89.グシャナからの家出少年
「俺の名前はルオ。グシャナから来たんだ」
やっぱり、宿屋の主人が言っていた通り、この少年はグリニカの南東にある国、グシャナから来たらしい。
グシャナは、トスカナ村のある海岸線の東側の延長線上にある国だ。旅に出てからよく地図を見るようになったから、私でもそのくらいのことは知っている。
マーナやフレイユに優しく宥められて涙を拭い、特別に部屋まで運んでもらった夕食を食べた後で、ようやく少年は自分の事を語り始めた。普通は、目が覚めた時点で自己紹介ぐらいするもんだと思うけどね!
「グシャナから独りで来たの? 親御さんは?」
マーナにそう訊ねられると、ルオはさり気なく視線を反らし、何か言いかけて口を噤んだ。
「家出なんでしょ?」
マーナの後ろからそう声を掛けると、やっぱり宿屋の主人が言った通りだったようで、ルオは動揺したように肩を揺らした。
「家出って、どうしてそんなことを。お父さんとお母さんは、あなたがグリニカの王都にいるって知っているの?」
少し責めるような口調になったマーナをチラッと伺うように見ると、ルオは首を横に振った。
「修行してくるって書置きはしてきたけど、どこに行くかはまでは知らせてない」
「は? 馬鹿じゃないの? そんな親を心配させるようなことして修行だなんて」
「……ミラク!」
ルオの悪びれない態度についきつい口調で詰ってしまった。マーナに注意されたけれど、何だか腹が立って仕方がない。
そりゃあ、私だってこれまでクロスに随分心配掛けてきたよ。高い木に登ったり、二階の窓から飛び降りて逃走したり、下町で自分の背丈の倍はありそうな奴らと喧嘩したり。……うっ、今思うと、とんでもない子供だったんだね、私って。
でも、どこに行くかも告げずに外国まで修行に行くだなんて無茶なことはしなかった。怒られて家を飛び出しても、真っ暗になる前には家に戻ったし。……あ、大半は、クロスに見つけ出されて連れ戻されたんだっけ。
ま、まあ、私のことは置いておいて。
ルオの両親はどれだけ心配していることか。本当は誰かに攫われたんじゃないか、どこかで危険な目に遭っているんじゃないかって心配で夜も眠れないに違いない。
すると、ルオは睨みつけている私を逆に睨み返してきた。
「あのな。お前は知らないんだろうけど、グシャナの男は五歳で体術を習い始めるし、十歳を過ぎたら修行の旅に出てもいいことになっているんだ」
へえ、知らなかった。そんな風習がグシャナにはあるんだ。
「で、あんた幾つよ」
「十一だ」
やっぱり、小さいなと思っていた通り、ルオは私より四つも年下だった。
……何だか、年下を怖がらせて泣かせたり、きつい口調で怒ったり睨みつけたりしている自分が大人げなく思えてきた。
「だから、俺の両親も、俺がどうして家を出たかちゃんと分かってくれている。なんせ俺は、ファビリア帝国を救った伝説の英雄ジェグナンとアリーの息子だからな!」
ドヤ顔でそう言い放ったルオに、私達は何の言葉も返せず沈黙する。
「な、何だよ。信じられないかも知れないけど、本当の事だからな!」
顔を真っ赤にして怒り出すルオの前で、私達は再び顔を見合わせる。
そんな私達の心の声を代弁してくれたのは、隣のベッドの上で丸くなっていたオークルだった。
「その、伝説の英雄ってのは、いったい誰だよ」
ファビリア帝国は、ウィザーストンよりもずっと東、広大なサブリアナ大陸の中央付近にある巨大な国だ。ここ百年ほどで周囲の小国を次々に取り込んで、今では大陸一の強国として知られている。その国で、十二年ほど前に内乱が起きかけていたということは、マーナの記憶の片隅に残っていたらしい。
「でも、ごめんなさい。その時、帝国を救った方々が誰かなんて知らなかったの」
マーナに申し訳なさそうに謝られて、ルオは愕然とした表情を浮かべ、信じられないと首を横に振った。
「……まさか、英雄ジェグナンとアリーの名を知らない者がいるなんて」
いやいや、私に至っては、ファビリア帝国でそんなことがあったことさえ知らなかったからね。
「それって、どんな事があったの?」
「お前、それも知らないのか……?」
ルオは目を見開いた後、嘲笑うような表情を浮かべて大袈裟に溜息を吐いた。
「あのな。それは……」
「十二年前、当時の皇帝が突然圧政を敷き、忠実な臣下を無実の罪で処刑したり、突然周辺の小国へ攻め込んで蹂躙したり、とにかくやりたい放題を始めたの。でも、それから間もなく皇帝は国を憂う臣下達が擁立した弟殿下によって討ち取られたと聞いているけれど」
説明をマーナに横取りされたルオは、不機嫌そうに頬を膨らませた。
「……そう。その弟殿下に協力し、悪の皇帝を倒して帝国を救った英雄こそ、帝国騎士ジェグナンと、グシャナの至宝と呼ばれた女格闘家アリー、そして天才魔法使いクロスだ」
「ふ~ん、そうなんだ」
ふんふん、と頷いていた私は、ふとある名前に引っ掛かりを覚えた。
「……クロス? 今、クロスって言った?」
思わず、マーナを押しのけるようにしてルオの顔を覗き込むと、さっき持ち上げて窓から放り投げようかと冗談を言ったのがよほど怖かったのか、ルオは顔を引きつらせてベッドの上で後退りした。
「なっ、何だよ。俺、何か悪い事言ったか……?」
「そうじゃなくて。クロスっていうのは?」
「う、ウィザーストンから来た、恐ろしいくらい凄い魔法を使う魔法使いだったって父さんが言っていた」
「見た目は? どんな人?」
「そっ、そんなこと、会った事ないから分かるはずないだろ! でも、まだ二十歳になるかならないかってぐらい若くて、長い黒髪の背の高い男だったって聞いた」
「……クロスだ」
呆然としながらマーナを振り返ると、マーナも呆けたような顔をしながら頷いた。
「年齢、外見、ローザラントへ移住してきた時期との整合性、それらを勘案してみて、それがクロスさんじゃないっていう材料は今のところ見つからないわね」
「クロス……。やっぱり只者じゃないって思っていたけれど、やっぱり凄い人だったんだね」
魔物のいない、他国に攻め込まれることもない、平和過ぎるほど平和だった田舎国のローザラントには勿体ないほどの魔法使いだといつもノーマン将軍が言っていたけれど、本当にその通りだった。十二年前、大陸一の大国であるファビリア帝国の危機を救っていたなんて。しかもそれを鼻に掛けて自慢することもなく、私にも黙っていたなんて、クロス、カッコ良過ぎだよ。
そうか。私と出会う前、ローザラントに渡ってくるまでに、クロスにはそんな過去があったんだね……。
しんみりしていると、不意に生意気なルオの声で現実に引き戻された。
「おい。お前、天才魔法使いクロスを知っているのか?」
「知っているも何も、私、そのクロスに育てられたんだもん」
「なにぃ!?」
目を見開き、これ以上はないくらい驚いているルオを見ていると気持ちがスカッとして、自分が凄いわけでもないのに思わず胸を張った。
「じゃあ、クロスもここにいるのか?」
ルオは急にそわそわし始め、部屋をキョロキョロと見回す。
「え? 何で?」
「だって、クロスはお前の保護者なんだろ? 宿屋に泊まっているってことは、一緒に旅をしているってことじゃないのか?」
まあ、ルオがそう考えたとしても不思議じゃない。……でも、現実は違う。
「私達は、クロスを探して旅をしているの。だから、クロスはここにはいないよ」
残念でした、って笑ってやりたいのに、私の口から出た声は力なく萎んでしまった。
「探してって、……いなくなったのか?」
「まぁね。魔族との戦いで、どこか分からないところへ飛ばされてしまったんだ」
えっ、とルオは目を見張って沈黙したルオは、やがてポツリと呟いた。
「お前もまだ小さいのに、苦労してるんだな」
「…………は?」
「だってお前、俺より年下だろう?」
「失礼ねっ! 私はもう、十五だよ!」
「はあっ!? 嘘吐け!! 十五の男が、そんな小さくて可愛らしいはずないだろうが!!」
「女の子だよ!!」
その後、部屋中を涙目で逃げ回るルオと、ルオを捕まえて窓から放り投げようと追いかけ回す私と、そんな私を取り押さえて宥めようとするマーナとフレイユとの攻防は、他の宿泊客から苦情が来ていると宿の主人が怒鳴り込んでくるまで続いたのだった。




