第322話 JAPAN
途中で3人称になります。
ご指摘もいただいたので、「いわゆる廃藩置県」という書き方にしています。イメージしやすいので、この表現でご理解いただければ幸いです。
山城国 京
1569(天正6)年となった。年初に義兄・長慶が亡くなった。享年49。孫である五樹丸の7歳の祝いを終え、十河一存殿らと元服後の名前について話した次の日だった。葬儀は笑嶺宗訢師に依頼したが、親子ともども葬儀を行うことになったのを悲しんでいた。
新政府の結成と直轄地域の拡大のため、10年以上前から家臣たちにも話してあった形で、いわゆる廃藩置県を実施した。今後うちや織田、三好の家臣たちは、大部分が銭で俸給を受け取ることになる。うちの常備兵は、大半がそのまま根室・樺太・千島などの防衛部隊と金沢・札幌駐屯地の軍人となった。新しく防衛拠点兼植民都市となった、前世でいうところのトゥグル・マガダンといった都市は、この世界では真幸や三利と呼ばれている。特に三利は、亡き父との最期の約束通り、最北の街に道三入道利政の名をつけたものだ。これにより、オホーツク海沿岸部をほぼ完全に掌握することができた。樺太の対岸には女真族との交易所があり、そこで彼らと交流しながら友好関係を結んでいる。
一方、南方では台湾に正式な総督府を置き、駐屯地を置いた。台南城を築き、一部地域で砂糖と東南アジアから仕入れたガタパーチャを植えて育て始めている。奄美諸島の方が砂糖栽培は進んでいるので、島津に依頼して台湾でも栽培を進めてもらっているところだ。台湾と奄美の砂糖で、ある程度の国産砂糖が担保できそうだ。一方、讃岐で育てるのはなかなかうまくいっていない。気候条件が違いすぎるのか、品種が違うのか。和三盆への道は遠そうだ。
フィリピンのマニラへ向かった使節団は現地の王(パラマウント=ダトゥというらしい)ラジャ=アチェとその後継者?(王子らしいが言葉がうまく通じていない気がしたらしい。仕方ないか)というラジャ=スレイマンに謁見したと報告があった。友好関係と交易などのための滞在許可、そしてその居留地を与えられたそうだ。ジョホール王国やバンテン王国、グエン・ホアンという王の率いる南部ベトナム、アユタヤ朝など、東南アジア諸国に親書を送り、友好条約と交易の相互許可をえた。また、マニラの王を通じてブルネイ王と謁見できたらしい。シキホルという島の一角で取引を進める予定である。
ポルトガルは、台湾に居留地開設と交易所の利用許可を求めてきた。日本との方が、宗教的にも話ができる分交渉もしやすい、という判断のようだ。そのため俺達は、ポルトガル王への親書を持たせた、三条実教様を全権大使とし林勝吉や平手久秀、鍋島孫四郎を副使とした、遣葡使節団をポルトガル本国へと向かわせた。秋にはリスボンに着く予定だ。
彼らにはポルトガル王への土産として、紫の絹服を3着と貿易用に作った銀貨100枚を持たせた。これで日葡通商航海条約が結べるといいのだけれど。
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夏。新政府より、正式にいわゆる廃藩置県についての通達を、各大名に行った。通達の中で、今後100年以内にこれを受け入れる事と、その時期の判断については各大名に委ねる事が示されていた。そして、真っ先に此の通達を受け入れたのは、常陸の小田氏だった。
小田氏治がわざわざ京までやって来てその理由を伝えたが、どうやら小田領内で深刻な干ばつが発生しているらしい。先ずは北条に支援を求めたが、北条はうちや織田ほど余裕がない中で、港湾などの整備事業と上野の製糸業に最優先で資金を投じている状況では、ちょっと小田を助けられそうにもないらしい。干ばつが原因なので当座の食料はあるものの、今後を考えると、霞ヶ浦周辺の大規模な開発と治水事業が必要とのことだった。ちなみに、こうした細かい説明をしたのは、全部菅谷政貞という家老だった。
このため話し合いの結果、俺達と北条との共同で霞ヶ浦整備と利根川関連の治水事業を行うことが決定した。出資比率は中央政府7対北条3になる予定だ。北条氏親殿は、最近領内の処理すべき案件が多いためか、自身が病がちと聞いている。そのため、京の議会には弟の氏政殿が代理で出席する機会が増えてきた。
一方、特に理由はなくとも即座に廃藩置県を受けいれたのが、真田昌輝と宇喜多直家だった。真田は弟の昌幸が北方調査でも活躍しており、彼の説得もあったらしい。しかし宇喜多がわからない。とはいえ乗ってはきたので、改めて宇喜多直家を知事に任命した上で児島湾の新田開拓事業に予算をつけることにした。
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小田原と岡山が京と電信で繋がり、初の海底ケーブル実験が淡路島と神戸の間で行われる中、新政府の体制が発表された。総裁近衛前久様・執政官織田信長・斎藤龍和はそのまま。大審院長に俺が、貴族院議長に一条内基様が、軍を統括する統合幕僚長に7歳で元服した五樹丸こと三好慶兼が就任した。その統合幕僚長を補佐する形で、陸軍元帥に北条氏親殿、海軍元帥に小早川隆景殿を置いた。軍参謀本部には、黒田官兵衛・竹中半兵衛・明智和光・鍋島孫四郎らが所属。陸軍は、十河一存殿・柴田権六・大久保忠佐・蜂須賀小六らが実働戦力を率いる。海軍も、野口冬長殿・九鬼澄隆・香宗我部親泰・村上武吉らが艦隊を率いる。
内務卿(実質的内閣官房長官)には松平信康が、財務卿には丹羽長秀が就任。外務卿林勝吉(ポルトガル訪問中)、文部卿細川藤孝・警察庁長官佐久間信盛あたりは信長の元家臣と旧幕臣が担当する。一方、運輸卿は成安幸右衛門、厚生卿は俺の四男である斎藤惣三郎豊成が担当する。俺の三男で、三好に養子入りした三好長実も式部卿となった。公家からも、二条長実様が宗務卿、役務卿(労働省)に飛鳥井雅春様を迎え、持明院基孝様も執政官輔として龍和を補佐する。松永のワンコも信長と龍和を補佐してくれる形だ。尤も本人は、何れ慶兼殿が執政官になるまでにその補佐ができるよう経験を積むつもりだ、と言っていたが。
北方開拓使は木下藤吉郎秀吉が、台湾総督は安宅冬康殿が務める。何方もとにかく忙しい部署だ。戦もありえる南方は、三好一族で軍との連携を特に重視している。海底ケーブルの実験が成功し次第、博多と下関、府内と宇和島なども繋ぎながら、西日本の電信網を整備する予定だ。
貴族院には武家公家計45名が名を連ねた。赤松義祐・姉小路頼綱ら半家臣化していた名家・国人領主も加わった。これで貴族院に議員を輩出する名門として、彼らは名を残すことになる。尚元王は、自身の息子・尚宗賢を代理として京に常駐させると連絡してきた。人質をかねているが、こちらの文化や制度・情勢を把握するためだろう。龍造寺隆信の遺児である龍信もだ。
公家は26名。近衛前久様と一条内基様を除き、若手が多い。名を復活させた家の人々も多く、鷹司家なども漸く復興された。
錚々たるメンバーが中央議事堂に一堂に集い、増員された貴族院では活気のある話し合いが行われていた。
「仕事の無い武士が一定数おります。台湾に常駐させる兵を増やしては?」
「あまり多くなると明を刺激する。今の八千とてあまり良い顔はしておらぬぞ」
「対馬に三千、佐世保に一万二千で朝鮮方面は即時動けまするか?」
「現状では狼煙で連絡を行っているが、後々博多まで電信を繋げましょう」
「日ノ本全土で即時動員可能兵力は十万。警察と合わせれば十分かと」
「根室の昆布漁が人手不足と聞いた。水夫不足は何とかならぬのか?」
「何処も船乗り経験者を欲しておる。船乗りの人足寄場も定員まで受け入れておるが、北方は何処も足りぬのだ」
文字通り置物な人もいるが、毛利隆元殿や最上信光殿など、鋭い指摘や疑問を投げかける人もいる。
ゆくゆくは庶民議会もつくりたい、という話を彼らにもしている。庶民議会が開かれる前に、自分たちの才覚を見せて生き残りをかけているところもあるのだろう。
政府の主要閣僚メンバーが質問にタジタジになることもある。お互いの切磋琢磨が良い政治を生むだろう。
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ポルトガル リスボン
1569年10月24日。
日本政府とポルトガル政府の間で、歴史的条約が結ばれた。
それは、日葡和親条約および日葡通商航海条約。内容としては、相互の国家承認と領土の確認、相互最恵国待遇や関税自主権などが規定された。
これに先立ち日本政府は、ポルトガル国王に日本の商法・刑法などをポルトガル語訳した法典を渡した。この法典と同様にポルトガルの法整備が進み次第、裁判権などの規定を行うが、それまでは日本側が優位な規定(日本内部では日本の法律が、両国の領土外で両国人が揉めた場合は日本の法律を適用するなど)が確認された。
ポルトガルに対する開港地は高雄であり、居留地も併設された。また、神戸に公使館の設置が認められ、年1回だけ神戸にポルトガル船が寄港できる規定となった。日本側はリスボンに公使館を設置することになり、初代公使として美濃出身の生駒親正が任命された。
ポルトガルの幼王セバスティアン1世に謁見した使節団一行はヨーロッパ風の洋装に身を包み、一方で全権大使の三条実教のみは和装による日本式で応対し、文化の違いを示すこととなった。使節団には日本人キリスト教徒1名が随行しており、使節団に同行していたイエズス会員バルタザール・ガーゴとともに日本におけるキリスト教布教の現状が報告された。
一方、明で布教活動をしていた宣教師による報告は、イエズス会とポルトガルを悩ませた。明で布教を試みてもマカオ以外には立ち入れず、しかもマカオで彼らと接する明の商人や役人は儒教を絶対とし、中国語を理解していなければ相手にしない場合が多かった。そのため明での布教は困難という報告が多く、明との交易も難しいのでは、という空気がポルトガル国内には流れ始めていた。
その点、日本では早期に(主に義龍周辺だが)相互の言語理解が進み、日本ではポルトガル語の翻訳辞書が作成されるまでに受容されている。お陰で交渉もしやすく、今回の条約以前から布教は制限つきとはいえ、可能な状況だった。以後、ポルトガルは日本との関係性を深めていくことになる。
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美濃国 稲葉山城
年末。
龍和を部屋に呼んだ。
「如何なされましたか、父上」
「そろそろ入道しようかと思ってな」
まだ隠居する気はないが、あまり表舞台には積極的に出ない方向に向かおうという話だ。龍和には以前から話してあったので、特別驚く様子はない。
「しかし、宗派で揉めますよ」
「そうなんだ。其れが一番の問題でな」
日蓮宗は父や祖父の代からの縁がある。天台宗は薬師如来の件で関係が深い。浄土真宗高田派とは長年の蜜月でしかもお満が堯恵殿の義妹。藤原朝臣として世話になることもある興福寺の法相宗も黙ってはいないはず。
「いっそ、キリスト教で入道なさいますか?」
「そんな概念は彼等に無いぞ」
「父上をメシアと呼ぶ者たちの前で出家の宣言だけする、とか」
「神仏混合どころか、宗教のるつぼになるな」
宗教のるつぼではなく、神様のサラダボウルか。いや、そういえばサラダボウルかもしれない。前世でも、ありとあらゆる宗教が日本には入っていて根づいていた。良い部分もあれば悪い部分もあるが、そういうお国柄なのかもしれない。
「で、名は如何なさるので?」
龍和に聞かれ、紙に書いておいたものを渡す。
「導三、で御座いますか」
「まぁ、父に倣ってな」
父は俺に道を示してくれた、と思う。だから俺は、俺の知識でこれからも人を、日本を導ける存在ではありたいと思う。
「其れと、大審院長も其の内辞める。其方と豊成に任せるところは任せねばな」
「父上に頼りすぎてはならぬ、という事ですね」
「まぁ、必要な時は何時でも出て来て助けるさ。だから、頑張れ」
「はいっ」
俺の場合、大審院長を辞めれば貴族院に戻ることになるだろう。そろそろ政党結成運動とか、そういう方向性の種をまく時期かもしれない。今進めさせている新聞社の設立準備が進んだら、そういう動きも考えていかねばならないかもしれない。
結局、やることはまだもう少しあるのだ。もう地位にこだわる必要もなくなりつつある。文字通り、国の事は信長に譲る気持ちでいきたい。大分軌道修正されたが、当初の目標を忘れたわけではない。ないのだ。
明日で本編完結です。明後日から新作投稿になりますが、まずはこの作品の最後までお付き合い頂ければ幸いです。




