18.クロスの戦い
クロス視点でのお話しです。
突然、爆音と共に家が揺らぎ、天井から細かい塵がパラパラと落ちてくる。
「……マーナっ!?」
只事ではないことはすぐに分かった。
何か巨大で、悪意に満ちた意志を感じる。
腰に帯びていた愛用の杖を握り締め、身構えつつ物置小屋に飛び込むと、その光景に思わず息を飲んだ。
なぜ。……なぜ今、こいつがここにいる?
「ハハ、久しぶりだな、人間の若造」
「……クレノイア」
噛みしめた歯が、ギリッと音を立てる。
爬虫類のような顔に、顔を左右に横断するように裂けた口からズラリと覗く鋭い歯。でっぷりと肥えた身体はボロボロになった法衣のようなものを身につけているが、露出している肌は一面、黒っぽい緑の鱗に覆われている。
なぜ、こいつがこんなところに現れる? 十年以上も前に、異空間に封じたはずの魔族クレノイアが、なぜ……。
「おおっと。急くなよ。おかしな真似をしたら、こいつの頭は完全に形を失うぞ」
クレノイアの聞いているだけでゾッとするような声で、初めて気が付いた。
奴の左手が鷲掴みにしているのが、マーナの頭部だということに。
マーナは完全に気を失っていて、膝を着いた状態でクレノイアに頭部を掴まれ持ち上げられていた。奴が少し乱暴に左腕を動かしただけで、首の骨が折れてしまいかねない状態だ。
マーナの傍には、ついさっき彼女にあげたばかりの白蛇の杖が落ちていた。
「あの時は油断したが、二度と同じ手は食わん。まずは、その持っている杖を捨てて貰おうか」
鋭い爪のある人差し指で示されて、杖を持つ手が震えた。
神族は何の道具も使わずに神力を使うことができる。魔族も同じだ。けれど、人間は魔法石がついた杖や道具がなければ、魔法を使うことができない。
私にとって、杖を捨てるということは、剣士が剣を捨てるようなものだ。
「いいのか? この女が死ぬことになるぞ」
ほんの僅かに、クレノイアの左手がマーナの頭部に爪を立てるように動いた。
「待てっ! ……分かった。その代わり、私が杖を捨てたら、彼女は解放すると約束しろ」
「ふん、いいだろう」
クレノイアは意外にも素直にそう頷いたが、そんな約束を守るような奴ではないことは嫌というほど分かっている。
けれど、マーナの命には代えられない。
杖を床に落とすと、クレノイアはニヤッと笑みを浮かべた。
乱暴にマーナを床に叩きつけると、クレノイアは落ちた杖を拾おうと素早く屈んだ私に襲い掛かってきた。
ほんの僅か、手が届かなかった。
杖に手が触れたと思った瞬間、物凄い力で跳ね飛ばされ、背中から壁に叩きつけられた。
「うぐっ……!」
喉に焼け付くような痛みが走り、クレノイアの爪が首周りの皮膚を裂く。もがこうとするが、つま先が空を切って力が込められない。
クレノイアに首を掴まれて宙づりになったまま壁に押し付けられ、息ができなくてそのまま意識が遠のきそうになる。
だが、何故かクレノイアはそのまま私を窒息させることはせずに手を離した。
床に崩れ落ち、激しく咳き込む。
そして、あることに気付いて愕然とした。
……声が、出ない。
「ハハッ。声が出なければ魔法は使えまい」
ガッ、という衝撃と共に、床に這いつくばった格好で上から押さえつけられる。クレノイアの太い脚で踏みつけられているのだ。ミシッ、とあばら骨が嫌な音をたてた。
「十二年、か。俺にとってはさほど長い時間ではないが、あの居心地の悪い光の空間での十二年はさすがに苦しかったぞ。よくも人間風情が俺様をあんな空間に閉じ込めてくれたな」
ギリギリとクレノイアは私を踏みつける脚に力を込めていく。痛みと恐怖で叫び声を上げるが、出るのは空気が漏れるような音だけだった。
「だが、お前があのガードンとかいう魔族を同じ空間に送ってきたことで、俺はそいつを喰って力を蓄え、そいつが入ってきた時に生じた空間の亀裂を広げてこの世界に戻ってくることができた」
ああ、なんということだろう。私は自分で自分の首を絞めたのか。
十二年前、私はこのクレノイアと戦った。そして、ガードンと同じように異空間に封じ込めることに成功した。
だが、同じ空間にガードンを送ったことで、クレノイアに脱出する力と手段を与えてしまったのだ。
「それから真っ先にお前に復讐しようと探したが、ようやく掴んだ白蛇の杖の気配をたどってきてみれば、似ても似つかない人間の女が持っているじゃないか。お前にもう会えぬのかと一瞬、焦ったぞ」
しかも、十数年ぶりに箱から出した白蛇の杖の魔力を辿って居場所を知られてしまっただなんて。
「うっ……」
その時、間の悪いことにマーナが目を覚まし、クレノイアの姿を見て悲鳴を上げた。そのか弱い人間の恐怖に満ちた悲鳴が、クレノイアの残虐性を煽ることなど知るはずもなく。
「人間の若造よ。お前へどうやって復讐してやろうかと、俺はずっとあの光の空間の中で考えてきた。そして、これがその答えだ」
クレノイアの指先が、宙に何かを描く。
何か術を使われている。それは分かるのに、魔法で防御することはおろか、痛みで這って逃げることもできない。
ズン、という衝撃と共に体が痺れたような感覚が襲ってきた。自分の周囲の物質が歪み、染みのように黒い空間が広がっていく。
「クロスさんっ!」
泣きそうなマーナの声がする。隙を見て何とかここから逃げて欲しいのに、それを伝えることさえできない。
クレノイアはマーナの声に反応して振り返ると、もう一度こちらを見て残虐な笑みを浮かべた。
「お前が俺にしたように、今度は俺がお前を闇の空間に閉じ込めてやる。地底と同じ瘴気が満ちる空間だ。そこに落ちた人間がどうなるか、お前もよく知っているだろう」
止めろ、と止めることも出来ずに、私はクレノイアがマーナに腕を振り上げるのをただ見ていることしかできなかった。
「その前に、この女が死ぬのを見てから行け」
マーナの目が恐怖に見開かれる。
止めてくれっ!
声なき悲鳴を上げた時だった。
真っ白な光が吹き出し、クレノイアを包み込む。
「な、何だ、この光は。……う、……うぎゃあっ、熱いっ!」
白い光の中、もがきながらクレノイアは悲鳴を上げてのたうち回る。
光は、マーナが握っている白蛇の杖から放たれていた。
その杖を持つマーナ自身は、クレノイアが襲い掛かってきた恐怖のせいか、すでに失神していて、座り込んだままぐったりと壁に寄りかかっている。
何がどうしたのか分からないが、クレノイアがダメージを受けていることは確かだ。このままあの白い光が奴を焼き尽くしてくれればいい。
そう思ったが、そう都合よくはいかなかった。
白い光はやがて消滅し、荒々しいクレノイアの呼吸が響き渡る。
「お、おのれっ。人間ごときが、舐めた真似をしてくれる。いっそ、二人で瘴気の渦の中に沈んで狂い死にするがいい!」
クレノイアが再びマーナに襲い掛かろうとした時だった。
「止めろっ!」
最後に聞きたかった、けれど今のこの状況では聞きたくなかった声が響いた。
ミラク……。
息を切らして駈け込んで来た可愛い我が養女は、私の姿がすでに闇に溶けかけていることに気付いて駆け寄ってきた。
バカッ! 来るんじゃない! お前までクレノイアの術に巻き込まれて闇の空間に引きずり込まれるぞ!
そんな警告も声にならなければミラクに届かない。
「クロス。……クロスっ!!」
ミラクの白くて小さい手が私に伸びてくる。
バチッ! バチバチバチ……!
ミラクの手は術に弾かれながらも、迷うことなく私に向かって伸びてくる。
……?
その変化に、私は戸惑っていた。
この身を包みかけていた瘴気が薄れ、代わりに襲ってきたのは吹き付けてくる冷たい風と、浮遊感だった。
「クロスっ!!」
伸びてきたミラクの手を掴もうとした私の手は、僅かに届かず空を切った。
大きく見開かれた美しい青い目。風にはためく金糸のような髪。
黙って微笑んでいればまるで人形のようなのに、やることはいつも人間離れしたハチャメチャなことばかり。
それでも、私は十年前に偶然拾ったこの子が可愛くて仕方がなかった。
何とか人並みの幸せを手に入れて欲しい。そう思って厳しく躾けるあまり、最近は叱ってばかりになっていたけれど。
逃げろ、ミラク……。
何とか逃げて、生き延びて幸せになってくれ。
俺に関わったせいで死んでいった人たちのように、お前まで命を落とさないでくれ。
風を切って物凄い速度で落ちていきながら、私はただそれだけを願った。




