後話7 北条氏政の憂鬱28 もう一つの北
9月分の更新できず申し訳ございません。
10月8日、漫画版10巻発売しました。二桁という数字まで来られたのは多くの読者の皆様のおかげです。ありがとうございます。
6日発売の月刊少年チャンピオンはセンターカラーになっております。
よろしくお願いいたします。
下野国 日光 華厳の滝
かつて勝道上人が日光を開き、後に華厳の滝と呼ばれるようになった滝がある。ここと紀伊にある那智の滝が有名で、さらに常陸の袋田の滝で三大名瀑と言われている。しかし、近年は関東への旅行の困難さから、越中立山の称名滝、摂津兵庫湊近くの布引の滝の注目度が上がりつつあった。
華厳の滝を眺めながら、那須氏当主の那須親胤(修理大夫)は下総の国人・結城明朝と極秘に会談を行っていた。彼らは平和の時代に領主として生き残る道について定期的に話し合っていた。特に結城明朝は長らく斎藤義龍と関東の情勢について文通をしていた人物である。これが現在の情勢に悪い影響を及ぼしていた。彼が文通相手ということで北条氏からもあまり強い圧力はかけられず、周辺国人からも頼られるため国人の間で彼は関東独立維持を望む勢力のまとめ役となっていた。彼らは武士の存続と国人領主という存続のために何をすべきかを考えていた。
警察組織・裁判所が整備されつつある中央政府と違い、関東では今も武士が警察を担っている。人口が増加するこの国で、仕事のない人間もほぼいないため、治安のよい領内で武士は何をするのかが問われていた。
「結城様もご存知と思うが、尚武の心にて陸軍で働くと中央に目がくらむ侍が増える。然りとて文は小田原や足利で学ぶが最上。小田原で北条に忠がいくのは避けたい。足利は斎藤導三入道様の色が強い」
「左様。足利学校は先々代の庠主が若かりし入道様を招いて講義をさせた。其れ以来、入道様の下で働く者が多く出て、大徳寺の玉仲様も入道様を支えた」
「今の庠主は玉仲様と同じ日向の生まれ。足利学校ではとても学ばせられぬ」
足利学校の先々代の庠主(校長)は文伯と言い、若い頃の斎藤義龍を招き、医学の講義を1度依頼した。その縁から大徳寺の玉仲宗琇や曲直瀬といった現在中央で活躍する人材を得ている。このため、国人衆は自分の一族を足利学校に通わせるのを警戒するようになっていた。それが中央との知識面の格差を助長させていることを彼らは理解しているが、支配体制を破壊されるわけにはいかないという事情が優先されていた。明朝もめまぐるしく変わる中央を何度も訪れているが、だからこそ急激な変化についていけず思考を硬直化させていた。特に義龍の腹心・明智光秀に預けた自分の次男が、関東も中央に合流するよう訴える急先鋒の一人になったことで、その警戒感をより強めていた。
「水谷や正木が馮翊様に取り入り、中央の役人と縁組を進めているとか」
「このまま摂家の公方様を盛り立てられなくなれば、我らの関東独立は立ちいかなくなるぞ、修理大夫」
「北条は天下統一に助力をした故、たとえ公方様がいなくても相応に遇されるのは必定。しかし、我らは佐竹と争っていたが故に生き残っただけ。公方様がいなくなれば、京に飲みこまれれば、如何なるかわからぬというに!」
那須親胤にとって戦乱の時代はほぼ過去のものだった。彼が物心ついた頃には関東での戦は終わっており、幼少の頃に噂として奥羽や九州で戦っていることを聞いただけだった。そのため、彼はある意味織田・斎藤・三好という体制の強さを知らずにここまできていた。氏政は本来こうした「井の中の蛙」に大海を見せるため、新しい北条氏の当主とともに京に連れて行きたかった。しかし、彼は仮病を使って参加しておらず、だからこそより現状維持に考え方が固執していた。一所懸命、という名の現状維持に。
「入道様は公方様の重みは知らぬ方だ。以前、京の公方様が討たれた際も、『残念至極』としか文に書かれていなかった。武士らしい棟梁の大事さを知らぬ御方だ」
「斎藤氏は応仁の頃より守護代として守護を凌ぐ権勢を誇っていたそうなので、そういう風土なのでしょうか?」
「いや、応仁の頃の守護代斎藤氏とは血縁がない。文で聞いていた限り、元は北面の武士という家柄らしい」
「北面の武士というと……院の。成程。であれば武家の慣習に拘らぬのも道理ですな。高野山と揉めるのも厭わぬのも」
北面の武士は上皇の警護役であったため、平安末期には僧兵の強訴とも戦っていた。源氏と平氏の争乱に加わったものもいれば、加わっていない者もいた。そして、承久の乱の後、朝廷側で戦った北面の武士は形骸化した。結城明朝は斎藤義龍という男の尊皇と幕府軽視の根底がそこにあると考えていた。つまり、現状は承久の乱・南北朝の争乱に続く武家政権と朝廷の権力争いの続きなのだと。だからこそ、次の武家政権のために武家の名門の名前を継ぐ誰かと、武家の旗印たる公方が続くことを重視していた。
「室町殿の子孫が絶えなば吉良に継がせよ、吉良も絶えなば今川に継がせよ。吉良氏が継ぐ気を見せぬ以上、今川をと言いたいところだが」
「今川殿は蹴鞠に和歌ばかり。むしろ此度、勅撰和歌集の撰者になったとか」
足利氏が途絶えたら吉良氏が将軍を継げ、という言葉は有名であったが、北条氏の庇護下である武蔵吉良氏は力不足を理由にその動きを見せない。彼らも国人として古河公方の維持を支持しているが、自分が矢面に立つ気概はないのだ。そして、今川氏当主は2年前に勅撰和歌集である『新続千載和歌集』を後陽成院から作成する撰者に三条西公国や冷泉為満とともに選ばれ、京に長期滞在している。
「仕方ない話だが、やはり公方様は摂家からでも必要だ。いつの日か訪れる次の幕府の為に」
「其れ迄我らは雌伏すべき、と?」
「修理大夫は入道様を知らぬから己で何かを為さんと望むのだろうが、入道様は強い。織田も、三好も強い」
「しかし、今陸軍を主導する坂東武士が此方につけば」
「無理だ。この滝を堰き止めるより、其れは叶わぬよ」
華厳の滝は大量の水を吐き出し、轟音を周囲に響かせている。この音が少し離れた場所にいる護衛の武士の耳に彼らの会話を届けない役割を果たしている。
「修理大夫。本気なれば、先日の笠間領の動きに合力するしかなかったぞ」
「しかし、あれは北条に敵対している訳で!我らは北条と共に武家の政を取り戻したいだけで」
先日の鉄道爆破事件から始まる争乱で、那須親胤はその動きに一切加わらなかった。それは北条を弱体化してはかえって武家政権の復活が遠のくという意見からだった。
しかし、これは反中央の関東国人が粛清された結果にしかなっておらず、中央政府との協調体制は強化されつつある。
「血気盛んなのは良いがな。あまり目立たぬ方が良いぞ」
「無論。頼朝公も伊豆に流された後は挙兵までは目立たぬ様過ごしたと申します」
親胤は「では、再来月も此処で。笠間の事もあります故、暫く常陸は近づかぬ方が良いでしょう」と言って近習の元に歩き始めた。この日の会合は終わったということだった。
結城明朝は反対側に控えていた家臣と合流し、輿に乗りこむ。家臣の傍には、茂みに隠れる風魔の一員がいた。明朝はその風魔に向けて口を開く。
「那須はこれまでと変わらぬ。こうして程々に愚痴を申しておれば何もせぬだろう」
「しかし、鉄道には助力していただけぬ、と」
「其れは我が家も同様よ。入道様が怖いから北条の現状に同心しているだけ。彼奴が暴走すればいよいよ中央に呑まれかねぬ故、助力しているのだからな」
結城明朝が斎藤義龍に恩を感じながらも恐怖を感じているのは嘘ではない。だから那須もこうして相談をしている。しかし、同時に義龍と同世代の彼はもう隠居の身だ。だから波風を立てたくない。そのため、笠間の動きに那須が同調しないよう事件直後から彼の意見を誘導していた。明朝は那須が戦を経験していないため、本当に戦う勇気はないと見抜いている。だから、そのまま不満を誰かに言うだけで落ち着いてほしいと思っている。
「大塚が北から鉄道を繋げようとしていると聞いたぞ。なんとか止めて下されよ」
「北条家中としては、鉄道はいずれ繋げたいのですが」
「知らぬな。もう当主ではない故な。我が倅を納得させよ」
風魔はわずかに苦笑いをしながら、その場を離れた。改めて輿に出発するよう明朝は促しつつ、疲れからくるため息を深くついた。
急激な変化についていけない人物の1人として結城明朝を出すのはこのシリーズを始める上で決まっていました。彼は史実では痘瘡で若くして死亡する人物であり、10巻の内容になっている「痘瘡・光秀元服」などに関わる人物ということで今月の登場です。種痘が間に合ったので延命した人物の1人という立ち位置ですね。
結果、従兄弟の小山晴朝は結城氏を継がなかった世界線になっています。彼は自分が死ぬまでは現状維持しれくれ、息子の統治が安定するまではそのままで、という考えです。
また、那須親胤は佐竹氏没落で那須高資が死なずにすんだ世界線で生まれた嫡男です。
反芳賀高定の流れの中で那須氏は親北条に動いたため、北条の勢力拡大で暗殺を回避して父親が生き延びた結果こうなっています。ただ、高資にとっては30歳を過ぎてからできた待望の嫡男という設定があるため、結構わがままかつ自分の権力に固執する性格に育っています。それでいて実戦経験がないので、口だけ番長です。




