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口は門で舌は刀

口是禍之門

舌是斬身刀

『舌詩』より一部抜粋


二月に入った。

梅の花が散り始め、雪解け水で長良川の水量も増した頃、家康は森部を発ち三河に戻って行った。

森部の城下町から街道に出た辺りで、希美は離れ行く家康に声をかけた。


「絶対、絶対に、本物のお母さんを迎えに行くんだぞお!そんで、しっかり甘えろよ!!」

「うう……またも、母と引き離されるとは!」

「母じゃないってばよ」

「えろ母様、また必ず戻りまする!お元気でぇ!」

「会話にならないよお……」



そんなこんなでオメガバースした覚えの無い息子が去り、希美はほっとした反面、息子として家康に情が湧いていたのは確実で、やはり寂しくもあった。

その内こいつも去るのだな、と希美は共に見送りに来ていた信玄をちらと見た。

信玄はそんな希美に気付き、ニヤリと笑って耳元に唇を寄せた。


「わしももうすぐここを去るのが、寂しくなったか?」

そのまま耳穴に息を吹きかけられ、ぞわっとした希美は、(こいつはすぐにでも逝ってよし!)と考えを改めた。




森部城に戻るべく歩き始めた希美達は、城下町にある睡蓮屋に足を運んだ。

やっと改装と拡張が終わって新装オープンした店を、希美が見たがったためである。


「おお!良い感じではないか」


新しい睡蓮屋の店構えは、普通ではない。

少し隙間の開けられた板張りの塀には通常の小門の隣に、輿で乗り入れられるよう大門が設けられており、店は塀の中の奥まった所にある。

一見、ちょっとした武家屋敷のようだが、板張りの塀の裏は庵となっており、わざと開けた板の隙間から、庵で寛ぐ遊女が見えるようになっている。

客はそこで遊女を選び店内に入るのだが、通常の着衣遊女コースとは違い、目隠しコースは小さな湯殿の付いた、別棟の部屋へと通されるのだ。

湯殿といっても、浸かるものではなく体の泡を流すための浴槽なので、回転も早く衛生的である。

またこの別棟、湯殿とは別に座敷も湯殿の数だけ設けられているので、終わった後は時間内であれば食事や酒を出し、遊女と寛ぐ事もできる。

会計は専用の部屋があり、そこには訪れた有名人のサインを飾っている。


各部屋を見て回った希美は、会計の部屋で家康と信玄のサイン(花押)が仲良く並んでいるのを見て呆れた。

(……男ってのは、愛すべき馬鹿野郎共だな!)



施設の出来に満足した希美は、休みの日や午後の時間、きれいめの普段着を着せた遊女達を積極的に散歩させるように指示を出した。

太陽の光は自律神経を整えるし、夜のけばけばしい姿と違い、清楚な姿で歩く事で彼女達自身が広告搭となって新たな客を呼び込めるかもしれない。

希美は、睡蓮屋の共同経営者として、コンサルティングにも余念が無い。




そんな話をして後、希美達はようやく睡蓮屋を出た。

道すがら、希美は信玄に聞いた。

「信玄、お主坊主だよな。あの店を利用していいのか?」

信玄は、何でもない風に飄々として答えた。

「ん?ああ、わしはあの店に行く時だけ、還俗しておるからの。問題ない、問題ない」

わはは、と笑う信玄を、希美は半眼で見た。

(こいつ、絶対仏罰当たるな)

「お前、そんなだから、『女犯絶対ダメだお!』な真面目武将の上杉さんと揉めるんじゃね?」

信玄は鼻で笑った。

「はっ、あんな現実見えてない頭でっかちに、わしの生き様など理解できぬわ!あんなのが率いる上杉軍なぞ、この乱世で生き残れる訳がない」

「……」

(うーん、実際は武田が滅亡して、上杉はなんとか生き残るんだよねー。何て言っていいのやら。とりあえず茶化して濁そう)


希美は適当な方向を向いて呼び掛けた。

「おーい!上杉の諜報機関『軒猿』の皆さんー、信玄坊主君が女犯の罪をバンバン犯してますよお!目隠しコースが好みの変態ですよお!しかも上杉さんディスられてますぜー!!」

「お、おい!洒落にならんぞ!あやつ、本気で自身が毘沙門天の生まれ変わりだと思ってる頭おかしい奴なんだ。仏罰代わりに攻めて来るだろ!」

「なんだかんだで、上杉さんが恐いんだよな!」

「こ、恐かねえわ!サシでやったら、わしのが強いし!」

「上杉さんにやられた足の傷は、大丈夫ですかねえ」




軽口を叩き合いながら、歩みを進める希美達を見送る男がいる。

睡蓮屋の常連客である加平(45)である。


加平は、『軒猿』所属の草だ。

草は、潜入した地に根付き、何か起きぬ限り一生をその地で過ごす。

だが、任務は代々子に引き継がれ、その地で産まれ育ちながらも、周囲を欺きながら本心は他国の間者として、いざという時のために生き、死ぬ存在だ。


加平は、森部が聖地として人が流入を始めた時に越後から送り込まれた、まだ初代の比較的新しい草であった。

それでも、加平は『軒猿』の一員として、主の命を確実に実行し死ねるよう、幼い頃より訓練を受けてきた。

そして、えろ教徒として森部に入り、情報収集を始めたのである。


加平は何度も他の地に潜入した事のあるベテランであるが、森部に入ってよりその異常性に気付かされた。

とにかく、生きやすいのだ。

えろ教に入信していながら、どの宗教を信じても構わぬ。他宗派同士、他領出身同士、身分の違う者同士が、自然と互いを尊重し助け合いながら生きている。

領地は開墾が進み、物に溢れ、いくらでも仕事がある。

皆が、満足し、「えろ」に感謝して生きる。


ここは、極楽か。

次第に加平も満足し、最早演技ではなく「えろ」に感謝して生きていた。

一日仕事をし、その後睡蓮屋のお鶴に踏んでもらい、『喜んで』で一杯引っかけて帰る。

そしてたまに、噂程度の情報を送る。

任務や立場を忘れた訳ではないが、こんな日がずっと続けばよいと思っていた。



ある日、武田徳栄軒が森部に入ったと聞き、ドキリとした。

状況次第ではこの日々が終わる。


加平は特別何をするでも無く、日々を過ごした。

睡蓮屋が新装開店し、新たに出来た会計部屋に支払いで入った時、昔『軒猿』の教育を受けた時に見た武田の花押が目に入った。

加平は震える腕を押さえ、花押を見ぬようにうつむいて支払いを済ませた。


徳栄軒と同じ店に通っている。

草としては、情報収集のチャンスである。

だが加平は、会わぬよう願った。

支払いの時は、うつむくのが通常になった。


『軒猿』の繋ぎには、『武田徳栄軒と同じ店に通っているが、なかなか遭遇できない』と伝えるに止めた。


そして、今日。

会計部屋を出た加平が目にしたのは、えろ大明神こと柴田勝家と、武田徳栄軒、その一行であった。

体に染み付いた『軒猿』としての教育が、自然と加平に彼らの後をつけさせた。



この情報が、この地に何をもたらすのかはわからない。

わかろうとしないのが、この道の一流だ。

加平は暗い眼で今日耳にした事を、繋ぎに告げた。



その日の夜、夜着の中で加平は泣いた。




冬の間は固く冷たい雪で閉ざされた越後であるが、雪解けで随分道も良くなった。

『軒猿』の繋ぎ役は、越後に向けて街道を駆けていった。


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