後話3 日西戦争 第1話 倭寇なき交易の拠点、張居正の誤算
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奄美大島
奄美で寄港した奈佐日本之介率いるガレオン艦隊は京からの知らせを聞き、予定より多くの食料を積んでルソン島へ向かった。
台湾であれば食料などが大量にあり、少々の増派には耐えられる。しかしルソン島は交易で訪れる人間以上の人口を養う食料は生産されていない。自分たちで用意した方が現地民に迷惑をかけないという判断だった。
奈佐日本之介の副将として島津水軍出身の比志島国貞・雑賀衆出身の鈴木孫一がこの艦隊のガレオン船を率いていたが、日本之介は大砲の運用が苦手だったために雑賀孫一にその点を依存していた。
「孫一殿。林鳳とやらの拠点に関する情報は?」
「京から来た連絡ではわからぬそうだ。ただ、ルソン島の周辺にも拠点はあるらしいことが李旦の証言からわかっている」
「となると、とにかく急ぐことが肝要か」
「旗艦だけでも先行しては?速度はこちらの方がでますので」
「しかし、船は良くとも大砲がな」
「雑賀の仲間を数名こちらに乗せましょう。その見立てでお動きくだされ」
「わかった。頼む」
元雑賀衆の的場源四郎らが派遣されたのち、この艦隊で最速である奈佐日本之介が乗る旗艦がルソン島へ先行した。
台湾にいた林鳳のほうが距離的には近かったが、彼らは一度日本海軍からの攻撃によって損害を受けており、素早い移動は難しいと判断していた。とはいえルソン島への早期の警戒伝達も兼ねて、奈佐日本之介は潮の流れを利用しながらルソン島へ急いだのだった。
♢♢
シキホル島
日本之介は南西諸島の東海岸からシキホル島へ抜け、そこからマニラ島へ向かうことにした。黒潮に逆らう形となる南西諸島西岸からマニラへ入るルートより、潮の流れにある程度乗ってルソン島東岸に向かう方が速いと判断したためだった。実際、シキホル島到着時点でも、マニラ島へと連絡が行われた段階でも、林鳳の姿は確認できていなかった。
これは、台湾とルソン島の中間に位置するバタン諸島に林鳳の拠点があり、そこで林鳳が立て直しのため船の修復や負傷者を降ろすなどの行動で時間を使ったためだった。林鳳からすれば、台湾での戦闘が情報として伝わるのにここまで短時間となることは想定できず、台湾での戦闘が京都へ情報が伝わるのすら本来まだのはずだった。奄美から鹿児島は400km近く。大まかな日本の地理情報を李旦から聞いていた林鳳からすれば、鹿児島に伝わってもそこから京都までもかなりの距離がある。日本が船を動かすまでも時間的な猶予があると考え、先に態勢を立て直そうとした。
しかし、林鳳がバタン諸島を出発してルソン島へ向かった頃には、シキホル島のガレオン船はルソン湾岸を警戒のため海上に展開していた。船団が発見されたタイミングで花火式の信号弾が発射され、二発目には距離、三発目には方角までが周辺海域の船団に共有された。奈佐日本之介の旗艦もこれに加わり、大砲によるアウトレンジからの一方的な攻撃で、林鳳は台湾での合戦以上の被害を出し、再びバタン諸島に撤退した。
しかし、バタン諸島には比志島国貞のガレオン艦隊が向かっており、周辺諸部族の協力をえてバタン諸島の拠点は降伏済みだった。砲撃によって降伏したバタン諸島の拠点は負傷者が大半だったため、戦う力が残っていなかったのである。
バタン諸島に現れた林鳳は、拠点がすでに占拠されている状況を確認して降伏した。それ以外の倭寇拠点も降伏した倭寇の証言から摘発が進み、その過程で旧大友家臣の蒲池統安が発見されるなど、現政府に居場所がない人間も少数参加していたことがわかった。
一連の活動を終え、ルソンのスルタンであるラジャ・スライマンに謁見した総督の織田信興は、ルソンの自由貿易は守られたことを報告した。
「では、ルソン周辺の倭寇はこれでほぼ壊滅したと?」
「おそらく。まだ小規模な海賊はいるでしょうが、シキホル島をお借りする際の海賊討伐と合わせ、周辺の問題はほぼ解決したかと」
通訳を通じた会話で、スライマンは2,3度うなずく。
「海賊が使っていたバタンの島はそちらで使ってもらって構わない。今後も北(明)から海賊が来たときはご助力を願おう」
「当然です。我らの願いは自由で開かれた交易ですので」
本気を出せばルソン島を占領できる軍事力を保有することを改めて示しながら、それを交渉に用いない日本の姿勢にスライマンは畏怖を覚えた。しかし、藪蛇はしない程度に彼は理性的であり、現状の維持に日本の軍事力を利用できるなら問題ないと考えてもいた。
この事件後、ルソン周辺からミンダナオ島にかけての海域は日本海軍が警備を担当したため、倭寇と呼ばれた国籍混合の海賊は山東半島周辺と朝鮮半島西部に一部を残して壊滅したのだった。
♢♢
明 北京
幼い万暦帝が座る玉座の前で、張居正は税制の改革案を報告していた。10歳になったばかりの皇帝は当然理解していない。彼の役目は「よきにはからえ」と言うことである。
「土地丈量(中国版検地)が終わりました。これで複雑な税制を統一できまする」
「よきにはからえ」
「偉大なる皇帝陛下、南蛮が絹などを買って銀で払っているため、江南には十分な銀がいき渡りました。全土で銀納は厳しいですが、ある程度は銀納で賄えるでしょう」
「よきにはからえ」
「後でご講義にお部屋に参ります。その時細かきことはご説明いたします」
「……よきに、はからえ」
いやそうな顔を隠さない皇帝に、涼しい顔でその場を後にする張居正。彼の報告を聞くのが皇帝の職務であり、それが終われば彼に財政や儒学などの教育を受けるのが日課だった。
「あやつが死んだら、朕は学問などおこなわぬぞ」
皇帝のぼそりとつぶやいた声を傍に控える宦官の鳳凰は小さなため息とともに聞いていた。世話係も務める鳳凰が、張居正と二人三脚で進めているから明という国家の財政は改善しつつある。しかし鳳凰も張居正もそこまで長生きではない。自分たちが死んだあと、宮中はどうなるか。鳳凰は不安を感じずにはいられなかった。
幼き皇帝が自室に戻るべく部屋を出た時、鳳凰は見本として置かれた銀の棒に視線を向けた。それはスペイン・ポトシ銀山で採られた銀。ポルトガル商人が絹を買う際に払っていく代金である。
「最近、日本から銅も銀も来ない故、困ったものよ」
張居正と鳳凰が想定していたのは日本と南蛮から銀銅を輸入し、これを全土に流通させて銀納による税制を確立すること(いわゆる一条鞭法)だった。しかし、大友氏による大規模な銀払いによる大砲などの仕入れ(最後の勘合貿易)が終了して情勢は一気に変わった。
日本は統一国家として李氏朝鮮や明と交易に関する条約の締結を提案。海禁政策を進めたい明だったが、日本政府の提示した内容は対等条約だったためこれを受け入れなかった。しかし台湾に関しては「所有していない」ことを宣言しており、これを受けて日本が大規模に基地をつくり、交易の拠点としたことも黙認していた。
福建の台湾対岸にある港市やマカオはポルトガル人を仲介として実質的な日明貿易を行わせ、多くの物品が行き来していた。しかし、日本側は銅や銀を輸出せずに海産物や硫黄、1枚鏡を主力輸出品としていた。
日本では電信のために銅が大量に利用され、紙幣と金・銀貨が兌換用に用意されていた。ポルトガル商人は陶磁器の一部や紫色に染色された絹織物などを日本から購入していた。紫が高貴な色とされた明では、高級官僚でさえ身につけるのが許されておらず、需要がないため輸出向けでさえ製造をしていなかったためである。
フクシンの抽出を成功させた日本は明でポルトガル人が仕入れた生糸を台湾の工場で染色しポルトガル人に販売していた。染料は讃岐で製造することで外国人にその製法を秘匿しつつ、大規模な加工貿易で儲ける体制となっていた。そのため、ポルトガル人は大量の銀を明と日本に供給していた。そうして蓄積した銀を、イエズス会を通じてローマ教皇に寄付したことで天皇=カエサルがローマ教皇に認められた形だ。
「もう少し銀がなければ、首輔(宰相、張居正)のやりたい形にならぬのよな」
その独り言の意味を理解できる人間は、その場に誰も残っていなかった。
日西戦争編といいつつ、あと2話くらい周辺情勢が史実とどう違うかを説明する部分が多くなります。ご容赦ください。これがないと展開が?になりかねないので。
特に明については、史実より一条鞭法が定着していません。日本が銀をあまり国外に吐き出さず、ヨーロッパからしか銀が回収できていないためです。最後の銀輸出は大友征伐の時です。
結果として日本は金銀銅を国内に貯めこみ、兌換紙幣による貨幣経済を発展させています。明の経済が史実ほど強靭にならないので、万暦帝による明の破滅的放漫財政の影響も悪化します(このへんは本編最終話で描かれた日清関係に関わりますが、今回の日西戦争編では大きく関わりません)。
ここで大事なのは、東南アジアの主要権益はこの段階で日本と先住民族国家にほぼ掌握されており、ポルトガルが保有するマラッカの拠点以外中国やヨーロッパの関与する勢力は存在しないという状況です。商人だけが出入りしているとご認識ください。




