1.
君との誓いはこの剣にしたはずだったのに。
本当は、そんな誓いでなくて、ちゃんと契約を結んでおくべきだったんだ。
◇ ◇ ◇
大通りは、祝福の声で満ちていた。
魔王を討った勇者の凱旋である。
世界は、喜びに満ち、庶民はすべからく熱狂し、無礼講とばかりに祝杯をあげていた。
貴族たちも、例外ではなく勇者を讃えていた。
「ああ、勇者様」
その声を聞いた瞬間、ティレスの胸は凍りついた。
振り返れば、そこに立っていたのは。
頬を朱に染め、一際のぼせ上っていた女性。
幼馴染みであり、自分の婚約者である令嬢セリーヌだった。
彼女は、憧れと陶酔を隠そうともせず、勇者アレクシウスを仰ぎ見ている。
その表情は、婚約者である自分も見慣れないものだった。
「なんて美しい女性なのだ」
勇者もまた、セリーヌを見惚れてしまっていた。
「――勇者アレクシウス。汝は我らの栄光。ゆえに、この国の宝である令嬢セリーヌを妻として迎えることを許す」
セリーヌと自分が婚約していることを知っているはずの国王の口からそんな言葉が出た。
「私はあなたをお慕いいたします」
セリーヌの言葉を耳にした瞬間、ティレスの胸の奥に冷たいものが流れ込んだ。
周囲からは歓声が巻き起こる。
自分から、離れていくセリーヌの背中に手を伸ばし、諦めがよぎった。
――もう、心は自分にはない。
何かを言えば、きっと自分は世界の祝福に水を差す、反逆者になるだろう。
セリーヌが、勇者に腰を抱き寄せられて、嬉しそうに目を細めている。
幼き日々、互いの未来を語り合った少女。
傷だらけの手をそっと握り、笑顔で「ずっと一緒に」と告げてくれた婚約者。
彼女が好きだった。
とても、大好きだった。
その彼女は、今。勇者の腕に手を添えている。
俺は、なにもかも失った。
◇ ◇ ◇
勇者とセリーヌの婚礼の日。
王城の大聖堂には、国中の祝福が集まっていた。
白百合に囲まれたセリーヌは、誰よりも美しく、誰よりも幸福そうに微笑んでいる。その隣に立つ勇者アレクシウスは、国の救世主として注目を浴びている。
ティレスは、招かれた客の一人として、柱の陰に立っていた。
胸の奥に疼くのは、羨望でも怒りでもない。ただ、どうしようもない虚しさ。
花嫁の隣に立つのは、俺だったのにという想いが、心に暗い影を落としていた。
――なぜ俺が、ここにいるのだろう。
理由は、分かっている。
ただの騎士とはいえ、貴族の末端。
国を守るという使命もある。
だが、すでに脅威はなくなってしまった。
他の騎士も、今日だけはと、酒の入った盃を傾けている。
自分も、侍女から渡された盃を口に含む。
杯の酒は苦い。だが、苦いのは酒ではなく――自分の気持ちだろう。
参列者の歓声が響き渡るなか、ふと視線を感じた。
そこにいたのは、ひときわ凛とした眼差しを向けてくる女性。
王女リディア。
彼女の紫紺の瞳が、騒がしい祝宴のなか、ただティレス一人をまっすぐ見つめていた。
俺と視線が合うと、柔らかく微笑み。
「私と一緒にこんなパーティ抜け出しませんか?」
いたずらっぽく、そういうのだった。
◇ ◇ ◇
王城の庭園は、夜風に揺れる花々が香り立ち、遠く祝宴の喧騒だけがかすかに届いていた。
ティレスは、まだ信じられない気持ちでいた。隣に並ぶのは、王女リディア。政務の場で、一度か二度見かけただけの存在が、今こうして自分のすぐ横にいる。
「……やっと静かになれましたね」
リディアが、月を仰ぎながら小さく微笑んだ。その声は夜の静かさに溶け、どこか寂しさを帯びていた。
ティレスは答えに詰まる。なにを言えばよいか分からない。まだ盃の苦みが、まだ喉の奥に残っている。
沈黙を見透かしたように、リディアは横顔を向けた。群青の瞳がまっすぐに射抜いてくる。
「あなた……少し、苦そうにみえました」
胸が跳ねる。
誰も気づかないはずの痛みに、彼女は気づいていた。
ティレスは、言葉を失い、ただ拳を握りしめていた。ただリディアは追い打ちをかけるように、静かに続ける。
「私も……似たようなものです。ずっと『王女』という役割で生きてきて、私を私として見てくれる人なんて、ほとんどいませんでした」
その声は、かすかに震えていた。毅然とした王女の仮面を外した、ひとりの若い娘の告白。
ティレスは、彼女の孤独が自分の胸の痛みに重なっていくのを感じた。
「……殿下」
呼びかける声がかすれる。リディアは首を振った。
「いいえ、今はリディアと呼んでください。あなたには――そう呼んでほしい」
月明かりに照らされる彼女の横顔は、白百合よりも儚く美しかった。
ティレスは、抑えきれず言葉を吐き出した。
「俺は……すべてを失ったと思っていました。けれど……こうして殿下と話せていると……」
リディアがそっと微笑む。その微笑みは、ティレスの胸の虚しさを少しずつ埋めていった。
夜風が二人の間を通り抜ける。
そのとき、ティレスはようやく気づいた。
――この人もまた、孤独に耐えてきたのだ。
だからこそ、心が惹かれるのだと。
「本来、勇者に捧げられるはずだったのは、私――王女リディアのはずでした。ですが、私は選ばれなかったのです。ですが、これはチャンスです」
「チャンスとは?」
「本当に、欲しいものを手に入れるための」
彼女が、不意に俺との距離を詰める。
王族と一介の貴族との超えてはいけない線を超えて。
予期せぬ柔らかさが、腹部に押し当てられた。
ドレス越しでも、わかる静かな夜に溶けるような体温とたおやかさ。
気づけば、彼女が自分の腕の中で静かに目を閉じている。
「欲しいのは、あなたの心です」
離れなければ、頭ではわかっているのに。
夜の蒼さを映すかのような瞳から目を離すことが出来ない。
「どうして……」
それだけが、自分の口から絞り出された。
「私は知っています。勇者は、確かに脅威の根源を打ち倒しました。ですが、いつだって国に迫る脅威を退ける先頭にたってきたのはあなたです」
彼女の言葉が優しくティレスの心に触れる。
「誰も気づかない夜に剣を振るい、誰の称賛も欲しないまま盾となってくれたその背を、私はずっと見ていました。飾られた言葉や華やかな称賛ではなく、あなたのその暮らしぶりが、私の心を、確かに奪っていったのです。だから今、胸の内を隠す理由はもうありません。――本当に想っていたのは、あなたでした」
その言葉が夜の静けさに吸い込まれていく。
大聖堂から漏れ聞こえる祝福の歓声は遠のき、ここだけがまるで別世界のように感じられた。
ティレスは返す言葉を見つけられない。
ただ、群青の瞳をまっすぐに見つめ返す。
そこにあるのは、国のための仮面を脱ぎ捨てた、一人の女性の素顔。
胸の奥に長く沈めていた想いが、そっと揺さぶられていく。
「時間のようですね……」
彼女が、自分の腕の中から、離れる。
どうやら披露宴が、お開きになったようだった。
会場から、人々が出てきているのがみてとれた。
彼女の体温を感じられなくなったことに寂しさを感じる。それと同時に。
――答えを口にするのは、今でなくてもいい。
わずかな安堵があった。
「今度、返事を聞かせてくださいね」
リディアの微笑みが、月光のように柔らかくティレスを包んだ。




