後話7 北条氏政の憂鬱⑨ 冬は見えないところが動く季節
月刊少年チャンピオン10月号発売中です。
雑誌にも掲載されていますが、来月は4巻発売のためセンターカラーです。
相模国 小田原
小田原の生活に劇的な変化をもたらしたのは、鉄道によって輸送されてくる石炭だった。尾張各地にある亜炭が燃料として供給され、森林地帯で薪を集める必要性が無くなった。各地の燃料と暖をとる手段が亜炭に代わりつつ、黒煙への警戒も告知される状況となった。名古屋や京、大坂・稲葉山では一部で石油ストーブが普及しつつあったが、鉄製部品を使うため供給不足から小田原には1つしか用意されなかった。唯一のストーブは小田原城にあり、前当主である北条氏親の寝所に置かれていた。
駿河で大規模な生産が始まった茶を飲みながら、氏政は城下の状況などを報告していた。
「そうか。蘇や酪が手に入りやすくなっていると」
「ええ。先日京で頂いた酪菓子は素晴らしい物でした。持ち帰りたかったですが、腐りかねないとのことで」
「いや、氏政は京でよく頑張っている。そうした物を味わう位はむしろ当然。気にするな」
体調のすぐれない氏親はストーブの近くでみかんを口に運びながらそう答えた。綿のつまった布団のおかげで体調を崩しにくくなったとはいえ、生来体が弱い彼に冬は厳しい季節だった。ストーブは牧之原油田から回収された石油を利用し、一部の屋敷、朝廷などで活用されていた。
「氏政、其方を新九郎の後見には出来ぬ」
「ええ。わかっております」
氏親の嫡男である新九郎と信長の娘の婚姻は4年後に迫っている。このタイミングで織田と関係の近い氏政が後見人となれば、関東独立派を刺激しかねない。それがわかっているため、氏政もこの決定を理解していた。
「だが、宗哲様が後見を降りることとなった」
「齢も齢ですからね。隠居は必然かと」
北条宗哲、御年数えで78歳。本人は矍鑠としているが、いつ亡くなってもおかしくない年齢だ。戦乱が終わったとはいえ、平均寿命は50歳前後。ペニシリン・ストレプトマイシンの開発、産婦人科の確立、栄養学の上流階級への浸透なども影響して劇的に寿命が延びているものの、それでも75歳をこえる人間はごくわずかである。
「そこで、後見を増やすことを提案された。国人は千葉中務(邦胤)を推している」
「千葉殿ですか。分かりやすく現状維持派ですな」
千葉氏は長年北条と協力して里見氏や小田氏と戦ってきた。小田氏が北条氏と結んでからは里見氏との戦いを担ったものの里見の実力もあって劣勢が続いた。それでも最後までブレずに親北条を貫いたため、現当主の千葉中務邦胤は氏親の娘を正室にしている。その中務は双子の兄がいたものの、兄が天下統一の際に千葉氏家臣団に中央政府への参加を提言して廃嫡となっていた。家臣団からすれば自分たちの領地まで失いかねない提案であり、関東独立国完成間際にそんなことを言えば他の国人領主に攻められかねない発言だったからだ。内内に処理された兄は病死したとされ、双子の弟の邦胤が当主となっていた。こうした事情から邦胤は国人による現状維持派の影響を強く受けており、北条氏としても血縁があることも含めて難しい存在となっていた。
「だが、時長や親為は反対している。今のままでは少なくともまずい、と」
「そうですな。鉄道が出来るなら、尚のこと」
「氏政は新九郎の代で中央政府との合流を目指しておろう?」
「……ええ」
「本当なら新九郎までは関東独立でいたい、が。難しいか」
「(導三)入道様は許してくれるでしょうが、入道様が亡くなったら、今の姿勢が許されるとは思えませぬ」
北条氏が独立を許されている理由はいくつかある。織田・斎藤と同盟を結んだ際の約定を果たすという意味や、両家との血縁関係が最大だ。そして西国の統一時に背後を守っていたことや、対上杉での協力もある。更に言えば摂家将軍という特権の維持が公家にとっていい飴となっていることもあげられる。摂家将軍とその近習に10名ほどの公家の次男・三男が向かうので、役職に就けない公家のいい就職先という一面も関東独立にはあるのだ。
しかし、これらの理由を支えている柱は北条氏親と斎藤導三入道の友好関係だ。氏親の妹の於春が斎藤に嫁ぎ、その血縁が政府要職にあるから不満も出ない。両者の信頼関係が今の関係を支えている。しかし、於春自身が北条の家に対してシビアであり、斎藤の女として必要以上に親北条氏にならないよう子どもを育てた。そのため、北条新九郎と従兄弟同士であるはずの斎藤和道は兄の龍和と導三の叔父である亡き長井道利から一字ずつもらって烏帽子親を務めてもらったのだ。於春は北条氏との血縁が我が子の足を引っ張らないよう、新しい摂家将軍が古河に入城してから一度も里帰りをしていなかった。於春の娘が北条の一門に嫁入りする話が進みつつあるが、於春は北条領内に入らないと明言している。
「それに、いずれは暮らしの豊かさに決定的な差が生じるかと。今は人口の増加に関東以外の新田が追いつかず、我らの領内から米と絹が中央に売れています。しかし、越後の新田開発などが進めば、それも不要になりかねませぬ」
「越後か。青苧くらいしかとれぬ筈が、随分中央が手を入れているそうだな」
「あのまま整備が進めば、新たに五十万石は米がとれるかと」
越後が織田の直轄領となったこともあり、中央政府が誕生する前から開発計画は進んでいた。増加した人口を賄うべく足軽出身者の入植が進められており、蝦夷こと北海道とともに大量に人口が流入しつつあった。
「となれば、いざという時も考えねばならぬ、か」
「血を流さずに、とは思いまするが……」
「難しいかもしれぬ。何とかなるかもしれぬ。その時にならねば、な」
氏親は小さく溜息をつく。
「氏成を後見としよう。九州での大友攻めにも参陣しておったし、中央とも繋がりがある」
「良い案かと。玉縄城主の兄と違い、足を使って動くことも出来ます故」
北条氏成。北条氏繁の三男で、天下統一の仕上げとなった九州仕置に従軍し、中央政府の武力を直接見た人物だ。そのため九州仕置後も稲葉山に留学して様々なことを学び、今では氏親の重臣となっていた。
彼に決まったなら話は終わりだろうと氏政が重い腰を上げようとした時、氏親は制止するように手を前にかざした。
「如何されました?」
「氏政、少し調べてほしいことがある」
やや小声になった氏親に、氏政はさっと周囲を見回してから小声で答えた。
「某で良ければ」
「吉良氏のことだ。近頃、鉄道の事で物言いをつけてきている」
吉良氏は三河だけでなく武蔵にもおり、北条氏の保護下にあった。北条氏親は段階的に吉良家臣団を北条氏に組みこみ、領土を形骸化した上で鎌倉に押し込んでいた。現当主である吉良義親は吉良頼康の子だが、正室は氏康の娘・菊姫である。氏親は菊姫との間に生まれた3歳の嫡男に家督を譲るよう打診していたが、義親は拒否していた。
「世田谷は吉良の地故、鉄道を通すな、と申してきた」
「吉良は鎌倉を公方様から受け継いだ、ということで鎌倉に移したというに」
「面倒だが、誰が入れ知恵しているかわからぬ故な。氏政の方で探ってほしい」
氏政の脳内に浮かんだ入れ知恵しそうな頭の切れる現状維持派は3人。稲付城主の太田親資とその父太田康資、そして千葉氏家臣の白井治部少輔宗幹だ。太田親子は戦国を生き抜いた猛将であり、白井宗幹はあの越後の龍を破ったことのある白井入道浄三の跡継ぎだ。大きな戦ではなかったものの、その手腕を受け継いでいる可能性は高い。
「心当たりは幾人かおります故、まずは其処からですな」
「頼む。此方は新九郎の関東管領就任の支度で忙しないものでな」
新年の天正19(1582)年に氏親は関東管領を嫡男新九郎に譲る予定だ。その準備が今佳境を迎えている。不安要素は排除したいが、そのための手駒は氏親に足りていない。
氏政はこの一件を利用して現状維持派の国人をある程度削れないかと考え始めていた。これから会いに行く男は中央政府の人間だが、そういう謀は得意な人間だ。
(せっかくだから、相談するのも悪くない。主家の為ならば、主家に口外しないことも出来る男)
今年最後に会うには少々不気味でもあるが、中央政府での活躍を考えれば年に一度は顔を合わせたい男というのが氏政の評価だ。
参謀本部随一の切れ者・黒田官兵衛。陸軍の今のお飾りとはいえトップである氏親に代わり、事実上の全権を掌握する参謀本部の柱の1人だ。
色々な歴史の変化が関わっています。
吉良氏は堀越氏から養子を入れておらず、実子が継いでいます。逆に西条吉良氏は滅びており、東条吉良氏は信長の側室を輩出し織田氏の重臣になっています。吉良義次は作中出していませんが室町幕府の重臣を受け入れる時などで活躍しています。
千葉邦胤の兄である良胤は自分が思うに少し空気の読めない(というよりフラットな視点で見すぎる)タイプの人物だったのかな、と思っています。ただ、関東の支配体制が確立したタイミングあたりでそういう行動をしたらまぁこうなるよねという形で処理(意味深)されています。
太田康資は討死していないので異説で天正年間後半まで生きていた説通りに長生きしています。
北条氏も実は国人が多いので、こういう色々な問題がどうしても出てきます。史実で秀吉の行った小田原征伐→徳川関東移封は面倒な土地と人間の関係を整理する最適手だったと思います。




