後話7 北条氏政の憂鬱⑥ 鉄道敷設開始と文化侵略
活動報告でも書きましたが、多忙により投稿が中断して申し訳ございませんでした。
なんとか少しずつ投稿頻度を戻していく予定です。
相模国 小田原
鉄道敷設のための準備が進んでいた。御殿場までの鉄道ルートは中央政府から年内に開通できるという連絡が北条氏に入り、御殿場から箱根を迂回する形で鉄道が敷設されることが決定した。この連絡を受けて北条氏の当主である北条氏親は嫡男の新九郎氏和に家督を譲ることを決めた。陸軍の元帥職も辞して小田原の病院か熱海で静養することになる。
これにともない、北条家中でも体制の変更が進むことになった。といっても各地方の重鎮は混乱を避けるために変更はなし。外交では氏政の補佐をしていた笠原綱信から、息子の笠原玄蕃助親綱にその役が変更となっていた。玄蕃助親綱は細菌性肺炎で数年前に体調を崩したものの、ペニシリンによる治療で大事にならずに家督を継ぐことができていた。しかし、その影響で一時小田原から動けずにいたため、京都どころか駿府にも足を踏み入れたことがない状況だった。
「玄蕃、今の京や名古屋がどうなっているか知っているか?」
「いえ、ですが、小田原並の街並みが広がっていると」
「小田原並、か」
国人領主の人々は町の広さや人口だけを見ており、名古屋や京と小田原を同じレベルと見ていた。彼らと接する仕事を終えて、外に出る仕事を持つ時期に治療と静養をしていた玄蕃助はそうした国人領主と同じ視点になっていた。
「ではまず、その考えを変えるとしよう」
「変える、とは?」
「駿府と名古屋、そして稲葉山に行く。十日後には京で人と会う故、この三都市のみだが、十分わかるはずだ」
「は、はぁ」
要領をえない様子の玄蕃助に苦笑しつつ、「まぁ行けばわかる」と氏政は言って翌日の船の出発時刻を伝えた。
♢♢
愛知府 名古屋
鉄道に終始驚き、駿府の整備された道路に驚き続けた玄蕃助。その衝撃も冷めぬまま、その日の目的地である名古屋に到着した。駅を出てターミナルに降り立ち、玄蕃助は周囲を落ち着きなく見回した。彼はそこで、駿府でも感じた違和感の正体に気づいた。
「城が……ないのですか」
「気づいたか。そうだ。駿府城も名古屋城も既に破却されている」
正確には本丸などがなく、セメント造りの陸軍駐屯地が存在するのみとなっていた。名古屋城は既に東海道陸軍駐屯地であり、駿府城は駿河県庁の庁舎と駿河警察本部のある場所でしかなかった。
「城では大砲から守れぬ、ということでしょうか?」
「まぁ、それもある」
実際、日西戦争以後東南アジア防衛のため製造されている大砲は研究・改良によって榴弾化が進められつつある。一定時間で爆発する砲弾は着弾後に漆喰の壁であっても穴をあけるのに十分な破壊力になりつつあった。
「それより、鉄道があれば兵が速やかに展開できる。電信があれば速やかに事態を中央政府が確認できる。そういう部分が大きい」
「徒に兵を各地に置かなくてもよい、と」
「そうだ。銃刀槍令で大部分の農村からは武器が消えた。各地に配備された警察が獣の駆除も担当し、街道は佩刀せずとも行き来できるようになりつつある」
「そも、鉄道で一日でここまで来れれば、用心棒も不要」
「用心棒は警備会社とやらに属して商家で不寝番をするのが主な仕事になりつつあるな」
導三入道が長井道利の子の1人を社長として2年前に設立した警備会社が、徐々に全国規模に成長しつつある。本社の位置から安八累代総合警備という名のこの会社が、尾張の伊藤屋などの警備についていた。彼らは駅に広告を出しており、「総警、入ってる?」という気安い文言が評判を呼んでいた。警備会社は許可を得れば脇差と棒による装備が認められていたため、元武士の就職先として役人・警察・消防の次に人気だった。
馬車に乗り、2人と護衛計5人は日の沈みつつある町を横目に見る。
「もうすぐ今日予約してある宿に着く。明日は名古屋・清州市街と稲葉山を見て回るぞ」
「はっ」
「あと、あまり驚くなよ」
「へ?」
氏政がそう言うと、ごーんごーんという鐘の音とともに、町の主要な道路脇にある街灯に明かりがともった。
「これは……」
「鉄道の駅到着予定時刻から考えると、そろそろだと思ってな。名古屋や稲葉山では、主な街道沿いは夜に明かりがつけられる。故に飲食店は夜になっても賑わうし、人通りも遅くまで絶えない」
「なんと……」
「不寝番はいるが、大きな商家は明かりのおかげでかなり安全ではあるのだ」
話しているうちに馬車は一軒の宿屋の前に泊まる。氏政が懇意にしている宿屋で、元大名や大店の商人が利用する旅館だ。
「色々教えることがある故、今宵は同じ部屋に泊まってもらうぞ」
「お、恐れ多いことです」
「ついでにベッドの寝心地も体験しておけ。そうした部分に、違いは見える」
氏政は馬車の御者に運賃を渡すと、宿屋に慣れた様子で入っていった。
♢♢
宿屋の夕食を終えると、主人が尋ね人がいると氏政に伝えに来た。
「誰だ?」
「はぁ、実は個展を開く関係で、斎藤の高頼様がご滞在で」
「龍頼様か。それはそれは、むしろこちらがご挨拶に伺うべきだったな」
斎藤龍頼。名は斎藤だが、土岐頼芸の実子である。頼芸の描いていた鷹の絵を受け継ぎ、各地で鷹の絵を描いては定期的に個展を開いていた。彼は芸名として鷹の同音である高と実父頼芸の字をとって高頼を名乗っていた。氏政は急ぎ龍頼の部屋に向かった。
「龍頼様、お呼びいただき恐悦至極に存じます」
「およし下さい。官位は氏政様の方が上ですよ」
「いやいや、以前小田原で兄の娘が産まれた際、祝賀にと贈っていただいた鷹の絵は北条氏の家宝となっておりまする」
「喜んでいただけたなら何より」
各大名家や公家では子どもが産まれると斎藤の家に伝わる絵本を贈られるか、鷹の絵を贈られることになっている。織田からは茶器が、三好からは白と藍染の2つの帯が妊娠中に贈られることが風習化している。
「今年は大坂にいる日が多くなる故、今のうちに名古屋で個展を開いておこうと思いまして」
「そういえば、四月から大坂に新設される芸術学校の師範を務めるとか」
「ええ。古今の藤孝様も隠居に合わせて加わるとか。狩野之綱様とともに、等薩様も絵の師範になりますし」
「そうなると忙しくなると」
「ええ。全国行脚はひとまず中断です」
大坂芸術学校は当初京都に設立を予定していたものの、土地の用意が難しいため見送られた。4月から絵画科・文学科・音楽科として開校が予定されている。講師には狩野派で雅楽頭の子である狩野之綱や雪舟の流派を受け継ぐ水墨画の等薩、筑紫琴の賢順や薩摩琵琶の淵脇了公らの参加が決定している。そして、本来三条西実枝が校長となり和歌の講義を受け持つはずだったが、近年の体調悪化を受けて彼は校長職も辞退した。そして古今伝授が長岡(細川)藤孝に行われたため、授業は藤孝が担当することとなった。校長職は実枝の子である公国が就いたものの、校長職という名誉を守るため三条西家は色々な譲歩をせざるをえなくなった。古今伝授の8割が授業で指導される代わりに、校長職を7代三条西家が担うという約束になっている。
「というわけで、個展の支度でここ数日ここに泊まりこんでいるのです」
「個展というものは大変なのですな」
「ええ。新しい絵も用意いたします故」
龍頼の活動には各地との文化交流も含まれており、鉄道で繋がるのと同時に人と物の交流を盛んにする目的があった。一線から退く前の信長も導三の狙いを正確に理解し、初期の鉄道予約を優先的に龍頼に回してバックアップしていた。同様の文化交流として千宗易も全国で茶の湯行脚をしており、島津義弘は昨年内城を訪れた宗易に感動して弟子入りしている。
関東では過去に3回個展が開かれている。小田原と江戸崎、万喜である。江戸崎と万喜は土岐一族が領主であり、特に江戸崎の原土岐氏は龍頼の父・頼芸の弟が一時期当主を務めていた。現在はその孫にあたる土岐美作守治綱が斎藤氏との縁を生かして常陸屈指の名家となっている。
「江戸崎で開かれた個展では美作殿が小田殿や結城殿に龍頼様の絵を買わせていましたな」
「ええ。そうなると絵が足りなくなるので、新しく描くのです。あの時の従甥殿には困りました」
「では、あの時とは違う絵ばかり見られると」
「一番の鷹は売り物ではないので、同じですがね」
軸となる十数点の絵以外は各地の有力者や商人、そして京から遠征した元大名・公家によって毎回争奪戦となる。その争いが醜くなると土岐頼芸の元室で導三の側室でもある江の方が調停するのが決まりとなっている。それもあって江の方は龍頼の個展に常に付き添う形となっている。
「今回は今までにない絵を描きましたので、時間があればぜひお越しください」
「今までにない、でございますか」
「ええ。鉄道を背に悠然と佇む鷹、という絵を描きましたので」
水墨画にしたのです、と語る龍頼に、絵にも時代のうねりがきているのだなと氏政は感じた。龍頼の弟子が彼を呼びに来るまで談笑した氏政は、部屋に戻ると笠原玄蕃にこう語った。
「気づけば芸事にも置いていかれかねぬとは、まだまだ我々も楽観していたようだ」
来週末に次話を投稿予定です。
安八累代総合警備……惜しくもアルソッケになりました。長井道利の所領の地名調べている時に思いついたネタでした。




