秘密の連れション
久秀は、何の話だかわからず内心パニックの希美に、「某の事を心配されているなら、ご安心を」と言って辺りを見渡した。
「ここなら、あまり人に見られませぬ。特にこの時間は、芥川山城でもお薦めの用足し場に御座いましてな。この場所には、よく大殿と用を足しに参ったもので」
そうして、昔を思い出すように、「飯盛山に大殿が移られる前は、ここが大殿との秘密の語らいの場に御座った」と一人ごちた。
久秀は、自身も用を足すのに建物の前に立ち、ふんどしを緩め、放尿した。
希美も久秀の隣に立ち、仕方なく同じように建物の前に向かって立ちションを始める。
その流れるような立ちションぶりは、最早、元女のそれではない。
久秀はもう一度、希美に尋ねた。
「某が贈った『黄素妙論』の写本について、聞きたい事があるのではないですかな?」
「ああ、そういえば!」
希美は思い出した。
以前、『後藤賢豊が三好と通じている』と、『黄素妙論』にしたためた和歌で知らせたのは、松永久秀であった。
希美は問うた。
「なんで、自軍の機密を私に教えたの?」
久秀は、ちょろちょろと出しながら答えた。
「某は、元は貧しい土豪の出でしてなあ。そのわしを引き立てて、目をかけて下さったのが、大殿で御座る。故に忠誠は大殿だけに捧げており申す」
何やら自分語りが始まった。これは長くなりそうだ。
「殿は優秀で御座るが、まあ大殿が望むので仕えているようなものでしてな。正直、勝とうが負けようが、大殿さえ悲しまねばそれで良かったので御座る」
「はあ」
希美は既に終えているが、相手の話の途中で自分だけさっさとしまうのもなんとなく憚られて、立ちションの体勢のまま、相槌を打った。
「もちろん、お師匠様のためにという気持ちもありましたが、大事なのは、殿が大殿の元に生きて戻る事」
「生きて?」
「そう。織田は今勢いがあり、お師匠様も、有力な家臣も、何より数と物量が多い。それに比べ三好家は、一門衆の不幸が続き、大殿も病がち、領内の反乱も目立ってきており、いくら一向宗の手を借りても、某はこの戦、負けると見越しており申した」
久秀の蛇口は、経年劣化が始まっているようだ。
時々止まってはちょろちょろ出続けている。
切れが悪い、というやつだ。
おじさんとは、悲しい生き物である。
久秀の話も続く。
「まあ要は、某があの歌を一つ贈る事で、織田に大きな貸しを押し付けたわけですな。その貸しをもって、万が一の時は、殿の助命をお願いしようかと」
「なるほどなあ!」
素直に感心する希美に、久秀はニヤリと笑って言った。
「それに、最悪、三好家が織田に潰されて危ない時に、あの貢献があれば、大殿を連れて、織田への寝返りが捗るというものに御座る」
久秀の蛇口は、いつの間にか閉まっていた。
(うん。とりあえず、こいつは三好長慶大好きマンなんだな)
希美の中で、ふと信長の顔が浮かび、ちょっとだけ久秀に親近感が湧いた。
フフフ……キャー……まあ……ですわね……
「ん?」
希美が久秀への印象を改めていると、どこからか女達の姦しい声が聞こえてきた。
どうやら希美達のいる場所の反対側からやって来るようで、だんだん近付いてくる。
どうも、目の前の建物の中に入ったらしい。
希美の目線にある格子窓から何やら楽しげな声がする。
「ほほっ、来ましたか」
久秀が嬉しそうに、何やら台のようなものを向こうから引っ張ってきて窓の下に設置した。
台に乗り、そうっと窓から中を覗く。
そして、声を出さずに口パクで「こちらへ」と言いながら希美を手招きした。
希美も、格子の隙間から中を覗いてみた。
女中達だ。
肌も露に、着替えている。
驚いて久秀に目を向けると、久秀は実に愉しそうな様子で、希美の耳元に顔を寄せた。
「ここは、洗濯仕事を終えて衣を濡らした女中達が着替える場所に御座る。いや、たまらぬのう。あのむっちりとした白き足……ハアハア」
「松永弾正、てめえ……」
目を据わらせた希美に、久秀が囁いた。
「お師匠様、次はこちらの用を足しましょうぞ?おお、そうじゃ。ちょうどよい。今から某がお師匠様に、『黄素妙論』の極意を、実践で教えて進ぜましょうな」
久秀が希美の、いや柴田勝家の硬い尻を、ぺろりと撫でた。
(ダメだ、こいつ。完全にギルティだわ)
希美は、力任せに窓の木格子を引っこ抜くと、久秀を死なぬ程度に腹パンし、窓から中に投げ入れた。
同時に、叫ぶ。
「覗き魔じゃあ!覗き魔が出たぞおお!!」
そして自分は脱兎の如く、その場から逃げ去った。
キャアアア!!
曲者よお!!
ドカッ、バキッ
誰か、男を呼んできてー!
後ろの方で、悲鳴や袋叩きの音が聞こえる。
希美は、そのまま何食わぬ顔で部屋に戻った。
さて、次の日の朝、希美一行が芥川山城を発つという事で、長慶が見送りに来てくれた。
「あまりたいしたもてなしも出来ぬままで申し訳御座らぬ。織田上総介殿によろしくお伝え下され」
心苦しそうに話している姿は、相変わらずいい人そうだ。
だが、騙されてはいけない。
あの秘密の用足し場で、久秀は確かに言ったのだ。
『この場所には、よく大殿と用を足しに参ったもので』
『ここが大殿との秘密の語らいの場に御座った』
しかも、覗き用の台が作られ、二人は乗れる広さであった。
これは確実に、長慶も覗き魔だろう。
人は見かけによらないものだ。だが、『まさか、あの人が』は犯罪者のキャッチコピーである。
希美は、終始ビジネススマイルで長慶に対応する事にした。
ちなみに久秀は、不届き千万で石牢の中だ。
希美は、長慶に揺さぶりをかけてみた。
「松永殿に会えぬのは残念で御座るが、『覗き』などという卑劣な行為は、大いに反省してもらわねばなりませんからなあ」
「いや、真にお恥ずかしい。恐らく、源氏物語の光源氏に憧れて『垣間見』をしておったのでしょう。『垣間見』は古来よりの風習ですからなあ。そう、ものの隙間から見える景色は、まさに桃源郷!………だと聞いた事があり申す」
(こいつ、『垣間見』を擁護しおったぞ。というか、ほぼ自白してんじゃねえか!)
だいいち、光源氏は『垣間見』しながら用(意味深)を足しはしない。
「あ、松永殿といえば」と希美は久秀から借りっぱなしになっていた『黄素妙論』を懐から取り出して、長慶に渡した。
「これを返しそびれました。お渡し願えますか?」
「構いませぬよ」
長慶は、快く引き受ける。
「そういえば、曲直瀬先生には結局会えず仕舞いでした。筑前守殿はまだ良くないので?」
「いえ、重湯を食べられるまでには回復しましてな。ただ、また倒れるといけぬ故、付いてもらっております」
「そうですか。そっか、食べ物……」
希美は医者ではないから病を直す事はできないが、テレビの健康番組なら山ほど見てきている。
そこで、長慶に言伝てを頼む事にした。
「曲直瀬先生にお伝え下され。黄疸は肝臓が悪くなって出ると聞きます。肝臓に良いしじみを摂らせるようにお伝え下され。大量のしじみをコトコトコトコト煮出して、濃いしじみ汁を飲ませてみるとよいかと。恐らく気休め程度にしかならないけど、何もしないよりはましかと思いまする」
長慶は希美の手を取って頭を下げた。
「神の叡知を孫次郎のために……!かたじけない、かたじけない……、柴田殿!いや、柴田様!必ず、しじみを習慣にさせまする!」
「うん、言っちゃうと思ってたよ、そのワード!でも、病を治すわけじゃないから。これは効果・効能を示すものではなく、効き目には個人差があるから。とにかく、気休めだからね!」
「それでも、手立てなくただ見ているよりは、ずっと良い。ありがたや……えろえろえろ」
跪き、祈りの文句を唱え始めた長慶に、希美は慌てた。
「ええ!?あなた、えろ教徒じゃなかったよね?!」
河村久五郎が進み出た。
「三好修理大夫殿は、まさに今発心を起こされたのです、お師匠様。修理大夫殿、アナタハ、えろヲ、シンジマースカ?」
「なんで、カタコトなんだ、久五郎?」
「信じまする!慈悲深きえろに感謝して、えろに帰依致しまする」
「な、何い!!?」
驚く希美の前で、筆頭使徒の久五郎が長慶を導いている。
「よくぞ申された、修理大夫殿。これより、そなたはえろ教徒。えろに精進なされよ」
長慶はその場に平伏し、急に語り始めた。
「ははあっ!……じ、実は、わしはえろ罪人なので御座る。どうか懺悔を聞いて下され」
「申されよ」
「はっ。わしは、今まで久秀と共に多くの城で、女の着替えを『垣間見』し申した!実は、『垣間見』のために、普請の時から着替えの建物の位置や窓の高さを調整しておったので御座る!」
「ええーー!!?」
希美は叫んだ。
とんでもない歴史の新事実が発覚してしまった。
絶対に現代には伝えてはいけない、闇の歴史的真実である。
「こんなわしでも、えろ教徒として迎えていただけるだろうか……」
不安そうな長慶に、久五郎は穏やかに微笑んだ。
「もちろんですぞ。えろ大明神様は、あらゆる『えろ』、あらゆる『変態』を受け入れまする。ご安心なされい」
「ありがたや……」
「おい!私は、あらゆる変態なんぞ受け入れてないわ!私を変態の神に祀り上げるの、止めろ!!」
「おお、そうでしたな。人に迷惑をかけるのはいけませぬぞ。わしが営む遊女屋『睡蓮屋』に、覗き部屋を設けましょう。遊女の着替えや、客との会瀬を覗ける部屋を。何、覗くのが好きな者がいるなら、覗かれるのが好きな客もおりましょう。この近くですと、堺に店がありまする。是非、ご利用下され」
「おお、ありがたい!」
「お前、ちゃっかり店を売り込みやがって……」
河村久五郎は、やり手であった。
旅立ち前に精神を疲弊してしまった希美の肩に、輝虎がポンと手を置いた。
「河村ばかりに宣伝させてどうする。ゴンさんも、わしら越後衆が宣伝に協力しておる『武将紅』を売り込まぬか!」
希美は、長慶に渡すサンプルを取りに、堺に寄り道する事を決めた。
こうして、希美達は芥川山城を後にした。
七月初旬の朝。蝉の声と長慶の「えろえろ」という祈りが、堺に向けて旅立つ希美の耳にいつまでも残っていた。
平安貴族「『垣間見(覗き)』は、文化」
人前に出ないお姫様の事を知るのに、平安貴族は文通と覗きしか手段が無かったんや……
光源氏が文通だけで末摘花と結婚したら、朝見た末摘花が醜すぎてビックリした、なんて話もあるんだ。
でも、当時のお姫様ってのは、男に顔を見られるのは全裸を見られるのくらい恥ずかしい事だったらしい。
つまり、貴族がお姫様を覗くのは、清純派のお姫様からしたら、裸を覗きにくる痴漢ですね。
けしからん!




