第84話 桃源郷と伏魔殿
美濃国 稲葉山城
京の混乱がある程度落ち着いた頃、三好伊賀守利長(長慶)殿から婚姻に美濃に向かう日付について連絡が来た。
6月頃にどうやらなりそうだ。ジューンブライドか。向こうの祈祷師がそこが吉日と言っているらしい。
婚儀の為にと斎藤の屋敷にいる料理人にいくつかの料理を教えておく。蓮根料理と東氏から届く山葵などを使う料理を作るよう指示する。デザートは蜂蜜も使う。お満に美濃や周辺の食べ物を気に入ってもらうのが大事なのだ。我らがソウルフード赤味噌はコクを加えるために使うんだぞ。
三好殿の一行は海路を使い叔父の屋敷で諸々の儀式を進めた。まぁ摂津まで迎えの武士を派遣するのも大変だから仕方ない。ちなみに迎えの役は平井宮内卿の子息甚五郎綱正と大沢左衛門尉正秀らが務めた。
相手方の送り役は松永弾正(義理犬)殿だった。あの場にいた誰より緊張していて、誰よりも感動していた。まさか三三九度段階で泣き出すとは。参加していた斎藤の親族も皆目を丸くしていた。
祝儀の品には讃岐や阿波の名産品と西陣の絹織物などが並んだ。船旅とはいえ当主本人に700近い人間がやって来たあたり、三好殿は今回の婚儀をかなり重要と見ているようだ。
上質な絹の衣装を着たお満は顔が殆ど見えなかったが、布に透けたうなじだけでも真っ赤になっているのがわかった。白粉が何の意味もない程だ。杯を持つ手も震えていて中身が溢れないか心配だったくらいだ。
彼女が緊張してくれたおかげといっては良くないが、逆にこちらは冷静になれたので心の中で感謝した。そして絹の衣装では隠しきれない膨よかな胸と、こちらの脳が蕩けるような囁き声を聞いたことで、生まれ変わったことを強く感謝した。
「貴方様、宜しくお願いします。」
僅かにこちらを向いてか細くも耳に心地よい声で言われると、それだけで気持ちが浮つく。
「此方こそ。末長くお願いします。」
秘密の会話の如く小さな声で応じると、彼女の肩の力が少し抜けるのを感じた。
♢
夜。
2人だけになったのでまずは食事は口に合ったかなど、声の大きさを合わせて雑談から始めた。
緊張からか再び肩に力が入っている彼女を見れば直ぐに夜伽という気分にはならない。力んだ乳は本当の乳ではない。その素晴らしさを味わうなら、下拵えが大事なのだ。
「あの蜂蜜の甘味は如何だった?」
「美味しゅう御座いました。家でも食べた事がない程甘美なもので。」
隣り合って肩が触れるか触れないかの距離でここまでの船旅について聞いてみたり、自分が畿内へ行った時の事などを話す。
肩の力が抜けて来るのを感じたところで左手を取る。再び少し強張る彼女を解すように両手で左手をさすりながら、怖くないよと思いを込める。
「し、新九郎様……」
「持って来た服は見事な意匠の物でしたね。あれは家にあったのですか?」
「い、いえ。此度の為に新たに揃えた物も多う御座います。」
「鮮やかな赤の物や藍の入った物など、今の美濃では手に入らぬであろう名品ばかりですね。」
「はい。兄が随分張り切って見繕ってくれました。」
また力が抜けたところで今度は肩を抱き寄せる。まだだ。がっついたら強張りで至高の乳は失われる。
「優しいですね、貴方様は。」
「そうかな?」
「はい。先程からずっと、落ち着けるようにと気にかけて下さっています。」
「初めて2人で過ごすのだから、互いに良き思い出でなければと思っただけだよ。」
クスクスと声にならない声で笑うそれすら耳を豊かにしてくれる。まるでセロトニンを発しているような穏やかになれる声だ。
「兄はいつも貴方様をお褒めでした。お話に聞いていた通りの御方で嬉しゅう御座います。」
少しだけ声が大きくなった気がする。
「私はまだ作法を習ったことしかありません。何卒宜しくお願い致します。」
やや体を預けるようにしながら耳元まで自ら近づいてきてそう囁いた声は、先程までの甘く心地良いものに僅かに艶美な色を纏っていた。
一瞬で理性が持っていかれた。
♢
胸元の柔らかな中に少し硬さのある突起の押し付けられる感触で目を覚ます。自分の胸付近に頭を乗せ、上に被さる形でお満が寝ていた。
お満の寝顔を少し眺める。と同時に僅かに視界にある柔らかなお餅も見える。
前世でもこれ程のものは味わえなかった。柔らかでありながらしっとりと肌に張り付くようで、手で掴めば沈むような感触なのに形は決して崩れない。
重みがありながら不快さがない。
桃源郷とはここにあったのだ。
昨夜を反芻していると、控えめに部屋の襖の向こうから声がかかった。今日は家臣への御披露目がある。起きて体操の時間だ。
声に気づいたお満も目を細く開けた。目をシパシパと暫く開けて閉じて繰り返している。
僅かに顔を上げた分谷間が視界に入る。起きてようやく少し落ち着いた下腹部に元気が戻りそうなのを必死に堪える。
「わひゅっ……!」
太腿で軽く挟まれるような形になったことで、それが何か自覚したお満が一気に目を見開いた。起きたらしい。
「お、お早う御座います」
「お早う、お満。服を着て顔を洗っておいで。これから体操があるから。」
勢い良く頭を振って頷くと、起き上がって側に脱いだままになっていた服を着てさっさと部屋を出て行った。
昨日の宴同様うなじまで真っ赤になっていた。それでも部屋を出た直後に、こちらに聞こえる声の大きさで、
「さ、先に準備して待っています。御前様。」
そう言ってくれただけ慣れたのだろう。
口元のにやけが取れないままラジオ体操をしていたためか、十兵衛に「今のお顔で他の家臣の前には御出にならぬ方が宜しいかと」とか真顔で言われることになった。
♢
基本となる儀式を終えたので、三好殿と会談することになった。こちらは父と平井宮内卿、向こうは篠原長政殿と元服したばかりという安宅神太郎冬康殿である。
「畿内はまだ落ち着いたとも言えませぬ。が、落ち着きを取り戻しつつあります。此度の婚儀、都にも明るい話題となり良き流れを生みましょう。」
三好殿はご機嫌である。先日の木沢長政との戦で武名を大いに轟かせたのだ。畿内では管領・六角に次ぐ第三の実力者と認識されつつある。
そんな実力者である三好殿に同じくらい上機嫌の父左近大夫利政が話しかける。
「本願寺が混乱しているおかげで長島も身動きが取れぬ。此方としても三好殿の一手には助けられた。」
「いやいや。某は関わっておりませぬぞ。蓮淳に破門された志ある者による義挙を支持しただけに御座いますれば。」
まるで狐と狸の化かし合いだが、問題はどちらも利害が一致しているからここにいない別の誰かが被害を被るということだ。
「今後、わしらは朝倉との戦いと共に周辺への影響力拡大を狙うこととなろう。都での朝倉の噂は如何かな?」
「ふむ。やはり此度も含め兵を出さぬ事に不審を抱く者がおりますな。越前は近いようで遠い、遠いようで近い地。故に少なからず畿内に関わらざるを得ませぬ。しかし土岐の力が増しているためなかなかこちらに関われずにおりますな。」
朝倉と幕府の関係は悪くない。現室町将軍である足利義晴様は幾度も朝倉氏に助けられている。
しかし、近年は北近江情勢・加賀の本願寺・美濃の土岐という3つの懸案事項があるため、外部への干渉が少ない志向を益々強めていた。
「しかし、それでも越前和紙の流通は続いている。管領様が関わっているようだが。」
「左様に御座います。管領様は恐らく越前と美濃が争い続ける事を願っておりまする。」
「土岐が強くなりすぎぬよう。そして、其方を土岐が助けぬように。」
「管領様が一番恐れているのは某です。会った時の様子ですぐわかります。六角様は今北伊勢と嫡子の相続を円満に終わらせることに手一杯で自分には刃を向けぬと御思いですから、必然我らが最大の懸念となるのです。」
困ったものですね、と呟く三好殿だが、その表情に困った様子はない。
「とはいえ、此度の戦で新しい恩賞もありました。暫くは大人しくしている心算で御座います。」
「随分と胸の内を見せてくれるな。何が望みかな?」
「いえいえ、ただただ共に儲かれば良いと。三好と斎藤が、手を取り力を蓄えられるのが一番かと思いまして。」
三好殿が父を見る目は「管領と自分」と「太守様と父」が同じ関係であろうと示唆するようなものだった。即ち、上司だがいずれ取り除かなければいけない相手だろう、という。
「まぁ、わしも美濃の、そして日ノ本の行く末を案じておるからな。今のままではいつかまた歪みが出るであろうから、な。」
父の口振りには歯ぎしり癖の治らない土岐嫡男の姿が幻視できた。二郎サマと斎藤は相容れない。同時に、三好殿と管領のお気に入りである三好政長も相容れないのだ。
「歪みは正さねばなりませぬな。」
「真に。お互い苦労するでしょうな。」
「血の繋がりも得たのです。共に手を取り力を合わせましょう。多少道が外れても、血の縁は大事にしたいと思っておりますので。」
「うむ。二人も良き縁だと喜んでおるからな。何があっても互いの縁は切れぬように強くしておきたいところよ。」
手をがっしりと握り合った2人を見て、俺は毒蛇と若き羆が協力して日ノ本を呑みこもうとしているように錯覚した。
初夜で手に入れた爽快で夢と希望に満ちた世界を返してほしい。
平井綱正はこういう時の役目として名前は出しましたが正直名前以外はしばらく出ないと思います。
父親の信正の方が正史でも長生きなのですよね(小牧・長久手で戦死しているし)。
三好長慶を羆に例えたのは幼名が千熊丸だからです。マムシと羆の化かし合いですね。
赤味噌は使い方次第って某公共放送の番組が言ってました。カレーに入れるとコクが増すんだとか。
愛知・岐阜・三重の方以外の方も赤味噌の美味しさを知って頂ければ嬉しいですね。




