10 エミリア視点
こんなはずではなかった。
ピエット子爵令嬢のエミリアは、周囲の声を拒絶するように耳を塞いで、目を閉じていた。
ここは王城内にある客間のひとつのようだが、部屋の前には警備兵がいて、エミリアを見張っている。隣の部屋からは、ニースの怒鳴り声が聞こえてきて、びくりと身体を震わせた。
ニースに殴られた頬が、じくじくと痛む。きっと赤く腫れあがっていることだろう。
(どうしてこんなことになったの? わたしはただ、愛人になって楽に生活することができたら、それでよかったのに……)
エミリアの生家であるピエット子爵家は領地も狭く、あまり裕福な貴族ではなかった。
その上、兄が二人と姉がいる。
長男である兄以外は、どうにか自分で生きていく術を身に付けなくてはならなかった。
次男である兄は、早々に騎士団に入団していた。
次兄も一応、子爵家出身の貴族なので、実戦に出るような騎士団ではなく、王都の警備などを担う騎士団に入れたようだ。入団が決まるとすぐに家を出て騎士団の寮に入った次兄とは、ここ数年顔を合わせていない。
二歳年上の姉は、王城で開催された夜会で知り合った男爵家の嫡男と、一年前に結婚していた。
向こうの男爵家もあまり裕福ではなく、生活は今までと同じように苦しいようだ。
それでも生きていく場所が見つかったと、姉は安堵していた。
嫡男の妻になったからには、姉も男爵夫人だ。
(でも、男爵夫人だなんてつまらないわ。それに、うちと同じくらいの貧乏な貴族だなんて)
姉は喜んでいたが、エミリアはそんな姉の選択が不満だった。
どうせならもっと爵位の高い、貧乏ではない貴族がいい。
でも高位の貴族の妻になるのは大変そうだから、何なら愛人でもいい。
裕福で、そこそこの爵位。
そして、きちんとした婚約者がいる人間。
そんな条件で探しているうちに、出逢ったのがディーダロイド侯爵家の次男であるニースだった。
ニースの家は侯爵家だが、あまり裕福ではない。
それだけなら、彼に近寄るつもりはなかった。
しかし彼の婚約者であるマリアンの父は、あのドリータ伯爵だ。
ドリータ伯爵は領地に大きな港があり、さらに宝石が採れる鉱山も所有している。爵位は伯爵家だが、公爵家に勝るとも劣らない資産を持っているらしい。
ニースの婚約者であるマリアンには弟がいるらしいが、爵位が上のニースが、おそらくドリータ伯爵を継ぐことになるのだろう。
マリアンとは政略結婚で、ニースも互いに愛情を抱いているわけではないと言っていた。
あのドリータ伯爵を継いだニースの愛人になれば、これから先、煩わしいことにも関わらずに、楽しく暮らせるのではないか。
エミリアはそう考えた。
そうして彼の好みになるように、おとなしく控えめな女性を演じていた。
それでも、愛の言葉は情熱的に。
目指すのは愛人なので、結婚したいわけではないことも、はっきりと伝えていた。
これですべてが、うまくいくはずだったのに。
まさかニースの婚約者であるマリアンが、失踪してしまうほどニースを愛しているとは思わなかった。
庭園でニースと抱き合っていたとき、マリアンが見ていたことには気が付いていた。
彼女は、ドリータ伯爵家の令嬢である。
自分よりもずっと裕福で美しいマリアンのことが、エミリアはずっと羨ましかった。
そんな彼女の婚約者を奪っていることに、愉悦を覚えていたのも確かだ。どんなに裕福でも美しくても、彼女の婚約者が愛しているのはエミリアなのだ。
そう思って、わざと見せつけるように愛を囁いた。
けれど彼女は、そのまま姿を消してしまった。
婚約者がいながら、エミリアを抱きしめていたニースのために。
(こんなことになるなんて、思わなかった……)
好きだった恋愛小説のように、悲恋のヒロインを演じていた。
マリアンは悪役令嬢で、ニースに愛されている自分に嫉妬して、つらく当たる役だと思い込んでいた。
それなのに、マリアンと親しい王太子の婚約者が出てきて、彼女の置き手紙をニースに付きつけたときから、立場が逆転していた。
マリアンこそが悲恋のヒロインで、いつのまにかエミリアは、そんな彼女の前に立ちふさがる悪役令嬢の役になっていた。
(そんなこと、あり得ない。私はヒロインになりたかったのに……)
さらに王太子の婚約者、ミーナリアの兄であるリオに目を付けられてしまった。彼は冷酷で恐ろしく、敵を排除するためには手段は選ばないと言われている。間近で見たリオは、冷たく研ぎ澄まされた氷のような瞳をしていた。
水を被ったときのように、背筋がぞわりとしたことを覚えている。
彼は、けっして関わってはいけない男だ。
もうニースの愛人になることは諦めて、早めに撤退したほうがいい。
そう思って逃げ出そうとしたのに、逆上したニースに殴られ、さらに王城で騒ぎを起こしたとして、警備兵に連行されてしまった。
このままお咎めなく、返してもらえるとは思わない。
隣の部屋にいるニースは、まだ暴れているようだ。
リオ様、と誰かの切迫した叫び声がして、彼がけっして逆らってはいけない者に逆らってしまったことを知る。
エミリアは咄嗟に、ニースに殴られた頬に手を添えた。
殴られたときは、意識が遠ざかるほど痛かったが、エミリアが殴られたことは、会場中の人間が見ていたはずだ。ここは、すべてをニースの責任にして、彼に脅されていたことにすれば、何とか切り抜けられるかもしれない。
もともとエミリアだって、ニースに愛情などない。ただ利用したかっただけだ。
足音が近づいてきた。今度はエミリアの取り調べをするつもりかもしれない。
エミリアは部屋の隅に座り、怯えたか弱い令嬢を演じる。今度は失敗するわけにはいかなかった。




