第三幕
勝沼が呼び出されたのは、とあるマンションだった。
そこにはワイシャツ姿の深雪がいた。深雪は、何事も無いかのようにそこに立っていた。道行く人の誰もがそんな時間帯に彼女がいる事を疑問に思わなかったのが本当に不思議だった。人間の関心は、全くそういう所に働かない物なのか。
気が付けばセミの声が聞こえていた。夏が来たんだと勝沼は思った。
そんな中で、彼女は立っていた。何をするでも無く、ただ突っ立っている。ずっとずっとそうだったのか、まるで銅像のように動かなかった。
所が、その深雪が、勝沼を認識した時、動が有った。明るく手を振り、勝沼を招いた。
「竜ちゃん、来てくれたんだ」
「どうしたんだ一体?」
「ちょっとね、お願いが有るの」
「それは分かっている。でもどんな内容なんだ?」
深雪は、一瞬渋い顔をして、
「屋上に行こうか」
と言った。
そう述べると、深雪は勝沼の手を取り、マンションのエレベーターを待つのだった。
「深雪ちゃんさ、学校はどうしたんだよ?」
勝沼は本題を切り出した。ずっと気にかかっていた事だった。しかし、深雪は沈黙を保ったままだった。確かにさっきの深雪はいつものように明朗な様子を見せていた。だが何か違う。勝沼の直感はそう告げていた。
やがてエレベーターが降りて来て扉が開いた。深雪は無言のまま、勝沼の手を引き、エレベーターに乗り込んだ。その中でも、深雪は無言であった。勝沼も、もう口を開く事は無かった。二人は口を閉ざしたまま、エレベーターが最上階に着くのを待った。
深雪は勝沼の手を引き、更に非常階段に出た。そのまま上へ向かう。
「なあ、何をするんだ?」
勝沼は何度目かの疑問を述べた。
「賭けよ」
「賭け?」
勝沼が初めて深雪から聞いた言葉はそれだった。
「竜ちゃんはいつも私に優しかった。才能が無いとか、非現実的とか、結構酷い事言って来たけれど、それでも竜ちゃんは絶対に怒らなかったよね。竜ちゃんはむしろ、私の味方をしてくれた。でもね……」
「でも?」
「今度は竜ちゃんが敵になるかもしれないの」
「え?」
非常階段を登り、二人は屋上に辿り着いた。この辺りでは一番大きなマンションだ。ここからの景色は壮大だった。入道雲に隠れて富士山が見える。
「なあ、こんな所に連れて来て、一体何だって言うんだ?」
深雪はゆっくりゆっくりと歩き、安全柵を登り始めた。それを見て、勝沼も真似た。すぐ下には道路が走っている。深雪はそこに立つと、ゆっくり後ろを振り向いた。
「竜ちゃんさ、今、幸せ?」
深雪の唐突な質問は、勝沼の頭で処理出来る範囲では無かった。不躾にそんな事を聞かれて答えられる準備は無かった。
「俺は……良く分かんない……」
「なら竜ちゃんはどうして生きているの?」
深雪の顔には笑顔が有った。それが作り物では無い事は勝沼にも分かった。
「俺は、俺の作品を世に出すまで逃げたく無いんだ」
「そっか。竜ちゃんは夢が有るからね」
深雪の顔からフッと笑みが消えた。
「私には何も無い……」
「え?」
「私ね、苛められているの」
「苛め?」
「そう、学校で」
突然の独白に、勝沼はフリーズした。
「家族とも上手く行っていないし」
「おじさん達と?」
「私が甘えているから、苛めなんかにあうんだって。私が悪いんだって。苛める子が悪いのもそうかもしれないけれど、苛められる方も問題が有るだろう、と言うの」
深雪はきっと嘘を言っていないだろう。勝沼にもそれは分かった。
「竜ちゃんは、そういう経験無いでしょ?」
勝沼は戸惑いを隠せなかった。深雪の顔に再び笑顔が戻る。その笑みは冷たく、まるで氷のようだった。
深雪は靴を脱ぐと、屋上の端に揃えた。
「まさか、深雪ちゃん!」
勝沼は彼女の所に駆け寄ろうとした。
「竜ちゃん、覚悟が無いなら来ないで!」
深雪は笑顔のまま叫んだ。
「竜ちゃんは、今幸せ?」
深雪の重ねるような問いに、勝沼は動きを止めた。
「夢が有るから幸せなの? 本当に幸せな時間を生きているの? ねえ、どう?」
深雪は立て続けに勝沼の心をえぐった。勝沼は悟った。試されているのだ。
「俺が幸せかどうかはまだ分からない。だから、今は何とも言えない」
「じゃあ、私と一緒に死ぬつもりは無いの?」
勝沼の頭の中は段々と限界に近づいて来ている。深雪は相変わらず笑顔だ。
「竜ちゃんが私を救えるのならば、って私思ったの。竜ちゃんはどんな時でも優しかったから」
「だったら、俺のその優しさに免じて、思い誤らないでくれ」
「昨日まで友達のふりをしていた人が、転じて私に酷い事をするようになったの。そのショックが分かる?」
勝沼は、自然にフェンスの網目を握り締めていた。全く知らない情報に、頭が追い付かないのが本当の話だった。彼なりのベストは尽くした。突然の告白、突然の情報、突然の状況。それに対処するには、勝沼はまだ経験が足りなかった。
そんな彼の逡巡を見通したように、深雪は笑った。
「だから私は賭けたいの。この世は、私が生きるには値する物なのか? ってね」
「その代表が俺という訳か」
勝沼は身体中から脂汗を垂らしていた。暑さが原因で無い事は彼も分かり切っている。
「だから竜ちゃんに問いたい。この世界で生きていて、幸せ?」
勝沼は追い詰められていた。そして喉の奥底から絞り出すように言った。
「ああ、幸せだよ」
深雪の顔から笑みが再度消えた。そして彼女は勝沼を正面に捉えながら、後ろへと下がって行った。
「何でだよ!?」
勝沼は思わず大声を上げた。
深雪の表情は真剣だった。
「私、嘘吐きは嫌い」
深雪はとうとう後一歩でも下がれば真っ逆さまの立ち位置を取った。
「この世界は私が生きるには苦し過ぎた。じゃあね」
「待て――!」
勝沼が手を伸ばしたその前に、深雪の姿は消えた。下の方で、どさっという不気味な音が聞こえた。勝沼は、自分のしてしまった事に激しい動揺を見せた。呼吸が早くなる。息が苦しい。勝沼はそのままそこにぐったりと倒れてしまった。
長野県松本市のその事件は、深雪が遺書等を残していなかった事も有り、すぐに人々の記憶の彼方に消えた。
だがその傷は、勝沼を蝕んだ。勝沼は、話す言葉を失い、家で寝たきりになった。誰も勝沼を責めなかった。だがその無言が逆に彼の自尊心を傷付けた。勝沼は、生ける屍となってしまった。
そうして勝沼は大学を辞めて、引き籠る生活を過ごす事となった。
そんな中、勝沼は強制的に睡眠薬で眠らされている時、不思議な夢を持った。
深雪が出て来るのだ。勝沼は夢の中でも失語症だった。話をする事が出来ないのだ。だが、深雪は問う。
「竜ちゃん、今、幸せ?」
勝沼がそれに答えようとしても、言葉が出ない。その繰り返しが何日も続いた。
勝沼は、食欲もどんどんと無くなり、いよいよ体重が三十キロ台にまで落ちてしまった。両親の勧めで精神病院に入院する事が決まり出した。
そして、その晩だった。再び夢に深雪が現れた。深雪はいつものように聞く。
「竜ちゃん、今、幸せ?」
ガリガリの勝沼は深雪のその問いに矢張り口から言葉が出なかった。そこで、勝沼は、痩せ細って痙攣していた腕を使い、地面に文字を書いた。
“今は幸せでは無いかもしれない。でも俺にもっと力が有れば……”
深雪はそれを読むと、ふふふと笑った。
「私が力をあげる、竜ちゃん」
勝沼の首から提げた深雪から貰ったエメラルドグリーンの結晶体に、深雪が光の粒子となり、取り込まれていった。勝沼はそれがどういう事か最初理解出来なかった。
「竜ちゃん、皆を救ってあげて」
深雪はそう述べると、完全にエメラルドグリーンの結晶体に吸い込まれた。
ふっと眼を覚ますと、勝沼は車の中だった。父親が運転し、後部座席に勝沼と母が座っていた。
「病院までは山道でしんどいけれど我慢してな」
父がそう語るのを勝沼は頷いて返した。
その時だった。車に衝撃が走った。
「何だ?」
父がアクセルを全開にする。だが車は宙を浮いている。その両ドアには鋭い牙が突き刺さっていた。勝沼は、これがただ事では無いと察知した。車は大きく空へと舞い上がり、そのまま地面に叩き付けられた。車はボコボコにへこみ、爆発を起こした。
勝沼一家は、即死だった。だが、その時、車からエメラルドの光が漏れて、四枚の翅を持つ巨人の姿となった。
プレデターは、あのMABIRESだった。真っ赤な身体に腕と一体化した翼を持つ六目の怪獣。しかし片側の三つは何故か潰されていた。
“KISHAAAAAAAAAAAA!”
MABIRESは叫ぶと、巨人――Νに襲い掛かった。空に浮かび上がり、急降下した足でΝを弾き飛ばした。Νはそれを即座に受けて大きく跳ね飛ばされた。MABIRESが空に舞い上がって再度攻撃を仕掛けようとした時、Νは空へと飛び上がった。MABIRESは地面に叩き付けられた。今度はΝの攻撃だった。Νは上空から飛び蹴りを浴びせた。吹き飛ばされるMABIRES。勝利の確信を得たΝは、更に畳みかけようとした。
しかし、MABIRESもそんな簡単にやられるタイプでは無い。MABIRESは口から火球を吐いた。それは真っ直ぐΝの腹部に直撃した。あまりの衝撃にΝは大きく後退した。MABIRESはそれを見て、一気に急上昇、足でΝの顔面を鷲掴みにした。Νは空中で、MABIRESの足を振り払おうとしたが、MABIRESの方が強かった。ΝとMABIRESは再度地上に降り立った。Νの顔面に、MABIRESの足、そして全体重が乗せられた。Νの眼に光が点滅し出した。
「くそ、これまでか?」
Νと一体化したまま勝沼は、真っ白の世界で自分の最期を覚悟した。
その時だった。
「竜ちゃん」
振り向くとそこには深雪が立っていた。
「深雪ちゃん」
「竜ちゃん。あのね、竜ちゃんは負けたら駄目なの。竜ちゃんの血液は私のようにこの世に未練を残して死んでいった人達を背負っているのよ」
「そんな重圧、耐えられないよ」
「大丈夫、竜ちゃんならやれるわ。最期まで私に真摯に向き合おうとしてくれたんだもの」
「でも、深雪ちゃんは、俺が嘘吐きだって」
「そう。竜ちゃんは嘘を吐いたわね。でも良いの。私の命は竜ちゃんにあげる」
頭部に全体重をかけられ、苦しむΝ。しかし、翅を広げ、それを使って一気に空へと舞い上がった。MABIRESも思わず足を放してしまった。これがチャンスだとΝは、空で、MABIRESに殴り掛かった。優勢のΝ。回転踵落としを、MABIRESの頭を直撃させた。MABIRESは一気に地面に落ちた。Νもゆっくりと着地、四枚の翅が畳まれる。
森の不法投棄された家電を踏み潰し、MABIRESが前へ出た。MABIRESは口から火球を放った。それは真っ直ぐにΝの胸元に吸い込まれた。だがΝは、その火球を両手で受け止めると、自分のエネルギーを注入して、深紅のエネルギー光球へと変換させた。そしてそれを、MABIRESに向かって放つのだった。MABIRESは直撃を受けて、頭が吹き飛んだ。大爆発が起こる山中。
勝利をもぎ取ったΝは再度エメラルドグリーンの光に包まれて、分解するのだった。
エメラルドグリーンの光の粒子は、森の中に小さな人型を作り上げた。それは段々とモザイク状に、勝沼の身体になった。その身体は、先程までの痩せ細った弱々しい物ではなく、かつての彼がそうだったように、力強い物に変わっていた。
そして……。
「この力は……」
その声は勝沼自身の肉声だった。
「この力は、深雪ちゃんから貰った未来だ」
勝沼は、首から下がったエメラルドグリーンの菱形のペンダントを握り締めると、そう呟くのだった。
彼は段々と暗くなる森林を、誰もいない方向へと歩み去るのだった。
勝沼の身体は雨に沈んでいた。極限られた地帯にだけ猛烈な雨を降らせるこの積乱雲の下で、勝沼は眼を覚ました。勝沼は、ゆっくりと立ち上がると、身体の雫を払った。彼はよろよろとしながらではあったが、足を動かして森の奥へと消えていった。




