後話5 留学生と天動説 その2
全編3人称視点です。
台湾 台北
ティコ・ブラーエに日本国での滞在ビザが発給されると、彼は天文台への入館許可を求めた。
日本政府は台北天文台への入館許可を出し、台北国際大学の特別聴講許可を出した。台湾島ではホテルではなく、国際学生寮の建設が終わったばかりの第5棟に家族で滞在することになった。
『この棟は万一にも異端が他に来たら使ってもらう場所としている』
イエズス会の担当者と、デンマークの宣教師にそう説明された彼はそれを快諾した。
『持ってきた金貨で1年分、寮費の前払いができて何よりだよ』
『残りの金貨でもう1年、というのはできればやめてほしいがね』
『生活にかかる費用があるだろうから、どの道私は1年しかいられないだろうさ』
常設の市場で食材を手に入れ、食事をすることになったティコ・ブラーエ一家。台湾には外国人向けに北海道で生産されるようになった小麦で製造されたパンと、九州南部で育成が盛んになりつつある牛肉が供給されていた。これらはヨーロッパより輸送費などの影響でやや高額なものの、香辛料がヨーロッパの半額以下で手に入ることもあって欧米から長期滞在する商人も増えていた。
市場を案内したデンマーク人宣教師は、それら大まかな市場価格や何がどこで売っているかを説明した。
『ここでは紙の値段が安い。日本の本島では子どもが手習いで新しい紙を使っている』
『それは素晴らしいことだ』
『農民が1年働けば子どもは読み書きを習え、本も買い与えられる。それが日本という国だ』
『農奴はいないのか?』
『あの国は今段階的に農奴を減らしている。工場で多くの者が働くようになり、鉱山で働く者も合わせて農家の次男・三男が農村を離れている』
『そうなると、地主は働き手の確保に苦労するな』
『その分、少しずつ便利な道具が増えているらしいが、詳細はさすがに我らにもわからんのだ』
イエズス会の布教は限定的に許可されているものの、農村部まで立ち入りは許可されていない。イエズス会はスペイン本国などに秘匿していたものの、既に日本では日本語訳された聖書が流通している。この現地語聖書によって信徒が一定に増えているのも事実のため、彼らは見ないふりをしている。だが、これらはあくまで本国に滞在が許可された一部のイエズス会士しか知らない。
『とにかく、台北大学で学ぶなり天文台に行くなりするなら紙は必須だ。まとめて買うといい』
『そうだな、今のうちに買っておこう』
彼らは紙束を買うと、商品は原則自分で持ち帰る決まりを聞いて手に持って帰ることにした。市場を周り終わったブラーエは、いくつかの手に入れた物に驚嘆していた。
『このガラスでできた分度器……これだけで角度が測れるとは』
学習用として使われる分度器。安全性の問題から小学校を卒業した中学校進学者のみが買える道具だが、ガラス製でメモリ付きの品である。研究現場用ではないため、熱膨張は考慮されていない。
『航海で使う大型の物とは違い、学習で直接様々なものに押し当てて角度を測れるのか』
他にもいくつかの文房具などを手に入れた彼は、それらを検証し、素材を確認していた。
『明日は台湾大学で聴講、明後日は天文台での観測に参加か』
ブラーエは幼い子どもをあやしながら、期待に胸を高鳴らせていた。
♢♢
翌日。ブラーエは寮から徒歩10分ほどの台北国際大学の講義(天文学)に参加した。
彼が教室に入ると、そこには10名ほどのアジア人とヨーロッパ人がいた。
「見ない顔ですね」
『日本語はわからない』
イタリア風の顔立ちの青年男性に近づくと、彼は流暢な日本語で問いかけた。ブラーエはイタリア語で返す。
『新しいイタリア人ですか?少し北の方の顔つきですが』
『デンマークから来た』
『ということは異端か。よくここに来られましたね』
彼が異端であることを知っても、彼は態度を変えない。
『いいのかい?』
『残念ながら、そこに異教徒がいますからね』
彼が指さした先には、まだ青年といった風貌のターバンを被った人物が3名いた。
『まさか、オスマンか』
『昨年、日本と和睦した時に、王子とお付きの者が20名人質代わりにここに来たのですよ』
この王子は王位継承権を放棄していたが、人質としては十分とオスマンが考えていた。そして彼とともに若手技術者や学者が派遣されていた。
『彼はタキ・アルディンの元で学んでいた男さ』
『タキ・アルディン?』
『オスマンがコンスタンティノープルに造った天文台の所長です。本人は来ないが、弟子を派遣してきたってわけ』
『なるほど。それで、神の教えで揉めるのは許されていないのか』
『各教室に日本の警備隊がいます。揉め事を起こせば即帰国だ』
『学びたければ揉めるな、と。私も気をつけよう』
『そうしたほうがいいでしょう』
『ところで、貴殿の名前は?私はティコ・ブラーエだ』
そう言ったティコ・ブラーエに、男は席を案内しながら答えた。
『マテオ・リッチ。イエズス会の一員です。あと、日本語は覚えた方がいいですよ』
そう自己紹介をしたところで、日本人の講師が入ってきた。ブラーエは案内された席に座り、講義を受け始める。
「あぁ、貴殿が噂の聴講生か」
彼は黒板にローマ字で自分の名前を書いていく。「TATEBE TAKAMITSU」
「建部高光と言います。数学と天文学を教えています」
そして高光は教科書となっている本をブラーエに渡すと、絵を使いつつ説明を始めた。
ブラーエはマテオ・リッチに適宜通訳をしてもらいながら話を聞いた。そこでは惑星の年齢やクレーターや山の関係などが語られた。
ヨーロッパには一切存在しない考え方が多数あることで、ブラーエはその時間をあっという間に感じたのだった。
♢♢
午前の講義が終わり、昼食に学食でサンドイッチを味わっていたブラーエの前に、マテオ・リッチがやってきた。
『マテオ殿、先ほどは助かった』
『これ、日本語の辞典です。建部先生に頼まれたので』
『おお、これで日本語も勉強できる』
日本語とイタリア語を対応させたもので、2年前に日本の文部省が作成し出版したものだった。本来ならば機密にしてもいい本だったが、台湾滞在中は無料で貸与されることになっていた。
『その教本、イエズス会は禁書にしているので気をつけてくださいね』
『禁書なのか』
『その本はこの星が太陽の周りを回っていると書いています。イエズス会としては到底容認できません』
『ではなぜ貴殿はそれを学ぶのだ?』
『そこに書かれている理論に、誰も間違いを指摘できていないからです。私は、師であるクリストフ・クラウ様に命じられ、その理論に矛盾がないか探るため来ています』
他にも3人は派遣されていて、そのメンバーの方が知識面では優秀であることもマテオは言った。
『正直、日本の天文台にある大型望遠鏡の観察結果は我らも喉から手が出るほど欲しい。特に本島にはここにあるものの倍の大きさの望遠鏡があるとか』
『なんと。ここのものでも我が国にある天文台より遥かに大きそうなのに』
『どうやらコンスタンティノープルの天文台も、ここのものより小さいそうです。ですので定期的に参加できる公開の観察会は貴重な機会です』
『明日、私は天文台に行く許可がもらえている。3人まで連れてきていいとのことだ』
『私と仲間も同行させてもらえませんか』
『いいだろう。色々教わった恩を返そう』
マテオは親子丼を箸で器用に食べていく。
『日本人は異教の神を信じていますが、同時に目に見えるものを重視しています。彼らは科学的という理由で地動説を支持し、非科学的として神の教えを受け入れません。ですので、彼らの科学を正しく否定しなければ、日本で信者は増やせないのです』
『目で見える物を信じる、か』
『そうした日本人の考え方をつくりあげた斎藤公爵という人物がいるのですが、彼は人々の暮らしを良くした我らの知らない錬金術を多数知っています。それを実験で再現できるので、彼こそがこの国のキリストだと言っている日本人もいるくらいで』
『会ってみたいな、その公爵閣下に』
『ベルリンの言葉やイングランドの方言も流暢に話すらしく、教会の設立にも協力的なのですが』
『民衆が公爵を救い主と思っている、か』
『稲葉山に建設された教会は、結局公爵を称える新しいジンジャなるものに変わってしまいました。十字架の代わりにトリイという門が造られ、祭壇にはマリア様の代わりに公爵の母上の彫像が飾られています』
『公爵がやったわけではないのか』
『人々が建設に協力してくれていたのですが、完成した時にはそうなっていました。公爵が生まれた時に体を拭いた布が聖骸布のように地下に納められているとか』
『破門はしたのだろう?』
『祭壇の手前にある賽銭箱なる場所に毎日多くの人々が寄付をしているらしく、その一部がイエズス会に送られてくるのです』
『それは……なんとも』
『稲葉山には今イエズス会の宣教師がいないので、日本人が寄付をしている限り、抗議も難しく』
厄介なのが善意でこれらは行われていることだ。名古屋には宣教師が常駐しているものの、正しいカトリックの教えは浸透していない。
『彼らはラテン語の勉強などしてくれませんし、正しい教えを広めるのは困難です』
『いっそ、聖書を日本語にすればいいのでは?』
『異端らしい考え方ですね。ですが、ローマでは最近少し議論になっています』
『宣教師個人の教え方に頼るからローマの教会が腐敗するのだ。聖書に、原点に帰るのも大事だぞ』
『少なくとも、この大学で日本語を学ばねば話になりません。以前はこの国での過ごし方を本にして事前に読むこととしていましたが、きちんと読まない会員もいたもので』
『相手の言葉で教えを広める、か。むしろ、そうして初期の弟子たちは神の教えを広めたはずなのにな』
イエス・キリストはヘブライ語を使ったはずで、その言葉はヘブライ語こそ最も正確なはずだ。しかし、ローマ教会はラテン語を聖書の言語とした。ローマ人への布教も、ゲルマン人への布教も、彼らの言葉で行ってきたはずなのに。
『ローマを笑ってはいられないのかもしれないな。我々も、神の教えに近づくことを間違えてはいけない』
講義では自分の今までとは違う考えが多く示されるだろう。それをただ否定していては進歩はない。
ブラーエは自分の価値観に大きな変化をもたらすであろうことを感じつつ、午後の講義に向かおうとしていた。
和風建築にキリスト教式の祭壇、その前に賽銭箱。入口に鳥居。礼拝堂はキリスト教式。
現代だったら明確に変な新興宗教扱いですが、稲葉山の人たちはいたって真面目です。
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