後話3 日西戦争 第2話 龍の子、太陽の国に降り立つ
いよいよ、日西戦争編の主要視点となる導三の息子の1人、三好長実のシキホル島着任です。
前回から少し時間が経過していますのでご注意下さい。
1575(天正12)年 フィリピン シキホル島
シキホル島は1571年に居留地の許可がでたため、台湾経由で大規模な開発が進んでいた。現地人への仕事の斡旋と元九州系大名の残党が送りこまれ、要塞化と経済拠点化が進んでいた。
このシキホル島の初代総督だった織田信長の弟・信興は現地人との友好につとめ、マニラでラジャ・アッシュらとも交流して現地に根づいた。シンプルに商売でいろいろとお互い儲けたのも理由だとは思うが、軍隊の駐留人数も最初から文書化して許可をえていたおかげで、現在は400人の武士出身の兵が駐留できるまでになっていた。
第二代総督として上陸した三好長実と篠原自遁、野口孫五郎長宗らは新たに許可をえた100名の元三好水軍兵を率いて現地の領事館に入った。建物は木造だが表面が白く塗られており、ホワイトハウスと斎藤導三入道には呼ばれていた。篠原自遁はなぜ英語の通称をつけたか疑問に思っていたが、それより大きな疑問も同時に感じていた。
「殿、台湾への海底電信とやらは成功するのでしょうか?」
「わからぬな。日々試行錯誤だとち……導三様は笑っておられたが」
「別に父上でも構いませぬぞ。三好の一員となっていただきましたが、斎藤の御家に生まれたのも事実にございますれば」
「しかし、三好の者と思い、斎藤を頼りとするなと言われておるのでな」
実際、三好の面々からすれば斎藤と三好の繋がりを強固にしたいという考えがある。その意味でも導三入道の子である長実に関係の断絶までは求められていない。
「島井(宗室)は次、いつ来るのでございましょうか?」
「わからぬ。わからぬが、三月のうちに来るとは聞いている」
「ゴムの樹液の買い付けが想定以上に順調ですので、早く来てもらいたいですな」
「いっそこちらに加工場を造ってしまえばよいのにな。海底電信のために集めている訳だし」
長実は小さく溜息をつくと、ホワイトハウスの執務室に入っていった。総督として着任証に署名しなければならない。すべての彼の仕事はそれから始まるからだ。
♢♢
長実が着任証に署名をした直後、前任総督代理の蘆名盛興は会わせたい人がいると長実と篠原・野口に言い出した。盛興の補佐をしていた大浦為信・島津家久が部屋に連れてきたのは、ジャワ島にあるバンテン王国のパヌンバハン・ユスフの使者だった。
通訳を介さず話す大浦為信と、会話には興味がなさそうな家久という対極の反応を見ながら、長実は使者と話すこととなった。為信はかなり大量のひげを整えており、イスラム文化が根づくこの地ではひげだけで男女問わず尊敬を集めていることを長実は事前に聞いていた。家久はあごひげ以外は剃っているものの、やはりひげがわかる程度に生えている。現地の習俗を意識した身なりになっていると言えた。
(清酒から隔離するため連れてこられた盛興殿はともかく、大浦は確か自ら望んで南方に派遣されたのだったな。東南アジアに興味があったのか?)
「お目通り叶い光栄です、新しい将軍閣下」
「こちらもお会いできて光栄だ。ジャワ島とはここから大分南の地と聞いたが?」
「左様です。ダイアモンド島(ボルネオ島)を越えた先です」
「何故こちらまで?」
「われらのコメをたくさん買っていただいていますので、ご挨拶をと」
ジャワ島は米の一大産地があり、前王のマウラナハサヌディンが胡椒の産地と稲作地帯をおさえていた。ジャポニカ米を大量に運ぶ余裕のなかった開拓部隊はジャワ島から米を輸入していた。インドシナ半島がタウングー王朝とアユタヤ朝による戦乱で米の輸入が難しかったのも影響していた。自給自足の性質が強い諸島(彼らは自分たちを太陽の島々と考えている)では、マニラに集まる人の食料以上の余剰生産はなかったのもこの関係を生んでいた。
「胡椒も、イスパーニャ人より高く買っていただけるならいくらでもお売りします」
「あぁ、胡椒か」
「日本人、あまり胡椒を買いませんね」
「醤油や味噌、味醂があればなんとでもなるからな」
醤油の普及が進んだ日本では、蝦夷の十勝で大規模な大豆栽培が進んでいた。根室への食料供給と蝦夷地で可能な食料生産を両立した大豆生産は3年ほどで日本の大豆需要の2割を支えるまでに拡大している。逆に、海外からの香辛料に頼る料理は高級料理として一部のみの普及にとどまっている。
「あと、可能なら火縄銃が欲しいです」
「火縄銃か。先代も売っていた旧式になるがよいのか?」
「われわれには最新式です。しかも安い」
「まぁ、当座の資金にもなるし、問題ない」
「感謝します」
使者は満面の笑みでその場を去った。明智光秀・竹中半兵衛・島津義弘を含む火縄銃を使用した経験のある戦国武将と、鉄砲隊を率いた各大名家出身の将兵によって作られた火縄銃の改良班が1570(天正7)年に活動を開始。その第一次量産型が1574年に製造を開始していた。これは斎藤導三入道が法医学の整備を進めている中で「線条痕」という言葉を思いだし、助言として改良班に与えたライフリングを施したものだった。国家予算で行われた膨大な実験と、鉱山開発以外で余剰が生まれつつあった硝石の使い道として3年でライフリング銃が実用化された。これらは台湾・対馬とシキホル島に配備された。
そして、警察機構の整備が進んだことで不要となった火縄銃1万丁がフィリピンの友好部族やアユタヤ朝、ジョホール王国に販売された。黒竜江流域や樺太海(オホーツク海)沿岸の開拓部隊が毛皮猟を行うのに使用した結果、満州女直にも一部が渡り、彼らとの交流が始まっている。
「しかし、これから日本米はほぼ食べられないというのが辛いな。醤油と味噌は持ちこんだが」
少し憂鬱そうな長実に、シキホル経験が最も長くなった蘆名盛興が笑って応える。
「総督閣下、ここで数年暮らせば、多少は慣れますぞ」
「そういえば断酒はうまくいっているのか?」
「ええ、ヤシ酒がどうしても口に合わず、飲む量が減りましてございます」
「ヤシ酒?」
「ヤシの実で造った酒なのですが、甘いのです。清酒のキリっとした飲み心地に慣れた某にはどうにも合わず」
「成程」
蘆名盛興は少量の清酒や酒割りで摂取制限を進めていた。ここに来る前の段階で中毒症状は大きく緩和していたが、シキホル島に来て清酒が飲めなくなると少しずつ飲む量が自発的に減っていた。酒に溺れた原因となったストレスから解放されたことが一番大きかった。蘆名は既に県制に移行しており、国人領主に悩まされることもなかった。不信を抱いていた家臣と接触することのないはるか南の土地にいることも、彼を安心させていた。酒の合う合わないは後付けの理由に近い。
「せっかくここを任されたのだ。三好のためにも、頑張らねば!」
「ではまずは本日の夜からですな。周辺の島々の領主が参ります故、宴会で仲良くなってくだされ」
大浦為信がそう言うと、島津家久が目を輝かせた。
「やはりそうか!新しい総督の補任となれば、宴で飯もたらふく食えるだろうと思って久々にここへ顔を出した甲斐がある!」
「島津殿は普段ここに来ないのか……」
「我が薩摩号(ガレオン船)にて周辺の潮に慣れるべく長期の航海演習を欠かしませぬ!」
「と、この調子ですので、蘆名様と2人で政務は行っている次第」
「野口殿!明日から早速港に参ろうぞ!」
「宜しいですな!某も淡路号で近海を見たかったところで!」
盛り上がる部下を尻目に、長実は篠原自遁と顔を見合わせ、苦笑するのだった。
というわけで、前回で奄美大島まで延びていた電信も沖縄本島から台湾までを目指すところまで来ました。他にも少しずつ日本の戦力強化は進んでいます。
次回からスペインの東南アジア戦略が(史実より遅く)開始されます。




