後話7 北条氏政の憂鬱29 極楽浄土は北の地に?
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Xアカウントで先日お会いした作画の田村先生にいただいた色紙の写真も上げているので、もし宜しければそちらもご覧ください。
豊前県 宇佐
宇佐八幡宮は大内氏と大友氏の勢力争いにより焼き討ちにあっていた。大寧寺の変で大内氏がその勢力を失った後、大友氏家臣で奈多八幡の宮司である奈多氏によって宇佐八幡は荒廃した。宇佐八幡の宮司である宮成公建は宇佐八幡を追われており、門司への上陸戦後に斎藤氏に接触して復興を相談していた。そのため、大友氏が織田・斎藤・三好の連合軍によって討伐された後少しずつ復興が進んでいた。
そして、この度最後となる黒男神社の再建が終わったことで敷地内の復興を終えた記念の式典が行われた。全国の八幡宮の総本山である宇佐八幡宮の復興ということで、全国の八幡宮から祝いの使者が参列しての式典であった。関東からは鎌倉の鶴岡八幡宮を代表して権大宮司と北条氏政が、常陸からは関東最古の大宝八幡宮の宮司が、上総の飯香岡八幡宮から権宮司が参加していた。他にも京の石清水八幡宮や周防の今八幡宮の関係者、来年再建完了予定となっている筑前の大分八幡宮の大宮司など、100名以上が参加する状況であった。
「流石は日ノ本各地に鎮座せし八幡社の総本社か」
氏政も感嘆する中、彼は石清水の権大宮司らとともに上座に座る。源氏の氏神である若宮八幡は宇佐八幡の上宮に向かう途中にある若宮神社から分祀された神社である。そのため、源氏による権威を元とする古河公方を維持する北条氏は今回の式典に出席しないわけにいかず、氏政という若当主の叔父を送ったことで上位の待遇を受けることとなっていた。
そんな氏政の隣に座るのが、斎藤義龍の子で江の方の次男、佐々木龍賢だった。彼は六角氏の遺児である信賢に男子が産まれなかったため、母親の血縁からその跡を継いでいた。彼は稲葉山の大学を卒業後国内の寺社管理に携わっており、その関係で今回も出席していた。
「氏政様は今日の式典で終わりでしょうが、私はこの後高良と太宰府の式典があるので、あと数日は九州泊まりです」
「そうか。龍賢殿はお忙しいようで何よりだ」
「凄いのは父や兄であって、私はいることが仕事ですがね」
「入道様の御子息がいることが何より大事。それがわかっているからこそ、適役と見込まれたのでしょう」
戦禍で被害を受けた寺社は山ほどある。それらの復興は今まさにピークだ。京周辺の整備や各地の大学整備などが落ち着き始め、政庁の整備に続いて寺社の復興が本格化している。信濃善光寺、肥後阿蘇大社、安芸厳島などの復興や参道整備が進み、今年から出雲大社の遷宮準備も始まる予定である。そして、今年は九州で有名な筑前の高良大社・太宰府天満宮・宇佐八幡宮が相次いで復興し式典を開催するのだ。
こうした寺社は復興の式典に政府の要人を呼ぶことで地域での権威の復活を狙っている。既に寺社は荘園をほぼ手放しており、政府から寺社の振興費として旧来の荘園から得ていた収入と似た金銭支援を受けている。現実的な権力はほぼない代わりに、こうした式典で有力者を呼べることで影響力を残しているのである。そして、その相手として龍賢は最適と言えた。
「兄上たちはそれぞれ様々な場で活躍しております。しかし、某はまだ大学を出て日が浅い。幼き頃より医の道に進んだり、書画に力を尽くしたり、そうした何かがあったわけではない故」
「いやいや。幼き頃より江の方様と各地の寺社に参り、鷹の絵の奉納をしてきた高頼様と共に過ごした日々は龍賢殿だけの積み重ねだ」
土岐頼芸の遺児である斎藤次郎龍頼。芸名を高頼とする彼の同母弟である龍賢は、天下統一後に寺社復興に協力すべく龍頼が鷹の絵を奉納する際に母とともに同行していた。そんな彼が復興が終わった寺社に大人となって参加することを、各地の寺社は歓迎していた。義龍や信長は高野山の仕置の影響もあり、ある種畏敬の対象である。その子どもの方が寺社には受け入れられているところがあった。
「そう思っていただければ何よりですが。とにかく、今できる事をまずはしながら、この国の為に何を出来るか考えます」
「そうですな。龍賢殿はまだ若い。今は世の中が大きく変わっている時。そのうち、否が応にも表舞台で求められるでしょう」
15歳で元服し、すぐに初陣、という時代は終わりつつある。中央では15歳ではまだ学校に通っていることが多く、庶民しか働かない。その庶民であっても、名主の息子ならばまだ高等学校で学んでいる者も出てきている。龍賢がまだまだ戦力扱いされない部分があっても当然である。慣習が残っているのはやはり関東だけだ。
氏政が進めている見合いにもこのギャップは影響している。関東の豪族側は17歳くらいの男子に年下の婚姻相手を求めている例が多い。しかし、中央の女性陣は高等女学院を17歳で卒業する。関東の武士の中では20歳までに婚姻は終わらせているものという思想は根強く、女性陣は卒業後に家独自の花嫁修業をしていてその頃でも婚姻は難しい。中央の優秀な人間は20歳でもまだ大学という場合が多いだけに、中央で婚姻相手を探すならそれで問題ないのだ。
(中央の婚儀は22歳頃が増えている。お満様と入道様の婚儀や信長様と蝶姫様の婚儀とは時代が違う。それがまだ関東の大半の衆ではわからない)
逆に、こうしたギャップを理解しているために、男性側は順番を後ろに回していいと伝えているのが水谷氏などの開明的といえる国人領主である。彼らは一族の血縁と中央との繋がりを作るために鉄道を利用して調査を始めている。そのため、婚姻年齢に関するギャップも彼らは理解している。関東では遅い婚姻となっても、中央との繋がりを重視している人々と言える。
「そう言えば、知恩院の御影堂再建の折に聞いたのですが、磐城の如来寺が浄土宗本寺を名乗りたいと帝に申し入れしたとか」
「如来寺?」
「浄土宗ですが、名越派ですね。知恩院の白旗派は武蔵の増上寺と繋がり深く、これまでも色々と御助力いただきました」
浄土宗の歴史は分裂の歴史である。そもそも一向一揆の浄土真宗も浄土宗から分かれたものであり、浄土宗自体も法然の死後分裂した。現在は鎌倉の白旗から興隆した白旗派が戦乱の時代に勢力を伸ばし、三河松平氏の菩提寺(大樹寺)や小石川の増上寺などに展開している。この白旗派に対抗するのが知恩院の目の前に寺院(一心院)を構える世捨派や北関東から東北で勢力をもつ名越派である。それ以外にも浄土宗はいるが、その多くは中央政府の管理下に入っている。
名越派は鎌倉の名越から興隆し、磐城・益子・鹿沼などで勢力を築いている。そして、8年前から鉄道のターミナルとして開発が始まった郡山にもいち早く進出し、善導寺が郡山駅のすぐそばにその威容を誇っている。
「知恩院は法然上人縁の寺。ここが本寺の事にそうそう異議はないと思っておりましたが……」
「益子の円通寺でもなく、磐城が……」
そこで氏政は気づく。益子は鉄道爆破の事件時にその実行犯となったのが益子勝宗だった。そして、益子は処罰を受け、益子の所領は没収され、鉄道敷設が決まった。ここで磐城が動く理由は。
(もしや、鉄道敷設を機に常陸や下野で勢力を拡大し、白旗派に対抗するつもりか?益子の円通寺は総本山とも呼べるが、北条の領内。知恩院に対抗は出来ない。しかし、北条領でなければ中央とは容易に連絡が取れる。鉄道を機に郡山に拡大した名越派が、磐城からの鉄道の南下を利用して常陸全土に浸透しようとしていて、この支援を大塚大膳や親成が受けているとすれば、氏光の懸念もわからなくはないか?)
地域的には隣だが、統治機構による分断がある現状を、鉄道によって打開し、勢力を拡大する。
浄土宗名越派がそんな考えであるとすれば、大塚との交渉は簡単には終わらない可能性がある。
「穏便に終われば宜しいですが。いや、お教えいただき助かりました」
氏政はひとまずそう言いながら、面倒な状況に巻きこまれそうだとため息をつきたい気持ちをぐっと抑えた。
(そもそも僧とは口で戦うもの、だったな。僧兵もなし、世は平穏、となれば、勢力拡大の手が限られるか)
氏政は北条氏の中央への早期合流を目指してはいる。しかし、外圧によってではなく、内部からその声が出ないと混乱を招く。そして北条氏の力を保てない形での合流になる。多少の混乱は良しとしても、浄土宗全体の関わるほどの大きな動きに巻きこまれる形は本意ではない。
龍賢と別れ、式典会場から馬車で宿泊先に向かいながら、氏政はしばらく、眉間に寄った皺を伸ばすように揉みこむのだった。
私の母方の祖父が富岡八幡宮の氏子だったのですが、今回の話を作る上で調べていたらまだこの時期には影も形もなかったと知りました。江戸開発を考えればさもありなん、といったところですが、改めて江戸(東京)は最近の町なのだなと感じます。
先日宇佐八幡に取材も兼ねて行った際、神宮寺・弥勒寺の跡で柱のサイズ感とか調べつつ思考の整理に独り言を言っていたら、気づいたら同じく観光に来ていたらしい少年に遠目に見られていました。不審者扱いされてそうでそそくさとその場を去りました。思考に没頭するのは危険ですね。
浄土宗は本編ではほぼ触れていませんでしたが、ここも戦国時代は複雑怪奇。
漫画版ではちょうど高田派と本願寺派の様子が描かれていますが、浄土宗もあれでなかなかぐちゃぐちゃなのです。




