51.魔族ビリジアン
巨大な黒蛇と化したビリジアンの口から、チロチロと赤い舌が覗く。
身体は黒光りする鱗に覆われていて、何か粘度のある液体が染み出していて、まるで蒸発するかのように空気に溶けだし、瘴気となって部屋に充満していく。
……まずい、このままじゃ。
床に這いつくばっているカルロス王が、苦しげに咳き込む。
カーテンの陰に視線を送れば、そこに隠れている『隠密』も苦しげに表情を歪めながら、必死で耐えている。
神獣族のフレイユと、封邪の剣を持っている私はまだ大丈夫だけれど、他の人間たちはこの状況にもう耐えられない。
私は封邪の剣の鞘を払うと、ベッドの陰から飛び出して、フレイユを追い越し、ビリジアンに向かって挑んでいった。
「ミラク……!」
何やってんですか、早すぎます! というフレイユの心の声が込められているような非難の声を無視して、私はビリジアンの首の辺りを一閃した。
……つもりだった。
ズン、という物凄い衝撃と共に、私は横合いから何かを叩きつけられ、頭から壁に激突した。
目の前が一瞬光り、その後真っ暗になる。
……やられた?
遠のいていく意識の中で、私は誰かが自分を呼んでいる声を聞いた。
……ダメだ。
こんなところで、こんなことで気を失ってちゃいけない。
だって、私には、やらなきゃいけないことがあるんだから。
必死にもがき、上も下も左右も分からない暗闇を抜け出そうとする。
口の中には、鉄を舐めたような味が広がっている。
頭はまるで、固い物で何度も殴られているようにガンガンと痛んでいる。
手足は他人のものになったみたいに、全く言うことを聞いてくれない。
……動いて。動け、動くんだ、ミラク!
「……ミラク!」
ふぉん、と何か温かいものが身体を包んで、頭の痛みが和らぎ、手足の感覚が戻ってくる。
「大丈夫ですか?」
息を切らしながらそう囁くフレイユの声は掠れていて、私を案じながらも視線はこちらではなく前方に向けられたままだ。
そのこめかみを伝って流れ落ちた血が、私の頬に落ちた。
温かい、フレイユの血。
怪我をしたの? どうして? ……私が、先走ったせいで?
ごめんね、フレイユ。自分も怪我をしているのに、私に神力を使って怪我の痛みを和らげてくれたんだね。
私の頭の上にかざされた、まだ温かい光を湛えているフレイユの手を感謝の気持ちを込めて握れば、逆に痛いほど握り返された。
「大丈夫だよ」
そう答えると、側らに落ちていた封邪の剣を掴み、私はフレイユの視線の先を追って目を走らせた。
私が気を失っている間に、一体何があったんだろう。
部屋の壁には大きな穴が開き、窓ガラスが割れ、家具が砕けて散乱していた。
巨大な黒い蛇ビリジアンは、その尾の辺りにできた大きな傷口の痛みに耐えるように身体をうねらせながら、憎悪に満ちた目でこちらを睨んでいる。
フレイユが小さく囁いた。
「隙をみて、グレエムさんたちが陛下と王女を部屋から連れ出してくれました。ここにはもう、私達しかいません」
それを聞いて安心した。もう焦る必要はないんだ。
「ごめんね、フレイユ。今度は、ちゃんとやるから」
「その体で、大丈夫ですか?」
「平気だよ、このくらい」
本当は、自分の怪我がどの程度かなんて、怖くて確かめたくもないんだけど。
でも、ここまで来たら、逃げることなんてできない。
ビリジアンを消滅させるか。
それとも、自分が死ぬか。
どちらかしかない。
「……許さん。……許さんぞ、若造が! この私の身体に傷を付けおって!」
ビリジアンが頭部の半分もの大きさのある口をカッと開いてそう叫ぶと、太い牙から毒液が飛び散って絨毯を溶かす。
吹き付けてくる瘴気は更に濃くなり、私はその瘴気を払うべく、封邪の剣を固く握りしめた。
今度は、絶対に失敗しない。
さっきは、カルロス王たちにこれ以上瘴気を当てちゃいけない、と焦ってやみくもに飛び込み、ビリジアンの尾で叩きのめされてしまった。
気を付けないといけないのは、あの尾を使った攻撃と、牙の毒液だ。それに、もし仮に巻き付かれて締め上げられたら、私の身体なんてあっという間に砕かれてしまうだろう。
フレイユが隙を作ってくれたとして、どうする……?
封邪の剣を構えながら目を細めた時、ある光景が脳裏に甦った。
――そこで見ていろ。
高い木の天辺までよじ登らされて枝葉の陰に隠れ、幼い私は地上の様子を見守っていた。
遥か地上で、多くの魔物を相手に戦うハディの姿を。
……そういえば。
ふとあることを思い出した時、シャッと雄たけびを上げて、ビリジアンがこちらに飛びかかってきた。
寸でのところでフレイユと左右に分かれるように横っ飛びで避け、床を転がって壁際に立ち上がる。
そこで、素早くフレイユが神力の攻撃を横合いからビリジアンに食らわせた。
風の精霊を使った、真空の刃だ。
ビリジアンの身体に無数の切り傷ができたものの、どれも傷は浅い。
神力を使った直後の無防備なフレイユに、今度はビリジアンが身体をしならせると、尾を振り上げて叩き付けようとした。
咄嗟に、私はポケットに隠し持っていた吹き矢を構え、ビリジアンの目に向かって吹いた。
そう、リムルラントで、蛇のような顔をした吹き矢の男から取り上げたまま、鞄に突っ込んでそのまま持ってきてしまったあの吹き矢だ。
吹き矢から放たれた針は、勿論素人の狙い通りには飛ばない。けれど、幸いにも顔付近のどこか、鱗と鱗の間の柔らかい部分に刺さってくれた。
魔族に、この吹き矢の毒が人間と同じように効くとは思えないけれど、ビリジアンは頭部をブンブンと左右に振って、不快感を露わにしている。
私はその隙にそっとビリジアンの背後に回り込んだ。
尾の攻撃が来るか来ないか相手の動きを見極めて間合いを詰めると、手を伸ばして封邪の剣の先で胴を突いた。
ほんの少しだけ、剣先が固い鱗を貫いた感覚があった。
と、ビクン、とビリジアンの身体が硬直した。
「な……」
金色の目を見開いたビリジアンは、持ち上げた首を捻って、細い瞳孔で私を凝視した。
「……お前、……それは、……それはああああっ!」
絶叫して暴れ始めるビリジアンから慌てて封邪の剣を抜いて後退りすると、その傷跡からはどんどん黒い煙が立ち上り、剣へと吸い込まれていく。
「なぜ、貴様が持っている。……彼の御方は、とっくに捕まったというのに、なぜ、それが……」
「えっ……」
彼の御方って……?
「それって、どういう意味? 捕まったって、誰が?」
慌てて問い返したけれど、ビリジアンは苦しげに悶絶しながら、段々とその姿を薄くしていく。
「ねえ、教えて。それって、ハディのことなの? ハディは今、どこにいるの?」
けれど、何の答えも返って来ない。
ビリジアンは、まるで穴が開いた革袋みたいに、傷口からどんどん黒い煙を吹き上げ、やがてその煙と共に完全に消えてなくなってしまった。
黒い煙となったビリジアンを吸い込み尽くした封邪の剣は、室内の瘴気も吸い込み、まるで真夜中のように暗かった室内が、差し込んでくる夕日に赤く照らされる。
「大丈夫ですか?」
そう言いながら近づいてくるフレイユは、これまで見たこともないくらいヨレヨレになっていた。
「フレイユこそ、まだ血が出ているよ」
「私は神獣族ですから、ミラクよりもずっと丈夫にできているのですよ、これでも」
「……そっか」
じゃあ、後のことは任せて、休ませてもらってもいいかな……。
慌てて手を差し伸べてくるフレイユに倒れ掛かるように身を預けると、私は目を閉じて大きく息を吐き出した。




