第71話 薄氷の割れる音
相模国 小田原
真岡での日々が終わった後、北条氏と同盟している下総の結城氏の当主や子息、重臣にも種痘をして関東旅行?は終わった。
結城氏の次期当主明朝殿は同い年だったのでこれからも文通をしようと約束した。
更に結城の蚕と職人も派遣してくれるそうだ。生糸は幕末以降の日本の主力輸出品だった。産業として今から頑張って育てたいところだ。
関東の織物技術を手に入れるという大きな成果を得て、俺は帰国の途に――
「てんやくのかみさま!まっていてくださいね!」
「典薬頭殿、頃合が良くなったら娘を向かわせますので、暫しお待ち頂きたい。」
すぐにはつけず、須賀湊(前世の平塚あたりらしい)で未来の側室に笑顔でお別れをしたり未来の義父・義祖父に笑顔で見送られたりすることになった。
行きはバタバタして感じなかった潮の香りが鼻を抜ける感覚と共に、対面の幼女にやや潤んだ目で見上げられていると自分が何か悪いことをして島流しにあうかのような錯覚に陥る。
「あの、余り慌てずにお願いします。御両親と離れ離れになるのはあまり早いと辛いでしょうし。」
「いつかは離れると思い、必要以上に側には置かぬようしております。本人も慣れておりましょう。」
「心身がきちんと育つ前に親元を離れるのはあまり宜しくありませんので。」
「御安心下さい。子が作れるようになるまでに作法は仕込んでおきますので。」
文化が違うな。せめて小学生の年齢では来ないよううまいこと躱しながら頑張ろう。
「だんなさま!まっていてくださいね!かならずあなたにふさわしい女になりますから!ぜったいですから!」
すごく元気に笑っているが、なんか目を見ると寒気がする。
「ぜったいですから……」
背筋に少し冷や汗が噴き出す。子供らしい可愛さと華があるのに、何かが怖い。
未知の感覚に戸惑いながらも手を振り、「またね」と言って別れた。氏綱様からは、
「命の恩人でなければ春を嫁になどやりたくなかった……。婚姻などせずとも良かったものを……」
と、やや芝居掛かった口調で言われた。半分は本気に見えたので余程可愛かったのだろう。このあたりはお爺ちゃんという立場がもたらすものだろうか。逆に父親の方が「これも武家の務め。むしろ良縁を用意できたことは父として誉れ」とか言っていた。
最後に処方している炙甘草湯と薏苡仁湯をきちんと飲むことを念押しし、保存が効く多くの海産物を船に積み、自分たち一向は関東を後にした。
♢
尾張国 津島湊
真夏の日差しを浴びながらも船は順調に尾張へ帰り着いた。
蟹江周辺を織田が抑えていることもあり、そのまま船だけで津島まで向かった。
津島に辿り着くと、そこでは1人の人物が出迎えてくれた。弾正忠織田の現当主、織田弾正忠信秀だ。
「初めましてですな。織田弾正忠信秀と申す。日頃から愚息が世話になっておりますこと感謝致します。」
「わざわざお出迎え頂き恐縮です。斎藤典薬頭利芸で御座います。」
初めて会った信長のお父さんは、自信に溢れた挑戦的目つきの人物だった。口髭が長く口元がやや隠れるほどの長さで、小さな表情の変化がわかりにくいように見えた。
「背後を気にせず戦えるのは典薬頭殿のおかげだ。海藻や石鹸、紙の取引でも儲けさせて頂いている。」
「こちらこそ、海がないので塩が安定して手に入るようになり助かっております。」
そう答えると弾正忠は相好を崩しながら「兵糧米や服部攻めでも世話になった」と言われた。左えくぼが本当に嬉しいことを感じさせる。
「妹君をうちの愚息に頂けるのも本当にありがたい。あれも其方を慕っておった。兄弟となれるのを喜んでおりました。」
史実では仲が良かった悪かったと色々な説があるらしい2人だが、この世界では仲良くなれると良いのだけれど。
「今は多くを手伝って頂いている立場だが、何かあればこちらもお役に立ちたいと思っている。特に越前は我らが主である武衛様の守護任国。その名が必要であれば取り次ぎなどさせていただきたい。」
「ありがとうございます。弾正忠様とは今後も仲良くして頂きたいと思います。」
「それと、以前頼まれた例の物、なかなか順調に育っておるようだ。犬山の弟が田を作りにくい場所でもかなり安定して育つのでありがたいと言っておった。」
「それは良かったです。雄の株と雌の株を一緒に育ててますか?」
「細かいところは任せておるが、実もきちんと出来ておるそうだ。」
尾張でも一部の漢方を栽培してもらっている。土地によって育ちやすい育ちにくいがどうしてもあるので、必要量が多い植物は手広く育てることにしているのだ。
今は大規模にキカラスウリを育ててもらっている。犬山は水はけが良くキカラスウリの適地なので一部では収穫まで始まっていて心強い。実も根も、獲れたものはこちらで買い取っているので良い収入になるようだ。
その日は夜に宴席を設けてもらい、大いに接待を受けた。両家の繁栄を祈り、そして更に絆を深めようと話し合って終わった。
後で父の耳役から、吉法師こと後の信長は津島に俺が来ると聞いて屋敷を抜け出してこちらへ来ようとしたことを聞いた。城下で平手政秀に捕まって屋敷に連れ戻されていたらしい。
♢
美濃国 稲葉山城
稲葉山に戻ってきて早々、父たち悪だくみ三人衆に呼ばれた。持明院基規様は京に戻られたらしく、既に美濃にはいなかった。
部屋に入ると真剣な表情の三人が目に入った。板の間がいつもより少し冷たさを強く感じる。
「父上、ただ今戻りました。」
「戻ったか。良い仕事をしてきたな。」
そう答える父左近大夫利政だが、言葉とは裏腹に険しい表情のままだ。
「……何かありましたか?」
「一庫城を攻めていた三好が撤退を始めた。木沢長政が挙兵したためだ。」
畿内の実力者は管領細川晴元・近江守護六角弾正定頼・河内守護代木沢長政・丹波の評定衆波多野晴通・摂津守護代三好伊賀守利長こと後の長慶の5人だった。
彼らは互いに対立する部分がありながらも微妙なバランスで幕府を運営していた。その薄氷がついに割れた。
木沢長政が管領の号令による一庫城攻めに反発。城攻めをしていた三好・波多野に対し挙兵した。そのため両者は城の包囲を解除し撤退を始めたそうだ。
「で、面倒なのはこの書状よ。」
こちらに渡されたのは自分宛の木沢長政からの書状だった。
「中身は?」
「己の味方についてほしい、と。」
「……木沢様とは面識がありませんが。」
種痘の時も日を開けるという話になったため、結局弟子の1人を派遣して半井驢庵殿に今年の春頃に種痘をしてもらった。
なので会って話したことはほぼないはずである。
「前々から畿内のことは調べておったが、この木沢守護代はとんでもない奇人よ。其方と意見が合うやもしれぬのは確かだ。」
「奇人……ですか。」
木沢長政は畿内の実力者だが、元々は畠山氏の守護代を務める家柄である。河内と大和に勢力を持ち、応仁の乱以降分裂したままの畠山氏を実質的に取り仕切っている。
「だが、あの男は乱世を鎮めようとしてきたのだ。管領と三好の間をとりなし、三好と本願寺の和議をとりなし、己と双璧をなす畠山氏の有力者である遊佐長教とも一時は手を組んでいる。先日は再度畠山の当主争いを企てたかつての主君である畠山長経をも討っておる。」
その活動内容は特異だ。中心にはとにかく畿内の平定を考えていることが考えられ、そのためならかつての主君や擁立した公方すら討たんとしている。
「そして、其方への書状でも畿内の乱世を終わらせたいという思いをひたすらに書き連ねておる。或いは、出会うのが早ければ其方も乗り気になるやもしれぬほどに、ただただ純粋に畿内の戦乱を無くし民を安んじたいとな。」
その言葉に、平井宮内卿が溜息交じりに言葉を発し、叔父の隼人佐道利が続く。
「それで此度の挙兵となるのが何とも言えぬものがありますがの。」
「ただ、兄上の言う通りの人物ならば、今回の戦は容認できぬのも事実でしょうな。細川高国残党は各地に居ますが、面従腹背とはいえ仮にも従っていた塩川氏を管領様の心配から滅ぼしては他の国人が逆に離反しかねませぬ。」
一庫城の城主塩川政年は管領細川晴元のライバルだった故・細川高国の妹を妻にしている。
不穏な動きは見せつつも明確には対立せずにいた彼を管領は不安視した。そこにつけこんで自身の勢力拡大を狙ったのが三好伊賀守利長(長慶)らしい。強かだな。
で、それに対し新たな火種となるのを嫌い木沢長政は管領へ諫言した。しかし受け容れられなかったため、強引に一庫城の包囲を解かせるため挙兵した、と。
戦乱を防ぐために挙兵……本末転倒とはこのことだ。
人となりもそこまで知らないので味方する気には到底なれない。
「せめて話したことがあれば別ですが……味方することは少なくともありえませんね。父上もそうでしょう?」
「当然だ。土岐の家中も同様よ。この後木沢が如何するか情報を集めつつ、管領の味方として動くことになる。」
畿内はまた荒れるだろう。ただでさえ昨年に続き台風がやってきて山城を今度は直撃したところで戦の始まりだ。美濃は昨年生き残った強い苗を中心に植えた御蔭かそこまで被害は出ずにすんでいる。しかし京から各地へ逃げる民衆も出ているそうだ。尾張と美濃にも少しずつ人が入ってきている。
これまで薄氷の上で微妙なバランスで保たれていた管領細川晴元による政権は、薄氷を維持しようとする木沢長政の挙兵で終わりを告げた。
ただ巻き込まれていてはまた多くの人が死ぬことになる。自分に出来ることを探さなければならない。
結城の養蚕はかなり歴史が古いので、この機会に技術を手に入れております。
医術・医薬というものは偉大です。ヨクイニンは「よく」が漢字で変換できない場合があるそうなので平がなにしてあります。
木沢長政の反乱開始です。木沢長政も史実とは違う見方ができる人物です。
詳細は今後書いていきますが通説では謀略家・野心家ですが視点を変えて描いていきたいと思います。




