32.ソルバーン現る
港の封鎖によって貿易が止まってしまい、マリエルは連日遅くまでマリエル商会の社屋でその対応に追われていた。今日も、夕食の時間になっても戻っていない。
代わりにお屋敷を取り仕切っているのは、執事のリュークだった。港で火事が発生したという知らせを受けて、混乱するお屋敷の中で次々と指示を出している。
「大丈夫。風向きも逆だし、今のところこのお屋敷まで火が回ってくることはない。だが、万一風向きが変わることも考えて、すぐに避難できるよう準備を怠らないこと。いいな」
いつもの丁寧口調から、テキパキとした命令口調に変わったリュークは、マリエルにも劣らないカリスマ性を発揮していた。
「リューク。私たち、マリエルの所へ行ってくる」
そう告げると、彼はあからさまに眉間の皺を深くした。
「いや、困る。商会には、応援にこの屋敷から私兵を向かわせるから、ここの守りが薄くなる。君には、ヒルメス殿下をお守りしてもらわないと」
「アルスの怪我もよくなったし、殿下もこの数日で格段に腕を上げられたよ。それに、商会に向かわせる私兵を減らして、殿下の警護に当たらせてほしいんだ」
「なぜ、そうまでしてマリエル様のところへ? この非常時に」
不信感を募らせるリュークの腕を、フレイユが抑えた。フードをずらして、宝石のような赤い瞳でじっとリュークを見据える。
「非常時だからです。我々は、あなたのご主人を救わなければなりません」
「……マリエル様の身に、何か起きると?」
「杞憂ならいいのですが、そうでなければ……」
静かな口調なのに、まるで脅迫するようなフレイユの勢いに、ついにリュークも折れた。
「分かった。我々が一丸となって、ヒルメス殿下をお守りする」
「お願いします」
本当は、こういう時の警護役なのに、それが果たせないのは心苦しい。けれど、そんな感情に流されてこのお屋敷に留まっている場合じゃない。
私は、いつもは厳重に布で包んで背負っているハディの黒い剣を、すぐに抜けるように柄の部分だけ布から出した。それから、背負っている状態でもすぐに抜けるように角度を調整する。
「行きましょう」
フレイユも、長いローブの袖の下で、腕にあの神力増幅の腕輪を嵌めている。
私がガードンを殴って変形させたその腕輪は、自然に数日で元の丸い形に戻った。まるで生き物みたいに自然修復するなんて、さすがは神器だ。
私たちは、火事から非難する人たちでごった返す通りを、人並みに逆らうように港へと向かった。
その港のすぐ近くには、マリエル商会の社屋がある。私たちが、リムルラントに到着したその日に訪ねた、あの王宮みたいな建物だ。
入り口の門には、あの日いた守衛の姿はなかった。火事の火で真っ赤に照らし出された社屋からは慌ただしく人が出入りしていて、貴重品が入っているらしい箱を次々に運び出している。
「マリエルは? 会長はどこに?」
その中に、お屋敷で見かけたことのある傭兵らしきお兄さんの一人がいたので、駆け寄ってそう訊く。
お兄さんは、汗と煤にまみれている顔を袖で拭った。
「この社屋の避難指示は副会長に任せて、会長は港へ向かった。うちの商社の船が何隻も焼けているんだ」
……ああ、やっぱり。
ギュッと締め付けるように胃の辺りが痛む。
「ありがとう」
「ああっ! お前、そう言えば、護衛はどうした……」
お兄さんが動揺したような声を上げるのが聞こえたけど、私たちは完全無視して港へ向かって走った。
港は、マリエル商会から少し走ったところを海側に曲がったところにある。
その港に足を踏み入れた時だった。
ドクン!
背中で、ハディの黒い剣が脈打つように律動を始めた。
クロスを異空間に飛ばした、あのトカゲの魔族を前にした時と同じ反応だ。
「ミラク?」
「……魔族がいる」
私が断言すると、フレイユはぎゅっと口元を引き結んだ。
目の前で、船が真っ赤な火と黒煙を上げながら燃えている。マストの上部に括り付けられた帆は炎を噴き上げ、船体は斜めに傾いている。
「無事な船を、火の粉のかからない場所まで移動させろ!」
「今燃えている船は諦めろ。港の建物まで延焼させるな!」
海水をくみ上げては、岸壁に降り注ぐ火を消して回っている社員たち。その向こうに、風に舞う火の粉をものともせず、毅然と支持を出しているマリエルの姿がある。
「マリエ……」
私がホッと息を吐きながらマリエルに駆け寄ろうとした時だった。
軍靴の音が響き渡り、私たちの後ろから数えきれない人数の都市警備隊が港に乱入してきたのは。
「マリエル殿。これは一体、どういうことですかな」
声高にそう叫んだのは、ホルス隊長だった。
この間、マリエルにやり込められた時の卑屈さは全くなく、勝ち誇ったような笑みさえ浮かべている。
「国王陛下から貸与されたこの港で、このような大火を出すとは。管理体制はどうなっているのか」
「ホルス隊長。御覧の通り、まだ火の勢いは衰えておりません。ひとまず消火してから状況を説明させてもらいます」
マリエルは、消火活動に必死で、ホルス隊長のことなど全く相手にしていない。けれど、それが返ってホルス隊長の自尊心を傷つけたのは明らかだった。
「いいや。消火活動は都市警備隊が行う。マリエル殿、詰所までご同行願おう」
「そんなことを言っている場合ではない!」
「都市警備隊に逆らうおつもりか? 私邸や社屋内では治外法権は認められるが、港湾は我ら都市警備隊の管轄内だ。大人しく従ってもらおう」
炎に照らし出されたマリエルの顔が、悔しさに歪む。
そして、僅かに視線をずらしたマリエルが、ハッと目を見開いて何かを呟いた。
「……ソルバーン」
マリエルは、微かに呟いただけだった。
周囲は、社員たちの喧騒と怒号、それに炎が吹き上がる音が響き渡っている。だから、聞こえるわけがないのに、私にはマリエルが呟いたその言葉がハッキリと聞こえた。
私は慌てて、マリエルの視線を追った。
ホルス隊長から数歩離れた所に、都市警備隊員に紛れ込んで立っている、丸顔で一見人畜無害に見える中年男性。
けれど、炎の光が揺らめく度、ギラリと金色の目を光らせた青黒い肌の顔が垣間見える。
ただ火事を見物に来たってわけじゃなさそうだね……。
ソルバーンの目は、まるで捕食者が獲物に狙いを定めた時のように光っている。
今や、ハディの黒い剣は、自分で鞘から飛んでいきそうなほどカタカタと私の背で揺れていた。
「連行しろ」
ホルス隊長の命令で、都市警備隊員らが一斉にマリエルに向けて駆け出す。
その中で、動かずに立ったままでいるのは、ソルバーンらしき男だけ。
「フレイユ、マリエルをお願い」
私は、進む都市警備隊の背後から回り込むように、ソルバーン目がけて走り出す。
駆け寄ってくる私に気付いたのか、振り向いたソルバーンは一瞬目を見開くと、身をひるがえして港湾内の建物の陰に向けて走り出した。
魔族としての本性を、こんなに多くの人間の前で晒すわけにはいかないから、人目に付かない場所へ移動するつもりなんだ。
……それにしても、早い!
小太りの中年男性とは思えないほどのスピード。足が速い私でも、なかなか追いつけない。
やっと建物の陰で追いついたと思った時、突然、目が痛いほどの閃光が背後で起きた。
ククロの森へ向かう川で、フレイユが蝙蝠の目を晦ませた時と同じ光だ。
まさか、フレイユ、あんな人の多いところで神力を使ったの?
そう思った時、足を止めたソルバーンがゆっくりとこっちを振り返った。
そこには、人の良さそうな中年男性はいなかった。さっきから垣間見えていた青黒い肌をした金色の目の魔族の姿になったソルバーンは、口から牙を覗かせながらゾッとするような笑みを浮かべた。
「自ら死地へ飛び込んでくるとはな。大人しく、神獣族の秘宝を渡してもらおう」
……やっぱり。
フレイユの嫌な予感は当たってしまった。
港の封鎖は、悪徳業者が事業を拡大するため、なんて単純な理由だけじゃなかった。
ガードンが倒されて、その主である魔獣王ブロンザスが黙っているわけがない。すでにロンバルディア大陸側の港付近に部下を潜らせていた魔獣王は、サブリアナ大陸に戻るフレイユを、網を張って待ち構えていた。
そして、こいつが港に現れたのも、自ら私たちを始末するため。私たちがマリエルのお屋敷に逗留していることも、私たちがマリエルの危機に駆けつけてくることも見越しての行動だったんだ。




