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後話3 日西戦争 第8話 クタイ海戦

初めて出る都市名があるので都市名だけの地図を用意しました。今回もCrftMAP様の地図をお借りしております。


挿絵(By みてみん)

 テルナテ島 テルナテ


 スルタン・バブラが住むテルナテの首都はスラウェシ島の東にある離島である。

 防衛のため半城砦都市となっており、その堅牢さが1530年代に侵攻したポルトガルを追い払う結果を生んだ。

 その首都に一旦寄港した日本海軍はスルタンに外交文書を提出すると、マニラの王子に現状を伝えたうえでスラウェシ島に西進していった。


 ♢♢


 スラウェシ島 マナド


 スラウェシ島北部の都市マナドに到着した日本海軍は、そこで宣戦布告を伝えた後警戒状況を確認していた部隊の追加情報をえた。スペイン軍は移動せず。クタイの軍勢に変化はなしということだった。

 香宗我部親泰はこの状況に敵軍は動かないと判断。スラウェシ島における数少ない雨の少ない時期である今動くべきと判断した。

 スラウェシ島やボルネオ島は6月から10月以外は月の7割で曇天が続くため、スペインの船団の接近が気づきにくかった部分もあった。夏の後半でもあるこの時期、月の過半数で晴れる今なら、視界が良好で火薬が利用しやすい。11月に入ると雨が激しく降る。ある程度の防水があるとはいえ、熱帯雨林気候の豪雨地帯で大砲などを運用するのは怖さがある。親泰はそうした判断をしたのだった。


 ♢♢


 ボルネオ島 クタイ


 クタイにはスペインのガレオン船が31隻停泊していた。これは遠征部隊の6割強の部隊であり、同時に修理が不要な戦える船の9割近い数でもあった。実質的なほぼ全戦力はゴンサロ・ロンキリョ・デ・ペニャロサとペドロ・デ・チャベスに率いられここにいた。警戒船などは一切出ておらず、彼らは現状を何一つ知らずにいた。


「チャベス卿、ラベザリス様から手紙だ」

「ほう、神の家を建てるのに必要な資材を日本から調達できたかな?」

「いや、どうやら日本が攻めてくると」

「イエズス会は何をしているのだ?ポルトガルの連中が支援して神の教えを広めたのではなかったのか?」

「やはりポルトガルの連中は使えんな。神の教えが一切根づいていないではないか」

「実はイエズス会はまだ日本にたどり着いていないのではないか?連中は遅刻魔が多いからな」

「そうかもしれませんな!」


 彼らは自分たちを棚に上げつつエスニックジョークで危機感なしに会話を続け、香辛料をふんだんに使った肉を味わっていた。

 そこに、装甲蒸気船を旗艦とする日本海軍がクタイ沿岸に現れた。

 しかし、スペインの軍団は酒宴で過半数が戦場に出てこられる状況にはなく、その接近に気づくのは大きく遅れた。

 港から出航できた船は10隻にすぎず、その10隻もガレオン船からの最初の砲撃で半数が大破・沈没していった。

 この段階になってようやくチャベスは残りの全艦を港から出そうとしたものの、乗船していなかった船員は次々と港から森の中へ逃げだした。第二撃で10隻が全て沈没した後、残った船のうち半数は動かす人間の不足で一切動かなかった。10隻程度が港の出口から出ようとしたものの、香宗我部親泰はそれを許さないよう港の内部に砲門を向け、一斉砲撃で次々と撃沈した。


 30分すらたたずにスペイン船22隻が撃沈。9隻が拿捕された。ゴンサロ・ロンキリョ・デ・ペニャロサはボルネオ島の熱帯雨林に逃げこみ、ペドロ・デ・チャベスは船とともに海に沈んでいった。スペイン人は200名が捕縛され、6名の宣教師が『保護』された。


 クタイの戦いと後世に呼ばれる日西戦争最初の戦いは、ほぼ戦いにならずに終了した。4日後にクタイの王族や地元民が内陸部から港に戻り、彼らによって殺害された逃亡兵400名の首が日本側に引き渡された。ゴンサロ・ロンキリョ・デ・ペニャロサの行方は誰にもわからず、首の中には損傷しているものもあったため殺された可能性も残った。戦後処理を数日で終えた香宗我部親泰は、クタイ側の歓待を1日だけ受ける(と同時に一部食料の補給を受ける)と翌日にはスラウェシ島へ向かって艦隊を出発させた。捕虜は武装解除された上で拿捕された船に乗せられ、一部の護衛艦隊とともにシキホル島に送られた。逃亡兵の調査・追撃はクタイと熊本から派遣されていた陸軍の一部が継続して行うこととなったが、彼らはほとんど成果をえられずその後撤退することになる。それから数年、密林の奥地では時折スペイン人の白骨化した遺体が発見されることになる。


 ♢♢


 スラウェシ島 マカッサル


 マカッサルに日本の船団が到着した時、ラベザリスはすべてを悟った。修理中の船を出発させることもせず、彼は即時降伏をしようとした。しかし、マカッサルの制圧・支配に協力していたブギス族は自分たちの支配を維持しようと考え、港からの上陸を阻止する構えを見せた。

 港に簡単な防柵を用意して守るブギス族と一部のスペイン人に対し、香宗我部親泰は湾内に装甲船を侵入させて砲撃を加えることを決めた。

 船からの砲撃によって混乱する中、スペイン人と一部のブギス族は鉄砲と火矢で応戦したものの、船の装甲によって火矢は一切効果がなく、鉄砲も装甲に凹みをつくるだけで損害は与えることができなかった。実質的に一方的な攻撃を受けたことで、ブギス族は徐々に砲撃の射程範囲内から後退を開始した。結果、上陸可能な空白地帯が生まれた。

 これを確認した陸軍の梶川高盛が小船による強襲上陸で上陸に成功した。砲撃が続く中で500名が上陸した日本陸軍は、火縄銃による攻勢を開始。ブギス族を敗走させ、マカッサルの制圧に成功した。ラベザリスらが降伏し捕縛され、周辺の別の島に逃げこんでいたゴワの王ボントランカサはマカッサルに帰還することができた。

 スペインの部隊は実質全滅し、台湾に急きょ建設された収容所に軟禁されることとなった。


 ポルトガル公使館と同時にイエズス会日本支部の台湾担当であったグネッキ・ソルディ・オルガンティノもスペインとの交渉を仲介する依頼を受け、急きょ教会からの使者をスペイン本国に派遣することが決定し、彼らがインド経由でスペインとの交渉に参加することとなった。

 この交渉は距離的な問題も加わって2年弱におよぶこととなり、日西戦争の長期化につながることとなる。


 一方、日本政府は太平洋航路による遠征軍の追加を懸念事項とし、防衛拠点としてオーストラリアへの植民都市の建設を閣議決定することとなった。北方開発はアラスカ経由でアメリカ西海岸にも植民都市を整備する必要性があると判断された。スペイン側が講和を望まない場合、20年計画で太平洋沿岸の制海権を確保して南アメリカ大陸のポトシ銀山を制圧し、賠償金と復興資金の捻出をすることも選択肢とされた。


 日本の遠征艦隊の整備も話し合われ、東オーストラリア海流と導三が名づけた海流を利用して太平洋を横断できることが確認された。これを利用してペルーのクスコへ一撃強襲をして日本の海軍攻撃能力を見せる案が決定することになるのだった。

漫画版の連載されている月刊少年チャンピオン7月号は来月6日発売になります。よろしくお願いいたします。


次話は1575年末から1576年の話になります。

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― 新着の感想 ―
この作品では太平洋じゃなくて大平洋で統一されてたのでは…?と私は訝しんだ。
[気になる点] オーストラリア、どこから出てきた?まぁ、名前考えるのは大変だろうから、適当に脳内補完しときます
[気になる点] ポルトガル・スペインにはラテン語で外交文章書いてるのでしょうが、東南アジアには何で外交文章書いているのでしょうか? 漢文?
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