後話7 北条氏政の憂鬱⑫ 地域ごとに育つ産業、関東のポテンシャル
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福島県 若松
黒川は会津若松と呼ばれる元城下町である。黒川城は既に城としての機能を失っており、本丸が蘆名氏歴代当主の滞在用の館になっていた。伊達氏の旧本領である米沢と最上氏の山形と南北に並ぶ形のため、その重要性が高い都市となっている。更に、近年はミブヨモギの栽培と製薬工場によって産業が発展しつつあり、奥羽一帯では高い経済力を有していた。
そのため、蘆名盛氏も領地を離れた後であっても人気が高く、彼らは年に2回ほどこの地に帰省することで地域の安定化に貢献していた。もちろん、やがて来る選挙制度施行による衆議院でこの地の議席を確保することも目的だろうけれど。
「止々斎殿の状態は?」
新発田から鉄道で若松駅に到着したところで、山形大学から派遣されてきた医師と合流した。若松は製薬工場・漢方研究所があるものの、臨床医は山形大医学部から派遣された医師が30名ほど常駐するのみだ。そんな中で蘆名盛氏こと蘆名止々斎を診療したのが、やってきた25歳くらいの若い医師だった。ネームプレートには「粕尾」と書かれている。緊張した面持ちの彼から容体を確認する。
「はっ、患者は5日前から呂律が回りにくく、右手が痺れるとのことで3日前に当院――若松病院に来訪致しました」
「手の痺れに、呂律、ね」
「そしてその夜には意識を失った状況です。発作などはございませぬ」
「脳梗塞、くも膜下出血、疑おうと思えば色々ありえるな」
「しかし、脳外科は奥羽の地にはおりませぬ故」
まぁ、脳外科については畿内にもほぼいないに等しい。これは俺が脳外科を研修医時代も含めあまり多く触れてこなかったのが一つ。そしてもう一つがそもそも脳外科に手をつけるには衛生環境・技術含め整っていないことが多すぎたことだ。せめて脳波の測定か血管造影でもできればいいのだが、それに繋がる技術の知識が自分にない。誰かに開発してもらうしかない状況だ。結果的に、頭蓋骨の損傷などに対応するのが手一杯というわけだ。
「心脈は?」
「安定しておりますが、あまり強くないかと」
説明を受けつつ、馬車で病院へ向かう。相馬の馬場では最近大陸産の馬が多く飼育されているためか、畿内の馬より大柄な馬が多い。
「家族はもう病院に?」
「はっ。皆様集中治療室の隣で寝泊まりされておりまする」
「そうか」
聞いた限りでは、今の技術では助けられないだろう。平均寿命を考えれば割と長生きした方ではある。集中治療室まで行くと、蘆名氏の娘と蘆名盛興夫妻が待っていた。
「入道様に御足労頂き、申し訳なき次第」
「止々斎殿は奥羽平定でも世話になった。出来れば助けたいと思うのは当然です」
「その御言葉だけで、父も報われまする」
東北は日本の統一後、大名がいなくなるまで最上氏をリーダーとしつつも蘆名・伊達・南部・安東を加えた五頭体制だった。大崎氏は最上氏当主である信光の正室を出し、葛西氏は信光の弟が当主として存続。かつての最上八楯の筆頭・天童氏も滅び、由利十二頭と呼ばれる国人領主も移封・改易してその跡地を管理した。蘆名氏は陸奥の岩代の大半と磐城の南半分を統括し、二階堂・長沼などの国人領主が滅んだ跡地と田村氏の管理が任された。蘆名盛興は伊達氏当主の龍宗の妹を正室に迎え、妹を安東愛季の正室として嫁がせた。そして南部氏は信長の息子・晴由を養子に迎えたことで中央とのパイプを得た。血縁で繋がりすぎないようにしようという信長と俺の方針もあってこういう形となった。
そうした大がかりな計画の中で、若年の最上信光・伊達龍宗・安東愛季らを支えていたのが蘆名止々斎だったのだ。功労者にこれくらいのことをするのは当然だった。
「父は厳しうございますか?」
「おそらく、脳に問題がある」
「脳……頭の中のことでございますね?」
「左様。脳に手を出すのは今は厳しい」
自分の実力に衰えはない。むしろ機材に頼らない手術の腕は熟練と言っていい。だが、脳外科は技術が発展しないと厳しい。経験も足りないならば尚更だ。
ここまで頑張ってもまだ救えない命がある。もどかしさは何十年経っても変わらない。
「……何時の日か、入道様ならば頭の病も治せるようになるのでしょうか」
「そうなりたいが……な」
「然らば、その無念が、父が去ることが”これから”に繋がるならば、父も喜びましょう」
盛興はそう言って、俺に頭を下げた。
「すまぬ」
「ただ、今宵は頂いた一日一合の酒の掟のみ、見逃していただければ」
「あぁ、今宵は心の望むままにされよ」
「忝い」
涙で酒が濁らなくまで、飲んでくれてかまわない。親の死に目に悲しくならない筈もないのだから。
♢♢
蘆名盛氏の死に、北条の使者は間に合わなかった。最も早く着いた氏政が葬儀の予定二日前。小田原から急遽鉄道で来た北条親為・北条時長は葬儀の初日朝にやっと到着した状況だった。対佐竹の長年の同盟相手だった蘆名盛氏の葬儀に使者を送らないなど許されない。かつては数日間続いた葬式も、鉄道の普及で3日ほどで終わって火葬されることになっている。遠方であっても1週間あれば鉄道で来られるため、葬儀を長くやりすぎて遺体を腐敗させないことが重視されるようになっていた。
北条氏政は葬儀を取り仕切る蘆名盛興を見ながら、近く訪れるであろう兄が死んだ時のことを考えていた。
(まだ幼い若様を傍で支える役目は誰がすべきか。宗哲様と相談せねば)
当主である兄は今回の葬儀も来られない。体調的に寒さが厳しいこの時期に外出などできないのだ。一方、最上信光、伊達龍宗、安東愛季、南部晴政ら東北の元大名や貴族院議員10名が代表して参列するなど、中央政府の統制のとれた行動は日本の統一が進んでいることを実感させた。
(北条が解体されるような形での合流は避けたい。葬儀も重要な場になるか)
氏政の子ども世代はそうでもないが、戦国の世を生きた氏政は死を既に受け入れている。だからこそその場をどう生かすか、ここで改めて考えることが必要と感じているのだった。
♢♢
葬儀が終わり、氏政一行はせっかくだからと会津若松郊外の工場を見学することになった。
大規模な製薬工場ではミブヨモギが栽培され、ここでサントニン製造に利用されていた。サントニンは回虫対策に全国の小学校で使用されるため、元蘆名領周辺で原料のミブヨモギが大規模に栽培されている。ミブヨモギはここでサントニンとなり、全国に出荷されるため、蘆名領の大きな収入源となっていた。ここでは他にも元津軽領などで栽培されているニンニクも一部薬剤の製造に利用されていた。
こうした説明を工場長となっている元蘆名氏の武士は誇り高そうに話した。
「ミブヨモギは蒙古より西の地から絹の道を通って女真族が手に入れた物を栽培いたしました。作られた薬は腹の虫を追い出し、子どもの健康に役立っておりまする」
「ふむふむ」
「また、蝦夷地同様こちらでも除虫菊を一部栽培しており、欧州より仕入れたサクランボとともにここで加工し国内で販売しておりまする」
除虫菊を燻煙して虫よけにするのも徐々に広まりつつあった。北海道と東北などで栽培されている。サクランボも最上氏が大規模に栽培を開始し、実は果実または潰して台湾・奄美の砂糖でジャムとして、軸は煎じて利尿剤として流通していた。こうした産業の発展により、奥羽も基幹産業を得て経済的な発展を進めることが出来ていた。
こうした技術に氏政はなんとなく理解して話を聞いていたが、普段関東を出ない北条三郎時長は終始目を丸くして見学をしていた。
「三郎殿、如何された?」
「いや、父上から中央政府の支配とは何かを学んでまいれと言われましたが、成程百聞は一見に如かずというものにて」
「でしょうな。虫が集るのでなく嫌う菊があるとは」
「今のまま米を売るだけで、真に我らは良いのでしょうか」
「今はまだ、中央政府の人口増加に米が追いついておりませぬ。しかし、越後の新田から米がとれるようになれば……」
「坂東の米は要らなくなるやもしれぬ、か。そうなれば坂東の地だけが貧しくなりかねない……」
ほんの20年前までは自分たちより貧しかった奥羽の地。その大きな変革が見えた北条時長は、少しずつ氏政の言葉に耳を傾けるようになっていく。
粕尾=粕尾宗印の孫です。史実で粕尾宗印は上杉氏家臣→蘆名氏に仕えたと推測されます。今作では蘆名氏が設立する奥羽の病院を任される→孫が今回登場という流れです。
安東愛季の婚姻が確認できるのは永禄5(1562)年なので、本作ではその前は日本海交易を上杉が仲介する余裕なし→上杉との関係を重視した婚姻外交である砂越氏の娘との縁談もなし、よって東北遠征時点で未婚という設定になっています。
除虫菊→蚊取り線香はどう作ればいいか学校では習わないし医学ではカバーできない知識なので、シンプルに乾燥させて各地に流通させ建築材や家の周りに燻煙して虫よけにしています。線香自体の技術がそろそろ伝わるので、いずれは合体して製造されると思います。




