35.マーナと喋る猫
今回から、マーナ視点でのお話が続きます。
何で、こんなことになってしまったんだろう……。
もう幾度目かも分からない溜息を吐きながら、私は重い脚を引き摺りながら王都への帰路についていた。
ミラクがロザーナから旅立って、もう十日が経過していた。順調に旅を続けていれば、国境を越えてサレドニア王国へ入っているはず。
私、マーナは、クロスさんの家を出て、王宮の近くにある宮廷魔法使いの寮に引っ越してきた。
そして、ミラクが旅立った翌日から、宮廷魔法使いとして働いている。
私はこのロザーナに残って、二人が帰ってくるのを待つ。立派な宮廷魔法使いになって、二人が帰って来られる場所を守るのよ。
そう意気込んでいたのも一瞬のこと、出仕したその日から、私の決意は音を立てて崩れていった。
「ああ、君ね。クロス殿から話は聞いていたが、何でも君はウィザーストンで学んで、魔物狩りをしていたそうじゃないか」
「えっ、……あ、はあ、そうですが」
「そんな貴重な実戦経験者を、魔法研究室や魔法教育課に配属するなんて勿体ない。ぜひ、新設の魔法戦闘部隊の一員として、その経験を活かしてくれたまえ」
宮廷魔法使いの長ラフカ様は、痩せぎすで薄い髪を長く伸ばして禿げ頭を覆い隠した、初老の男性だった。
「でも、クロスさんからは、戦闘に関わるような部署には配属されないようにお話しを……」
「この国家の非常時に、君は何を甘えたことを言っているのかね。正直に言おう。研究員や教育係なんぞは、すでに掃いて捨てるほどいるんだ。魔法戦闘部隊への配属を拒否するというのなら、採用を取り消させてもらう」
「そんな……」
血走った眼で睨みつけてくるラフカ様に、逆らうことなんてできない。
止むを得ず、私は魔法戦闘部隊への配属を了承した。
それで、今は、連日朝早くからククロの森に出向き、魔物が出現していないか、国王軍と共に巡回を繰り返す日々。一日中森の中を歩き回って、日が暮れる頃に王都へ戻る。
疲れて帰ると、寮の庭、私の部屋の外に犬小屋を設置してもらってそこに繋がれているパトリックが、嬉しそうに出迎えてくれる。
寮の管理人マルスさんは一見気難しいように見えるけれど、事情を話すと同情してくれて、昼間パトリックの面倒を見てくれるようになった。
でも、クロスさんの家でのように、敷地内を放し飼いにすることはできなかった。他の寮生に迷惑がかかるかも知れないし、犬が苦手な人だっているから。
パトリックは、人の言葉が分かるのかっていうくらい賢い犬だから、決して無駄に吠えたり人を襲ったりすることはない。でも、そんなこと、赤の他人からしたら知る余地もないことだから、世間の常識に従うしかないわ。
「ただいま、パトリック。いい子にしてた?」
膝をついて、顔をなめてくるパトリックの頭全体を包むように撫でる。
ミラクと別れてから、パトリックは以前のように私に甘えてくるようになった。全く、犬とはいえ、現金な男よね。
「おや、お帰り、マーナ。今日も随分遅くなったんだね」
管理人のマルスさんが、でっぷりとした腹を反らしながら管理人室から庭に出てくる。いつもしかめっ面をした中年男性だけれど、決して怒っているわけではないと最近ようやく分かるようになってきた。
「ただいま帰りました。今日も、パトリックの世話をしていただいて、ありがとうございます」
「いや、いいよ。パトリックはとっても賢い犬だから、扱いやすいし何より可愛いし」
そう言いながら、水を張った陶器をパトリックの傍に置いてくれた。
「どうかね? 仕事の方は」
「ははは。なかなか、まだ慣れませんね」
……乾いた笑いしか出て来ないわ。
元々、体力には自信がなく、おまけに魔力はコンプレックスを抱くほど拙い。なのに、連日王都とククロの森を往復させられて、一日中歩きっぱなし。その上、もし魔物が現れたら、魔法を使って戦わないといけないなんて、何という苦行。
クロスさんが魔族ガードンを異空間に封じて、その後、ガードンが率いてきた魔物はその日のうちにほぼ国王軍が退治してしまった。魔物が現れたのはフレイユを狙ってのことだったのだから、神獣族の秘宝が持ち出されたククロの森に魔物が新たに出現することはないでしょうね。
だから、こんなに連日ククロの森を警備することなんかないのに。
でも、そんな奏上をしたところで、何を根拠にそんなことを言うのかと問われても、答えることはできない。フレイユの存在から、全てを説明しないといけなくなるから。
なので、毎日嫌々ながらも命令に従っているの。
辛くて苦手な仕事を、気乗りしないでするほどしんどいことはないわね。
部屋に入ると、帰ってくる途中で買ってきた軽食を、気力を振り絞りながら食べ、さっと湯を浴びると、崩れるようにベッドに横になる。
そして、気付いたら朝になっている。
こんな日々が続いたら、ミラクやクロスさんが戻ってくるまでもたないかも知れないわ……。
日々、体力も気力も削れていくのが分かる。
これまで、二人に甘えて楽をしてきたからなぁ……。
だから、辛いからと簡単に逃げることはしたくない。そうしてしまえば、私はまたこのロザーナにやってきた頃の、抜け殻みたいな自分に戻ってしまう。
それだけは、何としても避けたい。だって、もうミラクやクロスさんは、ここにはいないんだから……。
一度眠ると、疲れ切っている私は朝まで起きることはない。
けれど、その日は何故か夜中に目が覚めた。
……誰?
私の部屋の外で、何やら悪態を吐いている人がいる。
何だろう、不審者かしら。
けれど、その割にはパトリックが吠えない。怪しい人が近くにいるのに、あの賢い犬が気付かずに眠っているなんて、そんなことは考えられないし。
私はそっと庭に面した窓を開けた。
「おい、放せっつってんだろうがっ! いい加減にしろよな、このワン公が!」
まだ若い男の声だ。しかも、それはパトリックの犬小屋付近から聞こえる。
「いたっ! いだだだっ! 痛いじゃねえかっ! 馬鹿かお前。だからやめろってば!!」
「……パトリック?」
念のため、クロスさんから貰った白蛇の杖を構えながら声をかける。
もし、窓から不審者が侵入してきたら、魔法で撃退するつもりだった。小さな火の玉くらいでも、不審者を撃退する威力くらいはあるはずだから。
ウォン、とパトリックが小さく鳴いて答える。ああ、パトリックは無事なのね。
でも、じゃあ、この声の主は誰?
「誰? そこに誰かいるの?」
「ばっかじゃねぇの? お前、飼い主なら暢気に声掛けてねぇで、さっさと出てきてこの馬鹿犬をどかしやがれ!」
罵声を返されて、私はしばし目を瞬かせて呆然としていた。
あれ? やっぱり誰かがいるのね。しかも、パトリックがその人に何か危害を加えているかのような言い草だわ。
私は寝間着の上に魔法使いのローブを羽織ると、部屋を出て廊下を通り、庭に通じるドアから外に出た。
見ると、パトリックは自分の小屋に入って、伏せの姿勢でこっちを見ている。
おかしい。誰もいないけど……。
そう思いながら近づくと、パトリックの前足の下で、何か茶色い塊が動いているのが見えた。
「ほらほら、ご主人様が来たぞ。だからさっさと放せよ!」
……うーん。私ったら、疲れ過ぎて、幻聴まで聞こえるようになってしまったようね。
これは、あれね。ストレスで頭が変になってしまったとかいう類のものね。ひょっとしたら、衝動的に王宮の堀に飛び込んでしまうような病気の前兆なのかも知れないわ。
何と、パトリックの前足に押さえつけられているのは、茶色いふわふわした毛の猫だった。その猫が、人間の言葉で悪態を吐いている。
「ボーッと立ってないで、さっさとこの犬をどかせよ、のろま!」
「ハッ、ごめんなさい。パトリック、その猫ちゃんを放してあげて」
怒鳴られて、慌ててそう言うと、賢いパトリックは一度頷くように頭を下げて前足をずらした。
ようやくパトリックの太い前足から逃れた猫は、立ち上がって身震いすると、ケッと吐き捨てた。
「全く、ぐーすか眠ってないで、もっと早く出てこいってんだ」
「ごめんなさい。まさか、パトリックがあなたを押さえつけていただなんて気付かなくて」
「フン、これだから人間は。ったく、こんな身体じゃなかったら、お前らなんか一発であの世行きだぜ」
「あら、随分と物騒なことを言うのね、猫ちゃんのくせに」
これも、私の中で不満が燻っているから、猫の鳴き声がそんなセリフに聞こえるのかな、と可笑しくてクスッと笑った時だった。
「……お前、俺の声が聞き取れるのか?」
「えっ?」
「だから、俺の言葉が理解できてんのかって聞いてんだよ!」
「キャッ!」
突然、飛びかかってきた猫を胸に抱えたまま、その反動で私は勢いよく尻餅をついてしまった。




