3.
夜明け前、霧に包まれた山中に《女神の遺跡》は姿を現した。苔むした石段を登りきった先にあるのは、古の神殿。柱は崩れ落ち、天井からは冷たい光が差し込み、そこだけ別の世界のように静謐な気配を放っている。
ティレスは剣に手をかけながら、深く息を吐いた。
(……必ず“浄化の石”を持ち帰る。リディアを、あの呪いから救うために)
その決意と同時に、神殿の奥から澄んだ声が響く。
「挑む者よ――汝の心を見せよ」
次の瞬間、周囲の景色が歪み、ティレスの視界は暗転した。
気づけば、そこは見覚えのある城の中庭。春の陽光が降り注ぎ、鳥のさえずりが聞こえている。だが、その温もりに反して胸に走るのは、ぞっとする寒気だった。
目の前に現れたのは――リディア。
しかしその瞳は涙に濡れ、彼を睨みつけている。
「ティレス……あなたは、私を守れなかった」
血のように紅く染まったドレス。彼女の胸元には、あの《黒い水晶》が突き刺さっていた。
彼の足は地面に縫い付けられたように動かない。声を出そうとしても、喉が塞がれる。
「あなたはただ命令に従うだけの騎士。いざという時、私を救えず……見殺しにするのです」
「違う……! 俺は……!」
必死に叫ぶが、リディアは微笑んで背を向けた。その姿が闇に溶けるように消えていく。伸ばした手は空を掴み、無力感だけが残った。
続いて現れたのは、仲間の騎士たち。
「お前が選ばれたのは偶然だ」
「王女の護衛など、分不相応だ」
「結局、お前にはなにも守れない」
嘲笑と侮蔑が渦巻き、ティレスの胸を締め付ける。己が抱いていた不安、劣等感――それらが幻影となり、目の前で形を成しているのだ。
やがて現れたのは、亡霊のような幻影。
セリーヌだった。
「あなたは私に捨てられた。リディアを救っても、また捨てられるだけ……」
幻影の囁きに、かつての痛みが胸を裂いた。
だがティレスは剣を振り下ろし、幻影を断ち切る。
剣を握る手が震えた。だが、彼は歯を食いしばる。
(……違う。俺は、逃げない。幻影が何を突きつけようと……リディアのために前に進むだけだ!)
ティレスは剣を振り抜いた。その刃から放たれた光が、幻影を次々と切り裂いていく。嘲笑はかき消え、闇が霧散し――再び神殿の光景が広がった。
そして、祭壇の上に輝く《浄化の石》が、彼の前に姿を現す。
額に汗を浮かべながら、ティレスはその光を両手で抱きしめるように掴んだ。
「……必ず、持ち帰る。リディアのために」
祭壇から《浄化の石》を手にしたティレスは、すぐさま神殿を飛び出した。
夜明けの光が山を照らし始めていたが、その安堵を味わう暇もない。馬を走らせ、ただひたすら城を目指す。
(待っていてくれ、リディア……! 必ず間に合わせる!)
荒い息を吐きながら駆ける彼の胸中には、幻影で見た「守れなかったリディア」の姿が焼きついて離れなかった。
◇ ◇ ◇
一方その頃、城のリディアの寝室。
王女リディアは寝台に横たわっていた。白い指は黒い紋様に侵食され、胸の鼓動も浅い。
「……っ、はぁ……」
呼吸は細く、言葉を紡ぐことさえ困難だ。侍女たちは泣きながら氷水で額を冷やし、老医師は震える手で呪詛を測るが、効き目はない。
王は玉座を離れ、娘の傍に跪いていた。
「リディア……父が代われるものなら……」
その祈りの言葉に、しかし返事はなく。
そこへ宮廷魔術師が駆け込んでくる。
「陛下、魔王残党どもが再び集結し、城下を脅かし始めています! 勇者がなんとか抑えていますがが……このまま、王女が魔王に乗っ取られてしまえば……」
この国は、終わり。
宮廷魔術師は、言外にそう告げていた。
状況は、絶望的であった。
王は唇を噛み、かすれた声で応じた。
「……すべては、ティレスに託すしかあるまい。女神の遺跡から“浄化の石”を持ち帰れるかどうか……」
王の言葉を聞いた瞬間、リディアの睫毛が微かに震えた。
だが、彼女の口から洩れたのは掠れた囁き。
「……ティレス……あなたは、来て……くれる……」
指先は虚空を探すように揺れ、その動きは次第に弱まっていった。




