後話7 北条氏政の憂鬱③ 義信の相談相手
明日発売の月刊少年チャンピオン3月号で今作の漫画版が巻頭カラーの予定です。
ぜひお手に取っていただければと思います。
そして8日(水)に漫画版2巻発売となります。よろしくお願いいたします。
相模国 小田原
氏政は小田原の邸宅に久しぶりに戻った。正室の今姫(今川義元娘)が出迎える。彼には3人の子どもがおり、男子2人と女子1人となっていた。男子2人のうち嫡男の親政は氏親の息子の側に仕え、次男(未元服)は鎌倉で幼少の二条将軍に仕えていた。久しぶりということもあって2人は小田原に戻ってきており、出迎えに加わっていた。
「お帰りなさいませ、父上」
「「お帰りなさいませ」」
「うむ、皆息災か?」
「はい。変わりなく」
「親政は新九郎様の側仕えだが、新九郎様は?」
「はい。まだ幼くも利発な御方です」
「そうか」
親政は10歳から5年間を名古屋で過ごした。留学中に前田利家の甥や妻木広忠(明智光秀舅)の孫、森蘭丸らと同学年で友人関係を築いており、小姓の中では中央政府とのパイプが太い立場だった。
「ちょうど京で隠居した森(可成)殿と会ったぞ。蘭丸殿は勉学優秀で京の大学に進学したそうだ」
「おお、それは良うございました。一柳殿と2人は特に優秀でございましたから」
「一柳か。その者は知らぬな」
「ええ。1つ上の大谷殿という優秀な方が眼病になったものの、稲葉山の医院で瞬く間に治ったことを聞いて医学の道を志したと聞いております」
「そうか。では稲葉山医大か京都医大にいるやもしれんな」
「はい。いつか典薬頭様のような人を救う医師になると」
「そうか。1つ上となると、北海道開拓本部の視察で案内をしてくれた者と同い年だな」
「おそらくそうでしょう。大学に進まずに役所の試験に合格したと聞いております。薬が高額だったので親に負担をかけぬよう働きたいと」
「高額な薬か」
「ええ。抗生何とかという京都か稲葉山の医大で学ばないと使えない薬だそうで」
大谷吉継は名古屋在学中に眼病で膿が出て失明しかけたものの、抗生物質入りの目薬によって治療できていた。
「使えない薬、か。それがないと治せない時、小田原以外ではどうしようもない」
緊急時に治せる医師が中央政府ですら不足しているため、武田は高額の報酬を用意して二代目永田徳本を甲斐で雇い続けていた。小田原は2名が定期的に入れ替わりながら派遣されているが、領内全ての症例に対応できるわけではない。
「やはり、なんとか中央政府に合流するしかないだろう」
「やはり、そうですか」
5年間を名古屋で過ごしたために、その変化の過程を直に目にした親政は氏政の考えを一番理解できていた。コンクリートで整備されていく都市。拡張された上で舗装された道路。沿岸部に建設される工場。少しずつ整備が進む港湾。それらをリアルタイムで変化の過程まで見ていけば、小田原に戻った時にそのギャップに否応なしに気づかされるのだ。
「新年を迎える準備を任せてすまぬ」
「いえいえ。いつも実家の家臣や兄の面倒を見ていただいておりますから」
今川一族と今川家臣の生き残りは北条氏に仕えていた。そのうち、駿府が織田に明け渡された際に小田原についてきたのが朝比奈泰朝・庵原忠胤・元政親子・小原鎮実など数十名だけだった。安部元真など駿府に愛着をもつ将は駿府で帰農したり、織田に仕官していった。
そして、そんな今川家臣と義元の遺児・今川康元を引き取ったのが氏政だった。正室に義元の娘を迎え、名目上の今川当主も名乗れる彼が氏元を後見することで彼らを家臣として雇っていた。今川家臣は織田と斎藤に縁を持つ者が多い。導三入道の側室の1人である於春を支えるのは堀越今川氏の一族だし、井伊氏のように元今川家臣で織田に仕えている者も多い。中央とのパイプ役というのは、意外とよく務まる面々でもあった。
「その義兄上は今日はどちらに?」
「医聖様(導三)主催の新蹴鞠の催し物があるからと、名古屋に招待されまして」
「そ、そうか」
今川龍王丸こと今川康元は小田原で育ち、駿府で過ごした記憶はほぼない。満6歳で小田原に来たため、駿府に愛着がなかったのだ。そのため今川康元は自由だった。足利晴氏の子・義氏は鎌倉公方さえ継がずに京都で貴族院議員をしている。吉良氏は吉良義安の子義平が継ぎ、信長の嫡男に将軍家唯一の生き残りだった詩姫が嫁いだ今、名前だけなら源氏は安泰なのだ。そのため彼は幼少期より政治・武芸に関する教育は一切行われず、和歌や蹴鞠に心血を注いだ。彼は関口氏純の娘を正室とし、男子1人と女子2人が生まれてからすぐ今川当主の座を息子に譲った。
彼は道三入道がいつか開かれるワールドカップを意識して創始した新蹴鞠(ややネットの低いセパタクロー)に特に夢中となり、小田原で選手育成に励んでいた。
「まぁ、元気なら何よりだ。情熱の向け方を間違えると、不幸にしかならない」
「浅井様のように、御家再興など万に一つも言いださぬかと」
浅井久政の子・元政は御家再興のために拾ってくれた尼子氏を裏切り、滅んだ。元政も近江で過ごした記憶などなかったが、周囲の家臣が御家再興以外の将来を許さなかったために、歪んだ。その点、最初から御家再興を諦めていた今川家臣団は賢かった。
「そのような心配はしておらぬよ」
「日頃から家臣にも言い聞かせております。命が残ったのを良しとせよと。家族の為にも殿に誠心誠意お仕えせよと」
「其方がいれば安心だ」
「我らはもう北条の一翼。それを忘れてはなりませぬ」
「北条の一翼、か」
それも中央政府に合流すれば全てなくなるかもしれぬ、と氏政も今は口にできなかった。
♢
北条氏政は無事、天正18(1581)年を迎えた。
家中の新年の挨拶も終わり、氏政がゆっくりしていたところを武田氏から新年の使者がやってきた。否、武田の実質的当主が直々に小田原にやってきた。
武田氏当主は義信の子となっていたが、幼少の当主は甲斐を動かない飾りだった。武田太郎義信は父・信玄を京への使者に派遣し、自らは小田原に出向いていたのだった。2人はよく京でも話すため、堅苦しいのは新年の最初の挨拶だけだった。
「本来は逆ではないか、太郎殿。信玄公こそ小田原であろう」
「父の体調が芳しくない故、京で精密検査なるものを受けてくることになっておりまして」
「成程。毎年御二方が小田原と京に来るのが慣例としている故、今年は敢えて逆にしたと」
「事前に京には了解を得ております故、御安心めされよ」
それに、と義信はため息交じりに言葉を続ける。
「父上にも京と名古屋を見ていただかねばと思いまして」
「信玄公にも?」
「ええ。父上は小田原と躑躅ヶ崎しか知らぬのです。あの方はまだ戦乱の世を生きている」
「あぁ……」
最後に会った時も、凄まじい覇気を身に纏っていた。常在戦場の意識で日常を過ごしているのは、日本列島には最早彼しかいない。ふかふかの綿製・そば殻製枕が普及した今も、彼は木製の箱枕で眠り、手元に刀を置いている。
「二年前にこちらに来たのも実は叔父の信廉様だ。氏親様と宗哲様に挨拶したのは父だが、他は叔父上が影武者として挨拶している」
「誠か。わからなかった」
「それくらい用心深い。もうそういう時代ではないと何度言ってもわかってもらえぬ」
信玄は今も領内と領外の境に城を整備し、維持し続けている。漆喰を分厚くし、火縄銃や大砲の攻めにくい山城を好み、手に入れた火縄銃で守れるように各所に銃眼を開けているのだ。一方、本来必要とされずに登場していなかった城郭構造が武田領内で発展し、出丸や枡形門などがより洗練されていた。
「本気で中央政府が攻めてくれば、あの程度の城などあっという間に吹き飛ぶ。それがわからぬのだ」
「となれば、名古屋や稲葉山、京や大坂を実際にその目で見てもらう他なし、か」
「そういうことだ。これで考えを改めてくれれば良いのだが」
大きく溜息をつく義信。彼は京での交渉や議会への出席もあり、一刻も早く領地の返納をしたがっていた。しかし信玄が裏から支援している武闘派はこれに大きく反発。領地持ちは自分の土地がなくなることや検地が行われることへの反発から彼らと同じ意見だった。
更に、氏政には立場上言えなかったが武田の主たる収入である黒川金山の金がほぼ枯渇していた。防衛設備への出費がかさみ、採掘を増やさなければ資金がなくなるために信玄は無理をしすぎた。義信の制止にも家中の武闘派は止まらず、斎藤や織田の懐柔策で牙を抜かれた家臣は義信を積極的に支援までしなかった。義信が権力を持ったままでいられるのは正室である信長の妹との縁があるからだった。
「愚痴ばかりになってすまぬ。これから他の北条の皆様にご挨拶させていただく故、本日はここまでにさせていただきまする」
「そうか。土産の品、ありがたい」
「いやいや、大した物ではないのだ。返礼で頂く物の方が余程良い品よ。しかも、北条の次期当主は聡明そうで羨ましい限りだ。挨拶させていただいたが、立派な口上だった」
「そうか。だが、太郎の嫡男も才覚目覚ましいと聞くぞ」
「身内の贔屓目さ」
そう自虐的に笑った義信は、しかし来た時より険のとれた顔つきで氏政の屋敷を後にしたのだった。
大谷吉継の症状についてはハンセン病説と眼病説があるのですが、今作では眼病説→抗生物質入り目薬で治療ということにしてあります。
あまり本編で詳しく語らなかった義信と信玄の話。
義信は京都によく来るので中央と甲斐の差がある程度正しく理解できています。
一方、史実ほど戦乱に晒されずストレスなどの影響がなかった信玄。長生きしているものの、硝石・鉛などが自給できないために鉄砲をあまり整備せず、旧来の手法で自国を守ることに固執してしまった信玄と家臣。
そのあたりに板挟みにされつつも、信長との血縁があるために史実のような目には遭わない義信。
これが結果として1582年の義信のエピソードに繋がります。




