80.災厄が始まる
「あんた達も早く逃げろ!」
振り向きざまにそう叫ぶと、カディスは浜辺へ向かって走り去っていく。きっと、まだ事態を飲み込めていない村の人達に避難を呼びかける為だ。
急いで二階へ戻り、持ってきた荷物を抱えて村長の家を出ると、さっきまで晴れていた空は重い灰色の雲に覆われていた。
誰かが叫んだように、黒ずんでみえる海の向こうに浮かぶ沖の小島から、黒い煙のようなものが立ち上っているように見える。
その瞬間、私の背中で封邪の剣がビリビリと音を立てるほど震え始めた。
「やっぱり、魔族だったんだ」
そう呟くと、それを聞いたマーナが恐ろしそうに身を竦めながら私の袖を握り締めた。
「おいおい。いくら予言されていたとはいえ、タイミングが良すぎるんじゃないか。もしかして、お前らがあの島に足を踏み入れたことが引き金になったなんてことはないよな?」
オークルの非難めいた視線を受けて思わずフレイユの方を見る。フードに隠れたその表情はよく見えないけれど、それでもフレイユが小さく唇を噛んでいるのは分かった。
ゴウッ、と音を立てて、気持ちの悪い風が海から吹き付けてくる。
「みなさん、何をしているのですか。早く巫女の館へ逃げてください。急いで!」
半ば呆然自失状態になっているカディスのお母さんを支えて山側に逃げているナーシャが、こっちを振り返ってそう叫ぶ。
「ほら。ナーシャもああ言っているし、私達も……」
「私はいいから、みんな逃げなよ」
袖を引っ張ってくるマーナの手を振りほどくと、私は手を伸ばして封邪の剣を抜けるように布を解いた。
「ミラク、何を言って……」
「さっきオークルが言ったみたいに、魔族が襲ってくるのは私達のせいかも知れない。だって、私達がいなかったら、カディスだって今日、沖の小島に渡ることはしなかったと思う」
棲む場所を人間に踏み込まれて怒ったのか、危機感を抱いて村を滅ぼさなければと思ったのか。ともかく、オークルが言った、私達が島に渡ったのが襲撃のきっかけだという言葉を否定することはできない。
「だから、私は魔族と戦う」
「ミラク! 馬鹿なこと言わないで」
「馬鹿なことじゃないよ。私にはこの剣があるし、これまでにも何度も魔族を倒しているんだから」
封邪の剣の柄を握って自信満々にそう言い放つと、フレイユが頷いた。
「そうですよ。私と一緒にね」
そう言いながら、フレイユは懐から大切そうに布で包まれたものを取り出して、マーナに手渡した。
「これは……?」
「宝珠です」
「はあっ!?」
マーナの鞄から顔だけだした状態で、オークルが目を剥いた。
「もし、私の身に何かあったら、オークルと共にそれを里まで届けてくれませんか?」
「おまっ、何を考えて……」
「あなた方にも、クロスを探すという大切な旅の目的があるのだと分かっています。けれどどうか、聞き届けてくれませんか?」
オークルの非難の声を遮って微笑むフレイユに、マーナは宝珠を受け取ったまま、何も言えずに立ち尽くしていた。きっと、マーナはそんなことお断りだと言いたいに違いない。でも、あんな風に真摯に頼まれて、それを突き返すようなことなんて、マーナにはできないだろうと思う。
「フレイユ、いいよ。私だけでも大丈夫だから」
安心させる為に笑顔でそう言ったのに、フレイユは怖いくらい真剣な顔をして首を横に振った。
「いいえ。リムルラントやサレドニアで魔族を倒した時、私も一緒だったことを忘れたのですか?」
「ううん。……そりゃ、フレイユが一緒にいてくれたら心強いけどさ」
「それなら、私も一緒に連れて行ってください。元々これは、私が乗り気になって首を突っ込んだことです。責任を取らせてください」
フレイユはフードをずらして、額までを外気に晒した。宝石のように赤く輝く瞳が、黒い煙に包まれた沖の小島を捉えてすっと細められる。
「ミラク、フレイユも駄目よ。私達には、それぞれ大切な旅の目的があるじゃない。こんなところでもし命を落とすようなことになったら……」
宝珠を片手に縋り付いてくるマーナの手を押えると、にっこりと笑って見せる。
「でも、今ここでこの村を見捨てて逃げたら、クロスに合わせる顔がないよ」
「……ミラク」
「私も同様です。そんな情けない真似をして里へ帰っても、私は神獣族としての誇りを失ってしまいます」
「何が誇りだ。死んだらお仕舞いなんだぞ」
吐き捨てるように言ったオークルに、身を屈めてその顔を覗き込んだフレイユは、可笑しそうに目を細めた。
「よく言いますね。私を逃がすために、一人ガードンに立ち向かっていったあなたが」
「あの時は、俺達が狙われていたんだから仕方がなかったんだ。一緒にすんな」
「そうですね。でも、誰かを守りたいという気持ちだけは、分かって貰えますよね?」
オークルの金色の瞳が、零れそうなくらいに見開かれた。
「えっ、おまっ、まさか……」
「では、行きましょうか、ミラク。マーナ、オークルのこと、よろしくお願いします」
浜辺を、山の方角へ向かって逃げる村の人々。お年寄りや病人等動けない人達を、若者達が背負ったり戸板に乗せたりして運んでいく。
時々、私とフレイユが逃げずにいるのを見て、村の人々から逃げろという野太い声が飛んできた。だから、私達は誰も居なくなった民家の陰に隠れて、村人たちの姿がなくなるのをじっと待った。
その間にも、空を覆う雲の色はどんどん黒く濃く垂れこめてきて、海から吹き付ける風は強くなり、今では逃げ遅れた人達がいないか見回ってから逃げていく村の若者達がよろめいてしまうほど吹き荒れている。
「マーナ達、ちゃんとあのお屋敷に逃げ込んだかなぁ」
「ええ。しかし、気になるのは、巫女の館が建てられたのは、五百年前にこの村が滅びた後のこと。そして、三百年前には、偶然この村を訪れた魔法使いによって海竜は鎮められたという話でした。それはつまり、あの場所にいれば危険ではない、ということは一度も証明されていないということです」
「えっ、じゃあ……!」
「だから、私達が頑張らなければならないのですよ。ミラク」
沖の方を見つめていたフレイユが、そう言って不敵に笑う。
フレイユは、危険だといって私が魔族と戦おうとするのを止めたりしない。それは、私の力を信じて、認めてくれているからだと思う。危険だから逃げろ隠れていろと言われるより、私はずっとその方が嬉しい。
その時、ズン! という衝撃の後で、沖の方から何かが弾けるような炸裂音が響き渡り、一段と強い風と共に何かが宙へ舞い上がった。
「来ますよ……!」
フレイユの声に、私は封邪の剣を抜き放つと、浜辺へと駆けだした。
「……大きい」
村人達から海竜と呼ばれていた生物は、これまで見たどの魔族とも違っていた。
沖の小島の上空に、それはいた。形としては、大きな蛇に近い。けれど、サレドニアの王宮で戦った魔族ビリジアンよりもずっと巨大で、禍々しいというよりも、こんなに離れているのに身が竦むような威圧感がある。
重く垂れこめた雲の色に似た灰色の身体は全身鱗で覆われていて、頭には二本の細く尖った角があり、長い髭と鬣が揺れている。長い身体の途中には鋭い爪のある手と足が、まるで今にも何かを掴み取ろうとしているかのような形をしていた。
鼓膜が裂けるかと思うほど大きな咆哮が響き渡って、一瞬体の力が抜けそうになるほどの恐怖が身体を突き抜ける。吠えた瞬間、きっと私くらいならひと飲みしてしまうほど大きな口に、鋭い牙がずらりと並んでいるのが見えた。
海竜は巨体をくねらせながら、段々と村の方向に近づいてくる。それにつれてますます強くなる風と共に高い波が浜に押し寄せ、村人たちの大切な船はまるで木の葉のように揉まれて流されていく。
「……まさか、あれは」
フレイユが呆然とした表情で呟いた瞬間、海竜が突然長い尾で海面を凪いだ。そこから、まるで見えない何かが海面を押し上げたように壁のような巨大な波が立ち上がり、こっちへ向かってくる。
慌てて身を翻して逃げたけれど、間に合わなかった。私達の上に伸し掛かるように落ちてきた波に揉まれ、息ができなくなる。どこが上か下か、どうもがけば水面に出られるのか分からない。とにかく必死でもがいて水面に顔を出し、ちょうどそこに流れてきた船に掴まる。
「……ミラク、……ミラク、大丈夫ですか?」
吹き荒れる風と荒れ狂う波の音の中で、途切れ途切れに声が聞こえた。目を凝らせば、少し離れた所に同じように何かに掴まって浮いているフレイユの姿があった。
「……うん、何とか」
答えながら、何とか船の上に這い上がったところで、あることに気付いて愕然となった。
「封邪の剣が、ない……」




