希美はボクシングをわかっていない
フィクション♪フィクション♪
その日の朝、森部城主である河村久五郎はある密書を受け取った。
「何だ?誰からだ?」
家老の井貫主膳が答えた。
「それが……某の遠縁の者が預かって参ったのです。書を渡した者は織田方に仕える滝川彦右衛門の配下と名乗ったそうで」
「滝川……確か、甲賀衆を束ねる鉄砲の名手で、主君の信も厚く重用されていると聞いた事がある。なるほど、諜略か」
久五郎は鼻で嘲笑いながら書状を開けた。
(ふん、このわしを寝返らそうという魂胆か。さて、今さらこのわしに声をかけるとはの)
河村久五郎は、以前津島神社の禰宜であった。
津島は信長の祖父の代より、織田家とは縁が深い。当時久五郎は禰宜として、津島で力を持っていた。
しかし、久五郎を疎む者の讒言により、当時の織田家当主である信秀から目をつけられた。
久五郎はやむ無く、美濃に流れた。そこを当時の斎藤家当主である道三に拾われ、森部で城を任されるまでになったのである。
(わしを津島から追い出した織田家のために、拾うてくれた斎藤家を裏切る訳が無かろう)
まあ、禰宜でなくなったおかげで大手を振って女と楽しめるがな、そんな事を考えながら読み進めた久五郎は、目を疑った。
「主膳、お主この書状の中身を見たか?」
「は、検分はしておりますので……」
主膳が困惑した様子で答えた。
久五郎は溜め息を吐いた。
「あの『加護持ち柴田』がわしに会いたいそうな」
「会われるので?」
主膳の問いに、久五郎は唸った。
「十中八九、諜略であろう。今さら織田に寝返ろうとは思わぬ。しかし、噂の人よ。会うてみたい気もする」
主膳が気味悪そうに言った。
「本当に御仏の御加護を持っておるのでしょうか」
「わからぬ。のう主膳、確かめてみるか?」
久五郎は遊びを思いついた子どものように、楽しそうに囁いた。
「ま、まさか、鉄砲を仕掛けるおつもりで?!」
「くくくっ、出来ればしてみたいの。何、それで死ねば偽物か、御仏の名を騙った痴れ者よ」
「本物ならば、どうします!」
「ならば、偽物かどうか確かめるためと言えばよかろう。よし、そうしよう。鉄砲の用意をしてから会うぞ」
主膳は久五郎を呆れた目で見たが、渋々頷いた。
「そういえば、柴田勝家は女と交わると死ぬのだったな。ちょっと趣向を凝らそうか」
久五郎は可笑しそうにくつくつと笑った。
どうせ会うなら盛大にからかってやろう、そんな風に考えていたのである。
いよいよ森部城突入の日がやってきた。
突入にあたっては一益が色々と根回しをしてくれたようだ。
「たのもーう!!」と普通にアポなし突撃をしようとしていた希美は、一益と次兵衛から怒られ止められた。
怒られ止められる。妙な言い回しだが、希美の状態はまさにそれだった。
「お一人で城を相手に戦を仕掛けられるおつもりですか!?」
「あんた、馬鹿か?!そんなド派手な諜略があるか!!」
(確かにね。一人で城攻めしても、たぶん無双できるんだけど、諜略《物理》はまずいか!)
希美は反省した。
営業で新規の会社訪問をするのに、「あ?社長に会えない?んなこと知るかい!無理矢理通るぜ!」は、警察を呼ばれる事案である。
そんなわけで、希美はあらかじめ取り決めておいた偽名で森部城に入ると、初老の武士に草庵に通された。
草庵の中はわりと広かった。
八畳くらいはあるだろうか。質素な造りとなっているが、畳は綺麗に清められ、二面の障子窓からの自然光が部屋の静謐さを演出している。
壁に掛けられた掛け軸と設えられた朝顔が、華美を好まぬ主人の美意識を感じさせていた。
「広さに驚かれたかな?」
部屋を観察する希美の視線に気付いたのか、五十手前だろう丸顔の男が話しかけた。久五郎である。
「普通、茶室とはもう少し手狭に造るものなのですがな、これだけの広さがあれば大勢で酒を飲むのもよし、色々と羽目も外せます故な。たまに一人、ここで過ごす事も御座る」
満足そうに笑みを浮かべる久五郎に希美は納得した。
(ああ、男ってこういうの好きそうよね、つまり)
「男の隠れ家、ですか」
久五郎は、軽く目を見張り頷いた。
「然り。『男の隠れ家』……なるほど。良い呼び様に御座る」
(おっと、またどうでもいい現代語を持ち込んでしまったか?後世で茶室や草庵が『男の隠れ家』と呼ばれるようになったら……)
希美は、イベントの展示でガイドさんに「これがあの有名な、秀吉の『金の男の隠れ家』です」と説明される所を想像した。
(いや、別に問題ないか)
『髭剃り柴田』に比べれば、何の問題も無かった。
「さて、名乗りが遅れましたな。某、織田家家臣柴田権六と申す」
「河村久五郎と申す。そこに控えておるのが、家老の井貫主膳。同じく家老の筒井長助。侍大将の青池平右衛門よ」
森部城の重臣達が頭を下げる。当然三人きりという事はない。『男の隠れ家』の外には、多くの武士の気配がある。
希美がここで凶行に及べば、どっとなだれ込んで来るだろう。
「遠い所をよく参られた。まずは一杯馳走申そう」
久五郎はするすると茶を点て、赤茶に光る椀を希美の前に置いた。
希美は勝家の記憶を掘り起こし、作法を違えず茶を飲み干した。
「結構なお手前で」
「なるほど。噂の通り。毒は効かぬか」
(初っぱなから毒仕込む!?この丸顔親父、実は斎藤道三なんじゃない?)
希美は動揺を隠し、冷ややかに久五郎を見据えた。
「いや、怒られたなら申し訳ない。柴田殿のお噂は耳にしておりました故、偽物ではないか確かめさせて頂いた次第」
「これで、おわかり頂けたであろう」
涼しい顔で答えた希美だったが、内心は冷や汗ものだ。
(おいーー!肉体は確かにどんな武器も通さないけど、毒は試してなかったわ!もし効いたら終わってたー!!)
久五郎も驚いていた。
(おいおい、鳥兜ぞ。本当に効かぬのか。鉄砲の代わりに毒をしかけてみたが。仏の御加護……これが織田におるのはまずいぞ)
当然久五郎も年経た武将。顔には出さぬ。
希美と久五郎は自然、顔を見合せ笑んで見せた。
「いや、失礼した」
「なんの、なんの」
久五郎が切り出した。
「それで、何のご用で来られたのかな」
「わかっており申そう。織田家に加担して頂きたいので御座る」
「何故わしが。わしは津島で織田家に追われ申した。そのわしを受け入れたは斎藤家ぞ」
「聞いており申す。その節は申し訳なく。しかし、既に先代は亡くなり、当代は河村殿が織田家に加わらば、必ずや恩に報いると。まずは、本領安堵をお約束し申す」
久五郎は嘲笑った。
「口ではなんとも言え申すな。そもそも、何故わしなのか。これまでの合戦はもっと南であったろうに」
「そりゃ、次の合戦が森部であるから、で御座るな」
ズザッ
青池平右衛門が腰を浮かした。
他の重臣も目を剥いている。
久五郎は固まっている。
知略を駆使したいとはいっても所詮、希美である。
この諜略戦、希美はどストレートにジャブを振り抜いたのだった。




