第318話 九州征伐の終わり 琉球服属と対馬仕置
1人称と3人称が混ざるので、ご注意ください。
奄美諸島 奄美大島
奄美諸島攻略軍大将の安宅冬康は、5000の兵を奄美大島の古見、八重津、諸鈍、名瀬といった各地の港に上陸させた。しかも8隻のガレオン船も混じっての攻略軍である。各地の湾内を制圧した各部隊は、そのまま内陸部へと攻め込んだ。抵抗したのは琉球王国から送りこまれていた喜世大屋子らだけであり、他の大親達はそもそも何が起こったか理解できないまま、上陸・制圧された。
「い、一体これは!」
「我利爺殿ですな。某三好家臣の安宅摂津守と申す。貴殿の願い通り、此の島は本日より我等が兵が入り、琉球とは分かれる事となる」
「え、あ、え、ああ?」
「安心召されよ。直ぐに追加の兵も来て、琉球も日ノ本の一部となる」
「な、何と」
各大親は、互いに連絡もとれぬまま奄美諸島攻略軍に上陸されたため、その夜に奄美に上陸した部隊を追いだそうと極秘に使者を送りあった。そしてそのほぼ全てが捕縛されたため、その使者達が持っていた書状を証拠に大親とその一族は拘束され、豊後へと送られた。
奄美諸島はこれをもって完全に制圧され、九州情勢が沈静化した後に、約束通り島津に引き渡されることとなった。
♢♢
琉球 首里城
商人経由で奄美での一連の事態を知った琉球首脳陣の会議は紛糾していた。明に助けを求めては、という意見もあったが、明が海禁政策をとっている以上無理だろう、という結論になった。一方、ここで日本に抗議しないのも国内統制的にありえなかった。選択肢は2つ。攻めこまれるのを覚悟で抗議するか、改めて要請された京への使者を送り、従属するか。奄美で捕縛された喜世大屋子の子であり、たまたま琉球に戻っていた笠利間切大屋子は、当然ながら奄美奪還を求め、対して池城親方・国頭親方ら主要な三司官(宰相)はそれに難色を示していた。
「敵の申す五千なる兵数の真偽は分かりませぬ!それに我等とて二千は動かせるのです!勝てましょう!」
「だが奄美で勝ったとて、その後が続かぬ。我等に長く日ノ本と戦える程の力はない」
「倭寇にも協力を求めては?」
「倭寇共など何の役にも立たぬ。大砲と南蛮船を持っている敵となど戦ってはくれぬ。むしろ、自らの立場が保障されれば我等を売るぞ」
「くっ!」
この状況に密かに不満を抱いたのは、かつて奄美大島をまとめていた与湾大親の子であり、琉球で学んでいた糠中城だった。将来的に奄美を任される予定だった彼は、今回の一件で『どちらに転んでも奄美に戻れない』状況になっていた。このまま琉球にいる限り。
だから彼は、その日の夜に身内とともに琉球を脱出し、奄美へと向かった。そこで日本と合流し、日本に協力する形での奄美復帰を目指すことになった。
そして、糠中城の脱出で全てを日本の陰謀と判断した池城親方は、これ以上の日本への抵抗は不可能と判断した。全てが後手後手になっている上、琉球内部にも日本に接触している勢力があると判断してしまった。理知的だったからこそ、深読みした彼の提言を受け、琉球王・尚元王は来春京へ赴く旨を返答し、琉球は日本の勢力下に入ることとなった。
♢♢
豊後国 府内
夏の盛り。肥後の隈本城・筑後の柳川城・筑前の立花城・肥前の佐嘉城が陥落した、という報告が届いた。各城はそれぞれの地域の大友方の最後の砦となっていた城だ。特に難関だったのが柳川と立花の二城で、最後はどちらも2万以上の兵で包囲し、敵を殲滅する形になったそうだ。一方隈本城の城主だった吉弘鎮理は、北から来た織田軍を見て大友軍の崩壊を察知したらしく、降伏した。残った動ける隈本城兵は70名ほどだったそうだ。吉弘一族は、彼と彦島で捕縛された鎮信以外は全滅だ。彼等の父親の鑑理は、今回大友が朝敵になった責任をとるため、角隈石宗・吉岡宗歎・田北紹鉄とともに降伏前に自害している。
「此れでほぼ終わりだな。北九州で残った国人は、降伏した肥前の松浦・神代と筑後の黒木・田尻、それに筑前の筑紫だけか。義兄上の用意した帝の旗を、各地にいる兵に持たせて治安維持をさせておる」
「松浦は対馬の海軍に編入。神代は豊後、黒木と田尻は周防、筑紫は伊予か。旗は民の安心と共に、占領している兵に乱暴狼藉を許さぬ為の物でもあるからな」
「権六(柴田勝家)なぞ帝の旗が畏れ多すぎて、己の旗の柄を短くしておったわ」
「何だそれ」
自軍の旗の高さを常に錦の御旗が高くなるよう調整していたのか。面白いな。
「で、国人等は国替えを何と?」
「連中は其々受け入れたからな。問題ない。他の領主の末路を見れば、文句も言わぬさ」
「龍造寺は佐嘉に復帰させる。秋月は日向に土地を与えて復帰。後は当分我等の兵が此の地に残れば良い」
「で、年末からは、義兄上の言う『刀狩』か」
「宇佐八幡宮の再建と博多の復興、そして宇和島整備を名目に、先ず筑前・肥前・豊前・豊後・日向・筑後・北肥後・伊予で実施する」
「その後順次全国へ、だな。まぁ、万民が刀を持つ時代は終わるという事だな」
「正直、稲葉山や那古野辺りでは家に刀をしまいこんでいる者が多いからな。帯刀せずとも平気な場所も多いし」
「最初は其の近辺か。此処からは難しい事が多くなる」
「学校の整備も進めねばならん。課題は多いぞ」
「で、其の大部分は俺がやらねばならぬのか。厄介な」
「頑張れ信長。俺も法の整備と外国との条約案、蝦夷地と樺太方面や台湾に対する指示と、やる事が多いからな」
今後の作業分担は、内政は信長主体、外交は俺主体に近い。政治首都京都、経済首都那古野で現状の体制は考えているが、そのあたりの調整も色々と大変だ。信長よ、頑張ってくれ。
♢
九州全地域の制圧が終わった後の8月。台風が1つ通り過ぎた頃、大友宗麟への処罰―切腹が行われた。豊前・豊後に住む全ての人々が罪を負わぬ代わりに、先だって自害した宿老と宗麟が全ての罪を負う。これはそういう儀式だ。
「主文、大友宗麟入道を切腹に処す」
名目上は内乱罪、惣無事令違反、などなど。遡及処罰とならぬよう、九州征伐前に院の裁可を得て参議の了承を得たものだ。
「何か、最後に言い遺したい事はあるか」
今回の裁判を担当した裁判官が尋ねる。
「此れで真に戦が無くなるか、冥府で見届けさせて頂こう」
疲れた表情ではあるものの、九州の覇者にあと一歩まで迫った男は穏やかに、そして冷静な表情でそう言った。一応上告の意思を確認し、刑が執行された。
大友宗麟の死により、九州征伐が終了した。
♢♢
この一連の九州での合戦には、多くの大名家関係者らが観戦武官として随行していた。南部家臣北信愛や安東家臣大高主馬、蘆名家臣金上盛備など、織田の軍事力を見たことのない東北の諸将や、長宗我部家臣の依岡左京進、小田家臣の菅谷左衛門大夫のように織田・斎藤の軍事力を直接見ていない勢力の武将であった。彼らを案内していたのが毛利氏の家臣で元就の娘を正室とする宍戸隆家と、北条氏の家臣で一族の北条氏成であった。彼らは九州最後の戦である、立花城での攻防までを見届けた。そして、豊後に戻ってきていた。大高主馬と依岡左京進は互いの相性が良かったのか、この道中よく話していた。
「主馬殿」
「何かな、左京進殿」
「奥羽でも竜作様は斯様に強かったか?」
「酒田等には今も大筒と火縄銃を残しておられる」
「此れが、奥羽にも」
「織田右中将様の兵は、此の九州の兵が全てか、左京進殿?」
「いや、国許にも多く残っておる」
「何という」
「事か」
奥州仕置の時見た兵の数すら多いと感じていた大高主馬にとって、九州に投入された兵数は尋常のものではなかった。しかもガレオン船という巨大船での移動。それに準ずる大きさの安宅船による大量の兵員移動。彼らにとって、全てが規格外だった。
「天下は既に織田様と斎藤様の物、か」
「三好様は冬には剃髪なされるとか」
「院が新しい政庁の完成を喜んでおられ、九州の戦も終わるという事で、亡き御子息の菩提を弔う意味も兼ねて、とか」
「北条も関八州(上野・下野・常陸・上総・下総・安房・武蔵・相模)と伊豆を治めると言っても、織田と斎藤の豊かさには到底及ばぬ」
長宗我部家臣の依岡左京進は、昨冬から京、稲葉山、那古野を経由して東海道から関東、北陸を一周する形で視察を行っていた。東北諸将と小田の将は小田原に集まり、そこから東海道経由で那古野・稲葉山・京を巡っている。東北の将はこれまで北陸道を移動する機会が多かったためである。
「夜に火を点けずとも灯りが点るのは、今も良く分かりませぬ」
「稲葉山や那古野の民は皆色鮮やかな衣を複数持っていると聞いて驚いたな」
「綿と羽の布団は寝心地が良かった。帰りには殿への土産として持って帰りたい。土崎の冬は寒い故」
「某は美濃で良い絹布を沢山買いました。孫にも良いかと考えましてな」
「土佐は堺への船着き場として栄えておりますから、羨ましい限り」
視察の時点でも経済力の差はでる。東北諸将は決して潤沢な資金があるわけではないので、土産も厳選しようと考えていた。
「戦の時代は終わりですな」
「武士の役目は未だある、と右中将様は申されておりましたが。さてさて」
なお、彼ら全員は帰る前に織田・斎藤・三好から一家500貫相当の土産を受け取ることになるのだが、今はそれを知らない。
♢♢
対馬宗氏の当主・宗刑部少輔義調が府内にやってきた。松浦氏の人質たち(松浦氏も村上水軍のように複数いる)と当主の移送を兼ねた形で、今後の話をするためだった。
「竜作様には父・晴康の頃より御厚情賜り、右中将様にも此の度御会い出来た事、真に有り難き幸せに御座いまする」
「顔を上げよ刑部。此度の任、御苦労であった」
「ははっ。其れと、本日はお願いしたき儀が御座いまして」
事前に話のなかったことだが、ひとまず聞くかどうか信長に確認する。信長は話だけ聞いてもいい、という態度だった。恐らく封土のことか。
「実は某、跡継ぎに恵まれず未だ嫡子がおりませぬ。斯様な状態を一刻でも早く解消致したく、右中将様や竜作様に是非我が跡を継ぐ者を斡旋して頂きたく御願い申し上げる次第に御座いまする」
頭を下げながらそう言った宗義調にはやられた、としか言いようがない。彼の弟は子だくさんで知られており、その中の誰かが跡を継ぐ方向で話が進んでいると聞いていたからだ。
「我が弟の娘が嫁ぎますので、家中も御二人の勧めであれば是非にと纏まっております」
「そう、か」
これで俺や信長、義兄・長慶の血縁でも送りこめば対馬を安定的に支配できる。だが、同時に対馬には宗氏のネットワークが残る。俺たちの血縁でない人間を送るなら、移封先に縁のある人間を送れば現地で宗氏が馴染むきっかけになる。この場合も宗氏は新領地で根づきやすく、反発も少なくすんで一族は安泰だ。逆に、この2種類の関係以外を嫁がせるなら宗氏への対応が少々厳しすぎるものとなる。立地上大友に従っていただけで、元々うちに従っていたも同然の家なのだ。話を聞いた時点で俺たちの負けだったと言っていい。ただし、もし話を聞かずに対応していたら、それはそれでちょっと器の小さい扱いになりかねなかった。流石は朝鮮と日本の間で生き抜いてきただけある。強かだった。
「となると、宗氏には事前に伝えていた新しい地に縁のある者が良かろうな」
「おおっ、其れは何よりに御座いまする」
宗氏の移封先は伊予南部だ。5万石相当だからかなり優遇している筈である。
直接回答はせず、ひとまず預かる形でこの話を終える。求めていた移封については、俺たちが対朝鮮外交の原則とした「帝を皇帝と認める事」の一点で無理だと考えているらしい。まぁ中華皇帝の存在がある以上、彼らもそれが難しいのだろう。だが、この条件で各国と条約を締結すると既に決めたのだ。締結出来なければ、没交渉になるのみである。
♢
後日、宗義調の跡継ぎとして、元一条氏家臣で伊予国・御荘領主だった勧修寺定顕の嫡男が婿入りすると決まった。他に一条氏の旧家臣で若く働き盛りの者もこちらに合流した。南伊予だけでなく土佐西部も今回の件で落ち着きを戻しそうだ。勧修寺氏は公家の家系ではなく元々は比叡山の僧が還俗した一族であり、現在も比叡山との繋がりが強い。そちら方面からもお願いされての処置だった。宗氏と過半数の家臣は伊予移住を決め、土着している一部が残る形で対馬は引き渡されることとなった。
比叡山は今回全面的に俺に協力してくれた。高良山も比叡山系の天台宗ということで、早期に反大友で龍造寺を支援し、島津領までの龍造寺一族の撤退などを支援してくれていた。北九州全体の情報がスムーズに俺たちに集まったのもこのおかげだったし、大友もこれ等の事に対処したかっただろうが人手不足で野放しだった。事前に情報関連など一部除いて大きく動かないよう天台宗側に伝えていたのは、俺があまり寺院に活躍させたくなかったからだが、結果的に高良山は戦火を避けたい人々の恰好の避難場所にもなった。権威は高まったはずだ。
九州征伐はこれで終わりです。実は作中の情報量が多かったのは天台宗を押さえているためだったというお話。基本的に今後のための布石を打っている状況です。刀狩については第一段階であり、最終的な目標は廃刀令になるかと思います。
宗氏は強かです。秀吉も家康もある意味完全にコントロールできなかった家です。




