後話3 日西戦争 第12話 マニラ条約と張居正の失敗
海外の話だけなので、全編3人称です。
イングランド・ロンドン
スペインがインド以東の勢力を失った。
この報がイングランド女王・エリザベス1世にもたらされたのは、年始の冬頃であった。
当初はオスマン帝国による東征かと疑われたが、その後イエズス会が布教した日本であることが判明。ポルトガルが近年地中海地域で販売している染色済みの絹織物が産出されていることがジェノヴァ商人によって報告されていた。
「ロシアを支援していたのは別の遊牧民だったと聞いたが、黄金の国は真にあるのか」
「そのようです、女王陛下。彼らは丸みのある真珠を無数に作り、ネックレスにしてローマの教皇に送ったとか」
「となれば、今こそハプスブルク家への攻勢を強める時か」
この時代、スペインとイングランドは仲が悪い。辛うじてローマ教皇が破門していないとはいえ、事実上新しいキリスト教を生みだしたイングランド。カトリックの守護者を自称するフェリペ2世にとって、これほど憎い相手はいなかった。イングランド側は公然の秘密としてフランシス・ドレークらの私掠船による海賊行為でスペインを妨害し、スペイン経済の悪化を招く大きな要因となっていた。
「ドレークが大西洋を越えたいと申していたな」
「もしスペインの銀を目指すなら、パナマに拠点がある我が国の商人らに支援をさせますが」
「良いな。あと、ネーデルラントを支援するのも助力願いたい」
「お任せを。いつも通り我らの一派が買取をさせていただくので」
イングランドは破門されていない関係でスペインと直接的な対立をしていない。だからこそ私掠船による妨害を主体としていたが、利益はジェノヴァに売り払われている。ポトシ銀山の銀も、一定の割合で私掠船によって奪われている。これもスペインの破産に影響を与えていることになり、よりイングランドとの対立を深めている。ジブラルタル海峡での海戦では協力したものの、異端認定されればどちらもすぐに戦端を開きかねない程度には険悪な状態だった。
だからこそ、イングランドは大陸との貿易という隠れ蓑を利用してネーデルラントの反乱に支援をするなど、間接的な妨害を強化する方向で動き始めていた。
「あまり強い影響を与えるとオスマンの盾にもならなくなる。ドレークにうまく加減するよう伝えよ」
「はっ」
こうして1575年年末、フランシス・ドレークは世界一周しながらスペインへの略奪を行う旅に出発した。また、ネーデルラントの反乱はオスマンとの対立が続く中で泥沼化し、スペインは日本と講和後も対イングランド、対ネーデルラント、対オスマンの戦いを続けていくことになる。
♢♢
パナマ
1575年5月。
北半球航路で大平洋横断を達成した日本派遣団はパナマにあるスペインの植民都市に到着。少数の守備隊しかいないパナマに対してスペイン国王との直接交渉の仲介を要請した。
人口4000人しかいない戦力不足のパナマはこれを承諾。半占領状態となった。現地で修道院設立のため滞在していたイエズス会のミゲル・デ・フエンテスがスペイン本国に派遣され、スペイン国王にその情報がもたらされた。
それと同時に、事態を知ったジェノヴァ商人も本国とイングランドにこの情報を伝えるべく出航した。南西の港を掌握した日本の軍艦も、北東側の港は監視にとどめており、商人の活動に制限はかけていなかったためであった。
12隻の船団に対抗する戦力がないスペイン国王フェリペ2世は、使者からの情報を受け即座にビジャエルモサ公爵とアントニオ・ペレスを呼び戻した。日本側は占領中もあえて交易は阻害せず、ポトシ銀山からの収益はスペインにもたらされた。もしこれを日本側が妨害していれば、ヨーロッパからカトリックが消滅していた可能性もあった。破産も経験していたスペインからすれば、ここで収入が途絶えれば対ネーデルラントも対オスマンも資金不足で崩壊しかねない状況だったといえる。
結果として、ここで日本が強硬な姿勢をとらなかったことでローマ教皇はこの戦争で過度な介入をせずに推移を見守ることにした。この後日本人の大司教を長崎に置くことを認めることになったのは、日本の理性的な対応とアジア方面における軍事力・影響力を軽視できないと判断したためだった。
1640年、日本人初の枢機卿となる高山右近の孫・ジュスト長房は、就任の挨拶にローマへ渡った際、ウルバヌス8世にこれまでの日本の融和的政策に感謝の言葉を伝えられたといわれる。
♢♢
9月。
スペイン側の使者はパナマで日本軍と対談。捕虜の受け渡しなども兼ねてスペイン船1隻を連れてルソン島へ向かうこととなった。アントニオ・ペレスは日本本国への寄港を提案するが、日本側が却下。赤道付近の海流を利用しそのままルソン島へ向かうこととなった。
同時期にフランシス・ドレークがカーボ・ヴェルデでポルトガル人から日本から得た世界地図を略奪。ドレークは南極と南アメリカ大陸の間にマゼラン海峡より広い海峡の存在を知り、船団で抜けるならばこちらの方がよいと考え、マゼラン海峡の南を目指すことを宣言した。
♢♢
1577年1月。
スペイン代表団がルソン島へ到着。捕虜の引き渡しと賠償金の支払いを決定。
ルソン条約と呼ばれるこの条約により、スペイン側は20年間の分割払いによる賠償金の支払いを決定した。
同時に、日本・スペイン・ポルトガルによる勢力圏を決定する協議が行われた。
日本は西太平洋全域とアメリカ西海岸、東南アジア・オーストラリア一帯における交易と安全保障を担うことと決まった。この地域におけるスペイン・ポルトガルは軍事力を制限され、彼らの租借する地域についても軍事力の配備には日本の了解が必要とされた。
ポルトガルはトルデシリャス・サラゴサの両条約をもとにインドでの権益を主張。貿易ルートの維持に責任をもつことでこれが認められた。スペインは南アメリカ大陸と北アメリカ大陸東部の権益を確保したものの、今回の一件を受けてパナマの西部にも軍事拠点を整備することとなる。
同時期、フランシス・ドレークは海峡の強烈な波浪により船団の大部分を喪失。フォークランド諸島に漂着し、この地で半年近くの滞在を強いられる。英国国旗を掲げた後、1隻だけ残った船は11月にイングランドに帰港。出資者への配当は行われず、ドレークはそれまでの功績から不問となったが、イングランドは莫大な借金を抱えることとなるのだった。
♢♢
明 北京
宰相・張居正は窮地に陥っていた。
「父親の死に一切喪に服さず、慣例を無視する宰相がいていいものか!」
「形式のみでも一度職を辞すのが孝の道!孝を失えば儒学を第一とする科挙の受験者にも示しが付きませぬ!」
「そもそも、この『奪情の者は父祖の地に送り返す』という令を制定されたのが宰相ご本人ではあるまいか!自ら定めた令に背くのか!」
次々と皇帝の前で意見する反張居正派の重臣たち。趙永賢や呉威中のような家臣が続々と声をあげ、張居正はこれを抑えきれなくなっていた。
また、地方からも沈思孝のような地方の法務官(刑部)からも批判の声があがっていた。
地方では一条鞭法による銀の流通が貨幣不足によってうまくいかず、デフレによる農村部の困窮につながっていた。地主層は都市部に収穫物を運ぶことで利益をえていたが、農村に住む人々の大半は税を払うので手一杯となっていた。地方に行くほど不満は増していたが、張居正はここまで批判を弾圧によって封じていた。
しかし、万暦帝と呼ばれることになる皇帝は自身が15歳となったことで張居正を疎ましく思っていた。それでも政策がうまく進んでいる間は張居正に任せていたものの、家臣から目に見えて批判が噴出する中で彼を擁護する気はなかった。
張居正は怒号に対して冷静に、彼らが落ち着いた隙間を見て話し始める。
「諸君の申すこともご尤も。しかし、国難に際して宰相たるわしが不在になるのは国のためならず。父もそれは望んでいないだろう」
「詭弁だ!」
「むしろ、今こうして騒いでいる諸君がいるからこそ、わしが父の弔いに向かえないのだ」
張居正はこの事態を収拾するため、強硬策に出ようとしていた。反対派の粛清である。事前に根回しは終わっており、後は宮殿内の兵に命じれば動くはず……だった。
流れを変えたのは皇帝だった。張居正の能力の高さから政務を任せていた皇帝だったが、最近は自分に批判が飛ぶ可能性を考える状況となっていた。幼少時は責任を追及されない立場だった。しかし15歳の今はそれも通用しない。
「宰相、葬儀に向かえ」
「陛下?」
「今ここで揉めていては何も進まぬぞ」
皇帝の言葉は何より重い。だからこそ、張居正はここまで権力を自由に行使できたといえる。それが、皇帝によって言動を諫められる状況になったのだ。
「承知、いたしました……」
「安心せよ。喪に服し終わればまた仕事をしてもらう」
張居正がその場を去ると、動揺する家臣には目もくれず皇帝はその場を去った。
張居正が戻るまでに、張居正を支持していた官僚は次々と地方へ派遣されており、この後張居正は孤立を深めていくことになる。
大きな史実との変更点
・フランシス・ドレークは世界一周できませんでした。ドレーク海峡を最初から目指したために太平洋側に出られていません
・ドレークに奪われるはずだった資金は日本への賠償金になったので、スペインは有利になっていません
・ドレークがエリザベス1世にもたらすはずだった30万ポンドはなくなりました。アントワープにある借金は残っています。東インド会社の設立資金がありません
・明は一条鞭法を地方まで徹底する銀が足りず、国内に不満が溜まっていたため、その責任をとる形で張居正の権力が削減されています
昨日5日に月刊少年チャンピオン9月号発売されました。いつも通り田村ゆうき先生による漫画版が連載中です。ぜひお手に取って読んでみてください。




