たつおきくん、はじめてのらいぶ
龍興の目の前に能天気に笑う馬鹿の顔がある。
この男は『馬うえいく』というらしい。
(馬で戦場を駆けながらのし上がる。言いたい事はわかるが、なんという珍妙な名前だろう)
こんな名前を考える奴も、それを喜んで名乗る奴も、馬鹿じゃ。馬鹿ばかりじゃ。馬鹿馬鹿しい。
わしはこんな馬鹿共に負けたのか。
そんな風に心の中で悪態をつく。
『馬うえいく』は、にかにかと屈託なく笑っていて、龍興にはそれが眩しく腹立たしかった。
利家はそんな心中の事など一切無視し、龍興を好き勝手に連れ回しては、自分が森部観光を楽しんでいた。
龍興はそんな利家に苛立ちながらも、誰の目も気にせずただの少年として遊び回る初めての体験に、いつしか家や国の事など考えなくなってきた。
しばらく遊んだ後、利家は龍興を森部城の縄張り内に入り、二の丸の開けた辺りに龍興を連れていった。そこにはすでに多くの民が詰めかけている。
龍興は利家に聞いた。
「おい馬うえいく、こんな所まで人を入れていいのかよ」
利家は適当に返事した。
「大丈夫じゃねえ?一応織田の乱破衆が目を光らせてるし」
「織田の馬鹿者はお前だけではないのか……」
龍興の呆れた視線を受け、利家は笑った。
「お前、俺の兄と同じような事を言うなあ」
「兄がおるのか。兄も馬鹿か?」
利家は憎まれ口を気にした様子もなく、首を振った。
「いんや、優秀だ。体は弱いが優秀でな、いつも小言を言われる。家人共も兄と比べるからな。家に帰らば、腫れ物扱いで針の筵よ」
「お前……」
笑って言う利家に、龍興は身につまされた。
「なんでお前は笑っていられるんだ?」
龍興の言葉に、利家はにかりと笑った。
「そりゃ、俺には俺の夢があるからな!武功を立てて、のし上がるって夢が!それに、殿も友もいる。俺の命を必死で救ってくれようとする友が……」
利家はじっと森部城を見ている。
龍興は途端に、心に黒い染みが広がっていくのを感じた。
(夢。夢などわしには無い。昔は父のようになるのが夢であったが、今や義務よ。友とて同じよ。わしは美濃の主だ。主に並ぶ友などいらぬわ)
その時、ドーン、ドーンと太鼓の音が響き、周囲にどよめきが走った。
どこからともなく、「えろ、えろ」という祈りの声が生まれ、その数は増していく。
遂には、地鳴りのような唸り声となり、森部の町を震わせた。
その光景に息を呑みながら城を見上げた龍興は、廻り縁に変態を見た。
頭に何やら白い頭巾を被り、それ以外はふんどし一丁という出で立ちだ。
その変態男が手を上げると、信者達はぴたりと口を閉じた。
男は眼下の民衆に語りかけた。
「えろ教徒達よ。我が同朋よ。森部によくぞ参られた!降臨祭を楽しんでおるかー!?」
うおおおぉぉーー!!
「これより、えろ大明神、柴田権六勝家様の御降臨がある。が、その前に、えろ道の神髄を見事会得し、使徒となった者達の紹介じゃ。使徒となった者達には、その証としてえろ大明神様から御聖布を賜った。わしのつけている頭巾がそれじゃあ!」
うおおおぉぉーー!!
(ああ、あの頭巾はそういうものか)
龍興は納得した。それにしても信者達の熱気が凄い。
「暑いな……」
「水を飲むか?」
自然と洩れた龍興の言葉に反応し、利家は水を差し出した。
「有り難い」
水を受け取り、口に含む。
その時、また男の声が聞こえた。
「この御聖布はなんと!えろ大明神様のお体の最も大事な一部を実際に包んでいた、『ふんどし』である!!!」
ブバッッ!!
龍興は思わず吹き出した。
「お侍の兄ちゃん、汚いなあ……」
「す、すまぬ」
前にいた子供に睨まれ、龍興は無意識に謝った。
「有り難やー、有り難やー、えろえろえろ……」
隣では爺が拝んでいる。
(ふんどしだぞ!しかも使ったふんどし!どこが有り難いんだ!)
前にいる子供の兄弟がきらきらした眼で変態を見つめている。
「えろ大明神様のふんどしとか、すっげー!」
「使徒様、かっこいいなあ。ふんどし頭巾、俺も父ちゃんのでやってみよう」
(目を覚ませ!!あいつ変態だぞ!あと、お前ら父ちゃんのふんどし、よく被れるな。わしが父上のふんどしを……無理だ。被れん!)
被れなくてよかった。斎藤義龍のふんどしを被る斎藤龍興の逸話は、決して後世に伝わってはならない。
一方利家は、
「流石柴田殿だぜ!ふんどしが御褒美になっちまうとは!後で俺も今日履いてるやつもらえねえかなあ」
ふんどしを欲しがっていた。
「お前、他人が今日履いたほかほかのふんどしを被れるのか?!いや、そもそもおかしいと思わないのか?いや、わしがおかしいのか?」
龍興は混乱してきた。
廻り縁ではふんどし頭巾変態男が、使徒紹介を始めたようだ。
「まずは、わし!えろ大明神様の最初の弟子にしてえろ教筆頭祭司、そして第一の使徒ぉ!森部城城主ぅ!河村久五郎じゃあ!!」
うおおおぉぉーー!!
混乱中だった龍興は、思いがけぬ名前を聞き、目を剥いた。
「河村久五郎じゃと?!」
(河村久五郎といえば、寝返ったとはいえ、以前会うた時の様子は人身掌握に長けた強かな能将だったはず。あのふんどしを被った変態が……何があった?!河村久五郎ーー!)
希美と出会ってしまっただけである。
使徒紹介はどんどん進んでいく。
「すっげー!神髄を会得って難しそうなのに、あんなにいるんだなあ。俺もがんばらないと」
利家の独り言が龍興の興味を引いた。
「神髄を会得したら、どうなるんだ?」
「女が着物を着てても、裸に見える」
「すげええー!!」
龍興も段々こちらの世界に染まってきたようだ。
ドコドコドコドコドコドコ…………
太鼓のリズムが変わる。
自然と龍興は廻り縁に目を向けた。
えろえろえろえろえろえろえろえろ…………
周囲の祈りの声が高まる。信者達の声が幾重にも重なり、地の底から響くような唸り声と化す。
『えろ大明神』、『仏敵殲滅 我有仏加護』の旗指物。
頭には黄金に輝く『えろ』兜。
そこには、えろ大明神、柴田権六勝家が立っていた。
「あの男が……」
龍興は呟いた。ただ、目を離せずに見ていた。
柴田は口を開いた。
「えろ教の信徒達よぉっ!私が『えろ大明神』柴田権六勝家であぁるぅ!今日は私の来舞によく来てくれたぁ!!」
ううあおおおおおおおぉぉぉぉ!!!!
(ら、らいぶ??降臨祭じゃないのか?)
出だしから龍興には理解できなかった。
「じゃあ、一曲目行くぞお!お馴染みの織田軍歌!『おお魔鬼婆は緑』!!」
(歌?しかも織田軍歌?)
まわりは皆、当たり前のように大合唱だ。
(確かに織田の奴ら、合戦前によく歌ってたから我等も自然と覚えてしまったが、これ、美濃兵の首を取る歌だぞ?!)
戸惑う龍興の肩に、利家が腕を回した。
「一緒に歌おうぜ!」
「はあ?!お前、馬鹿か!この歌はわしら斎藤を……もうええ。歌ってやる!自棄じゃ!」
龍興はやけくそに馬鹿でかい声で歌った。
奇妙である。
斎藤龍興が、織田領でえろ教の祭に参加し、敵将と美濃の民と美濃兵の首を取る歌を合唱している。
考えるほどに、笑いがこみ上げてきた。
伝播したのか、なぜか利家も笑いが止まらないらしい。
「くはははははっ、わっはっはっはっ」
「いひっ、ひっひっ、ひーっひっひっ」
腹から笑った。皆笑顔だ。龍興は独りではなかった。
ここでは自分は斎藤ではない。ただの男だ。
重い鎧を脱いだような解放感があった。
柴田は大音声を上げた。
「えろ教に斎藤だの織田だの関係ない!!そんなものに拘らず、えろ教のもとに互いに助け合い守り合うならあっ!」
「私が斎藤だろうが、織田だろうが、お前達家族をみんな守ってやる!!!」
うあおおおおおおおぉぉぉぉ!!!!
森部の地が揺れた。
龍興は破裂しそうだった。
不意に前にいた子供が龍興に声をかけた。
「お侍のお兄ちゃん、どこか痛いの?」
「痛くない……なぜだ」
龍興が聞くと、子供は龍興の顔を指差して言った。
「だって、泣いてるよ」
龍興は頬を触った。濡れている。涙が止まらない。
泣いている事に気付いた龍興は声を上げた。
子供のように大声で喚いた。
そうして落ち着いた頃、龍興の口から自然に祈りの文句が出ていた。
「えろえろ……」
斎藤龍興がえろ教徒となった瞬間である。
降臨祭も終わりを迎え、利家と龍興は柴田勝家を探しに森部城本丸まで来ていた。
流石に龍興は顔を知られているかもしれぬので、門から離れた場所で待っていた。
利家が本丸の前で悶絶していた武士に話を聞いたようで、龍興の元に戻ってくる。
「さっき城を出て城下町に行ったらしいぞ」
「そうか、入れ違いか。ところでさっきの武士は大丈夫か?」
「降臨祭が爆笑だったらしい。滝川殿、笑い上戸なんだよなあ。呼吸困難で笑い死に寸前だった」
「織田の奴らはそんなんばっかだな」
龍興は呆れて利家を見た。
利家は気にするでもなく、柴田勝家探しに龍興を城下町へと誘った。
そして二人はやっと見つけたのである。
久五郎から奪ったふんどしを片手に歩く、柴田権六勝家その人を。




