第43話 ベンザ物語
だんだんと暑い日が増えてきた。しかも蒸し蒸しと湿度が高い日が続いている。
そんなある日の朝。
「こういう時は食べ物が傷みやすいから気をつけないとな」
と、ライカと話しながら店の前を掃除していると、
「す、済みません、トイレ貸してください!」
といきなり頼まれた。
見れば、俺より少し年下……16~7歳に見える少年だった。
朝なので周囲の店はまだ開いていないから、うちだけが頼りなんだろう。
「ああ、いいよ」
と、快く貸してやることにした。
5分ほどで少年は出てくるが、よくよくその顔を見ると少し……いやかなりげっそりとしていた。
「ありがとうございました……」
声にも覇気がない。これはひょっとして……。
「君、つかぬことを聞くが、もしかして食中毒か何かか?」
「あ、いえ、なんだか生水にあたったようでして、昨夜からずっと……」
その状態で外出しているというのもどうかと思うが、俺は向こうから持ってきた僅かな荷物の中にある薬のことを思い出した。
「ああ、ちょっと待っていてくれ。いい薬があるんだ」
と言って少年を待たせておき、部屋から『正○丸』を取ってきた。
「水あたりならこれを飲むといい」
「丸薬ですね。……凄い臭いだなあ」
「これが効くんだよ」
水の入ったコップも一緒に手渡し、その場で飲ませる。
「……ありがとうございます」
口中に残る一種異様な臭気に辟易とした顔をしつつも、少年は礼を言って去っていった。
ノロウイルスみたいなものだったら危険なので、一応家の中、特にトイレ周りは念入りに掃除をしておくことにした。
「でも、そういえばこっちに来てからは体調崩していないなあ」
何か加護のようなものでもあるのだろうかと思い当たり、今度神殿に行った時に、もし『女神様』の声が聞けたなら聞いてみようと思った俺だった。
* * *
「へえ、そんなことがあったんですか」
ライカは朝市へ買い物に出掛けていたので少年のことは見てもいない。なので俺としては、見ず知らずの他人にトイレを貸したことだけは報告しておいた方がいいと思ったのだ。
「ええ、もちろん構いませんよ」
相身互いですから、と言ってライカは笑った。
「水あたりした、って言ってたから、気をつけような」
「ええ、そうですね」
この世界にノロウイルスやO―157があるのかどうかは知らないけど、気をつけるに越したことはないからな。
あ、ちなみに、この世界のことをレクチャーしてもらっているお返しに、いろいろ役立ちそうな科学知識を教えているから、細菌やウイルスの害や予防についてライカは理解している。
衛生観念は大事だからな。
* * *
もうあの少年とはあれっきりだろうと思っていたら、翌日の朝、またやってきた。今度は他の店も開いている時間だ。
「昨日はありがとうございました。おかげですっかりよくなりました!」
そして、礼儀正しくお礼を述べてくれた。
「それでですね……」
店の入口に立ったまま話を続けようとするので、
「まあ入りなよ」
と、中へ招き入れ、相談コーナーに座らせた。
「ええと、昨日いただいた薬が凄くよく効きまして、できれば少し分けていただきたいんです。あ、お金は払いますから!」
「うーん……」
向こうから持ってきたのは小瓶なので50粒くらいしか入っていない。向こうで俺も飲んでいたから、残りは30粒くらいだろうか。
だが少年は、なんとなく必死な感じがする。そこで仕方なく、
「10粒くらいならなんとか」
と答えたら、
「それで結構です!」
と言って金貨を2枚出してきた……って、20万円相当!? お金持ちのお坊ちゃんなのかな?
厨房へ行って適当な空き瓶を探し、そこへ正○丸を10粒入れてコルク栓を閉めた。
「こ、この臭いは何ですか!?」
ちょっと出しただけなのに、昼食の仕込みをしていたライカに臭がられてしまった。
「俺の世界のお腹の薬だよ」
「す、凄い臭いですね……」
「まあなあ……。でも、人によってはこの臭いを嗅ぐだけでお腹の痛いのが治る気がするとも言うぞ」
あくまでも治る“気がする”だけどな。条件反射か。
「ありがとうございます!」
金貨2枚も……とは思ったが、凄く喜んでもらえたからまあよしとしよう。
「え、ええと、あともう1つ、お願いというか、質問があるんですが……」
「なんだい?」
「先日、こちらのトイレを使わせていただいたら、とても快適だったのですが、あれってどこかで売っている、もしくはこちらに頼めば作ってもらえるんでしょうか?」
「ああ……」
マイヤー工房のトイレは、俺が改造した。
元々は、縦穴の上に板を渡しただけの非常に原始的なものだったのだ。
それを、木製ではあるが便座を作り、座って用を足せるようにしたのである。
ただそれだけであるが、やっぱり快適だ。
便座には『消毒』と『消臭』の効果を持たせた魔法道具を取り付けてあるので、清潔だ。まあメランさんに頼んで作ってもらったんだけど。
もちろん、メランさんにも同じものを作ってくれと言われましたとも。
「ああ、うちに依頼してくれれば作れるよ」
『ギルド』にも登録してあるが、紙や鉛筆とは違い、考案者はあくまでも俺にしてあるので、誰かのために無条件で作ってやることができる。
ただし値崩れを防ぐため、最低料金だけは守らなくてはならないが。
「本当ですか! 助かります!! あ、僕の家はこの町じゃないんですが……」
「そうなると、便座だけ作って渡すということになるけど」
「あ、それでいいです」
基本的にボットン穴の上に置くだけだから、設置は至極簡単だ。
「わかった。そうだな、明日の夕方に来てくれるかな? 料金は1万マルスだ」
約10万円となる。これは便座と『消毒』『消臭』の魔法道具込みの料金である。
便座は俺が、魔法道具の基板はライカが担当。そして魔宝石は去年メランさんと一緒に採掘したものがまだ残っていた。
「そんなに早くですか? 助かります!」
そこで前金として半金を受け取り、少年には依頼証を書いてもらった。
これは製作を依頼したという証明書で、頼むだけ頼んで受け取りに来ないということがないようにするものだ。
「これでいいですか?」
依頼証に書かれた少年の名前は『フィリップ・ケント』となっていた。
「はい、確かに。それでは、明日の夕方、お越しください。……あ、運ぶために荷車か背負子があるといいと思います」
最後は営業スマイルと言葉遣いで締め。
「わかりました。それじゃあ、よろしくおねがいしまーす」
フィリップ君は手を振って帰っていった。爽やかな少年だったな。
* * *
その日は鏡の研磨が2件と、剣の研ぎが1件入っていたが、どちらもスキルのおかげで時間を掛けずに終わらせることができている。
なので、余った時間に便座製作だ。
直径40センチ、長さも40センチほどの切り株のような丸太が材料だ。
ここにスキルで直径20センチほどの穴を空け、釿に似た工具で全体の形を荒く削ったあと、鉈と小刀で整えていく。
そして、仕上げにスキルで研磨だ。
「シュウさん、魔法道具の方もできましたよ」
魔宝石なしの基板は安価なので何枚か用意してあったため、完成は早かった。
俺の方もあらかた完成だ。あとは水分が染み込まないように油を染み込ませるだけ。
これには、確か空気中の酸素と化合して固まる『乾性油』という油を使う。
こっちには一晩で固まる専用の油があって、家や馬車の外壁に使われている。
「これで、よしと」
あとは一晩置いておけば、明日の朝には固まっているはずだ。
* * *
「うわあ! ありがとうございます!」
翌日。
約束の時間にやってきたフィリップ君は、便座を見て非常に喜んでくれた。
「いただいた薬でお腹もすっかりよくなりましたし、恩人です!」
大袈裟な、と思ったが、フィリップ君は本気で言っているようだ。照れるな。
「あ、そうそう。食事前には手を洗うこと。汚れた手で食事をしないように気をつけた方がいいよ」
ともアドバイスしておく。俺はおかんか。
「はい、気をつけます!」
と答えたフィリップ君は、喜々として頭上に便座を掲げて歩き去っていく……まあ、いいか。
あれを見て便座だとわかる人は少ないだろうし、作りたての綺麗な物だしな。
そしてこの日以来、フィリップ君は時々工房に顔を出すようになったのであった。




