能性が高く、一部の家老は中島砦への移動を押しとどめる意見もあったが、信長はそのような意見は意に介さず、中島砦に動いた。


()()()()()()では、この時、信長に付き従ったのは二千足らず。だが、前述したように、この時間線では、統治者としての器量を示した信長のもとには、その倍近くの四千の兵が集まっていた。


午の刻から未の刻に変わる頃、今で言う午後一時前、中島砦に入った信長軍であるが、信長は中島砦にはとどまる意向はさらさらなかった。

速やかに再度の出陣の触れをだし、移動を開始した。

この時も、一部の家老衆は信長を押しとどめようとしたが、信長は「敵は疲れているが、こちらは新手の兵である!武器等分捕らずに、ただ敵を練りまわし追い崩す!ひたすら励め!」と檄を飛ばし、軍を動かした。


このやり取りの間に、信長お気に入りの同朋衆の拾阿弥を殺害し出奔した前田利家や毛利新介らが織田軍に馳せ参じたと言う。


この後、織田軍が山際に来たときに、急に石礫のような豪雨が降りだしたと言う。


『信長公記』には、石水混じりの雨とあるから、やはり雹を伴うような雨風だったと考えられる。


さらに言えば、松の根本にある一抱え、二抱えもある楠が倒れたと言う表記が『信長公記』には、ある。


この二つを考えれば、桶狭間の戦い直前には、大気の状態が不安定になり、急速に積乱雲が発達。それによって雹を伴う風雨と太い樹木を倒す程のダウンバーストが起こったと見て、間違いない。


筆者と同じ見解を気象予報士の松嶋憲昭氏も示しており、同内容を表題とした書籍を出版している。


それはさておき、降雹により、雹の回りの大気が引っ張られることで、ダウンバーストが発生、あるいはダウンバーストがより強力になることが気象学的には知られていることを読者諸賢も知り置いていただきたい。


一般にダウンバーストの風速は、秒速30メートル以上。まれにはその倍ほどにまで到達することもある。つまり、台風レベルの突風が吹くのである。


この風速の風が吹き、雹を伴った風雨の状態であれば、普通は短時間の屋外の移動などは考えないだろう。ましてや、行軍なんぞあり得ないと考えてしまうだろう。


そう、今川軍本隊の前陣、鳴海方面の警戒を担当する松井宗信軍の物見の衆がその思い込みで警戒を緩めてしまったことを責めることが出来ようか?

自分の顔にめがけて雹交じりの風雨がたたきつける中で通常レベルの警戒態勢を維持しうるだろうか?

おざなりな周辺警戒の状態を通り越してなおざりな物見の状態になったとしてもおかしくないだろう。


さらに、不幸なことに信長軍本隊の移動の少し前、佐々&千秋隊が中島砦を出て、手越川を渡り、左京山から丸根砦や大高城方向に進軍したのも彼らの目を曇らせるには十分だった。


人間は成功体験に引っ張られる生き物である。佐々&千秋隊がそう動いたのであれば、織田軍は、また、同じ動きをするのではないか?そう思い、期待する。

瀬名氏俊の部隊が佐々&千秋の部隊を撃ち倒したのは、今川義元の本隊からも見ることができ、義元は大変喜んで謡い、陣を据えた様子であった。


この様子を見た、松井宗信の部隊はこう考えてしまう。

『もし、織田軍が同じ動きをするならば、左京山付近の軍勢の動きや中島砦から手越川を渡河するところを捉えられれば、瀬名氏俊隊ではなく、自分達が手柄をあげられるのではないか?』と。


今川軍の本隊の前陣を務める松井宗信隊、瀬名氏俊隊の本来の役割は、本隊の警護と早期警戒である。

で、あるが。

同僚の隊が小勢とはいえ織田の部隊を討伐した実績を上げるのを見た松井宗信の部隊が、功名心にかられて、同じ方向に同じように織田軍が動くのではないかと期待してしまうことは致し方無いだろう。


そう、この時点で、鳴海城方向を警戒すべき松井宗信の部隊は、雹交じりの風雨という物理的な視界不良と、雨上がりに織田軍は同様の動きをするに違いないという心理的な視野狭窄、いわば二重の盲目(ブラインド)にとらわれてしまったのである。


その間、信長軍は、手越川の北岸を駆けに駆ける。


ちなみに、山際に軍勢を寄せた時に、急に雹交じりの風雨が降り出した、と「信長公記」の記述はとれる。そして、この山際という地点は、現在の左京山駅の対岸付近のことを指すと考える。

具体的には、名古屋市緑区曽根にある神明社から平子が丘の坊主山公園付近ではなかろうか。


そして、信長軍は「沓掛の峠の松の根元」で楠が東に倒れた姿を見ている。

では、この「沓掛の峠」にある「松」から導き出される場所はどこか?


信長軍は中島砦から出発しているので、この「沓掛」が沓掛城やその周囲の沓掛地区を刺していないのは明白だろう。となると、沓掛方面へ向かう道がある峠、と読み解くしかない。


そして、「松」である。桶狭間付近で昔から「松」のつく地名は二つ。

江戸時代の宿場の雰囲気を色濃く残す「有松」地区と江戸時代の間米村と鳴海村の境界を示す松があったとされる「境松」である。


この二つのうち、大正時代の古地図になるが、沓掛方面に道があるのは、「有松」地区になる。


つまり、信長軍は中島砦を出立し、手越川の北岸を駆け、現在の「有松宿」付近に到達したと考えられる。

なので本作品では、信長軍の進軍経路は以前より信じられてきた「迂回奇襲説」ではなく近年有力になっている「正面強襲」説を採用することになる。


そして、信長は、空が晴れた時、今川義元の本隊の目前に迫っていた様子で、信長が大音声で全軍に檄を飛ばしたようである。

その後、今川義元の旗本部隊を発見し、未の刻、現在の午後二時ごろ、「東」に向けて攻めかかっている。


ここで、大切なのは「東」に攻めかかっていることである。正面強襲説をとる方々も、多くの場合は中京競馬場前駅の傍にある豊明市側の桶狭間古戦場伝承地を主戦場に考えていることが多いが、ここでは、信長の進軍方向的に「東南」もしくは「南」になる。

わざわざ雨の方向を「北西」から打ち付けたと記載した太田牛一なので、信長軍が「東」方向に攻めかかったことを信じてみたい。


そして、今川義元の陣の位置は少し前の段にて大高道からすこし北に入った位置と推察していることを合わせると、今川義元の本陣は名古屋市緑区の「桶狭間古戦場」の周囲の丘陵地、具体的には「桜花学園大学」のある丘陵地の南東の端から長福寺に至る地区の丘陵地に分散して布陣していたのではなかろうか。


そして、そこに至る道は、二つ。織田信長軍は、松井宗信の部隊が布陣する生山・幕山の間の隘路か、瀬名氏俊の部隊の一部が布陣する巻山と前述の幕山の間道を抜けて到達したのではなかろうか。


今回の考察が、もし、歴史の真実であるとするならば、驚くべきは、豪雨の中、敵陣の前方を突っ切る織田信長の胆力!これに尽きる。


そして、信長軍に強襲された今川義元の本陣・旗本は、「桜花学園大学」のある丘陵地に沿って東方向に逃げ、徐々に狭間というべき隘路に逃走、その結果、豊明市側の桶狭間古戦場に到達し、そして、そこで今川義元は討たれた、と見ることができる。


~・~・~・~・~・~・~・~・~・~・


さて、今回の考察は()()()()()()の織田信長、今川義元の動きを考察したものである。


次回は、これを踏まえて、()()()()()での「桶狭間の戦い」を展開する予定である。

堅苦しい文章になったが、ここまで読了していただいた読者諸賢に深く感謝を!

ちなみに文中に出てきた書籍は以下の如くです。


桶狭間は晴れ、のち豪雨でしょう 天気と日本史

メディアファクトリー新書 松嶋憲昭 著


「信長公記」の文章を読んで同じことを考えた先人がいるだなぁ、と正直驚きました。

しかも、書籍にもなっている!

残念ながら未読ですので、読者諸賢でこの本を読んだことがある方は、筆者の活動報告のコメントにでも今回の考察と違う点があれば教えてください。


少しでも「面白い!」「続きが気になる」と思った方は、下の★でご評価いただけると、作品継続のモチベーションになります。

宜しくお願いします。



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