第311話 九州征伐 その6 瓦解する戦線と折れぬ雷神
前半が3人称です。
豊前国 小倉城
小倉の大友前線基地となるために建てられた小倉城は、城と言いつつも石造りの平屋建物しか存在しない。その分地下が充実し、評定も地下室で行われていた。
「既に七か所用意した大筒の陣は残り一つのみに御座います」
「回収した大筒の内、まだ使える程度の物は四つ程で、残りは敵の大筒に壊されたか、何発もの発射に耐えられず壊れておりまする」
家臣の報告に、戸次鑑連は口ひげを撫でながら無言で頷いた。
「敵の火薬の使い方は?」
「変わりませぬ。昼も夜もなく延々と大筒を使っております」
「となると、北から硝石を仕入れているか、或いは日ノ本でも硝石が採れたか」
「花城親方が言うには、硝石は明の乾いた地でしか採れぬと申していたが」
「琉球の者が言うのもそうだが、明の者が申すのが正しいかどうかもわからぬ」
「何より、敵にはあの斎藤中納言がいる」
その言葉に、戸次鑑連が口を開く。
「碁で負けたら将棋で勝て」
「殿?」
「少なくとも、戦で負ける相手ではない。医に知に負けども武で勝てば良い」
卑屈になろうとしたり、相手を強く見ようとし過ぎる空気を察知したための一言だった。ただし、鑑連は同時に『まず戦になっていない状況』も正確に理解していた。
「如何にして我等が戦える様にするか。此れのみを考えよ。槍と槍で、弓と弓で戦えれば勝てる。儂が勝たせる」
「お、おお!」
「確かに大筒の戦で、我等はほぼ敗れた。然れども敵は未だ小倉にも門司にも入れてはおらぬ。次の最善は敵を豊前に入れぬ事。出来得るなら、如何に小倉と門司で敵と戦うか」
実際、この至近距離にある本州からの上陸を二週間近く阻止できているのは、間違いなくこの2年で整備した防衛線による成果だった。これが例えば斎藤方に大友と同程度の大砲しかなく、気球もない状況だったならば、この防衛線の為に斎藤軍はこの状況に持ちこむまでに3か月はかかっていた。
「敢えて湊の中で戦いまするか」
「ほう、申せ美作(由布惟信)」
「湊も恐らく大筒にやられましょうが、此処の一部に兵を潜め、町の遮蔽物を利用して敵兵と戦うのです」
「悪くはない。だが、大筒で町が均されれば犬死ぞ」
「戦の後を考えているであろう中納言は、町を壊さぬのでは、と」
「ふむ、一考の余地はある」
斎藤義龍という人物を大友家臣は断片的な情報でしか知らない。以前博多に来た時は大内との付き合いのみであり、大友との接触はほぼなかったからだ。しかも今から20年近く前の話。それ以後の畿内での動きなどは、当然伝聞でしか手に入らない。だがその断片情報でも、彼が民を慈しみ、商業を促進する姿勢なのがわかる。そんな斎藤義龍が、戦後人が戻ってくる町を壊そうとするか。由布惟信はそう考えたのである。
「ただ、其れも敵が町の中に来ればの話。既に町衆を避難させている故、果たして敵が町中に来るか」
「となると、町に誘き寄せまするか?」
「いや、湊の船着き場に船が繋がれてから攻めるのが良かろう。船を降りて間もない敵を狙う。定石通りだが、町に潜ませて奇襲する」
「では、言い出した某が」
「任せる」
上陸の水際阻止。戦場で最も地の利が生かせる場であり、ここを上回る『勝てる可能性』がある場所はない。全体を統括する角隈石宗も、大友が上陸阻止戦で一度勝利し、然る後に和睦する事を戦略上の狙いとしている。ここで彼らが粘り勝ちする意義は大きい。何より、戸次鑑連という大友氏最高の武将を配置しているのだ。絶対に負けられない戦いがここにはあった。
しかし、既に戦局の趨勢は、この時点では決まっていた。この評定と同日、織田信長は豊後・日向の6か所に計8万の軍勢を送り、そのうち日向の佐土原に向かった森可成・河尻秀隆らが上陸に成功。別地点上陸を担当していた柴田勝家・前田利家らも佐土原へ合流し、日向に4万の軍勢が上陸を果たしていた。大友宗麟は丹羽長秀・佐々成経・滝川一益・松平信康の率いた軍勢の豊後への上陸は阻止したものの、南部から豊後へ一気に攻め込まれるようになったのだった。
♢♢
豊前国 小倉
彦島から砲撃を続ける。既にこちらが把握している砲台は全て沈黙した。小倉に新設された城から敵が出撃する様子は昼に限ってはない。夜も定期的に気球で調べている限り動きといえる動きはない。十兵衛だけでなく日根野兄弟なども集めて、上陸作戦の詳細を確認していく。
「そろそろか」
「上陸致しましょう。西の山鹿にも見せ札に兵を送ります」
「其方は毛利に任せよう。毛利が上陸しようとすれば無視は出来ない筈」
「では、其の様に伝えます」
信長から日向に上陸したと連絡がきた。4万が上陸し、5000の事前上陸組と合流したそうだ。早速伊東氏の城を包囲し始めているらしく、今後追加で3万を上陸させるという。ある意味日向方面の勝敗は決したといっていい。
「島津も沖田畷で有馬勢を破ったそうだ」
「天草を奪い返し、相良を破った後、阿蘇を支援するのでなく肥前に攻め込んだのですか」
「肥後攻めでは阿蘇の手柄になりかねんと見越してか。或いは有馬らの連合軍を破って力を示す為か」
天草で有馬に勝利した後、日之江城での攻防に辛勝した島津軍は阿蘇の支援を相良に任せて島原半島を北上した。その途中の沖田畷で、有馬・後藤・少弐の連合軍との2度目の決戦に島津は勝利した。この戦の結果有馬氏は降伏し、少弐氏は当主が討死してしまったので、島原半島は島津が掌握した。大村は諫早周辺を固めつつ、織田に降伏する旨を島津に連絡しているらしい。一方、相良氏は甲斐宗運に援軍1000を送ったそうだが、彼らは隈本城を緩く包囲するのみで殆ど戦ってはいないらしい。島津の援護がない限り隈本城を攻めないつもりらしいが、そんなに隈本城に敵兵がいるのだろうか。
「では、明日」
「はっ。万全を期しまする」
「きちんと寝ろよ」
「其れは普段の殿に申し上げたき儀にて」
そうかもしれない。前世ほど酷くないが、結局この20年以上働きっぱなしだった気がする。
「今頃相手も浮足立っているだろう。此処で一気に戦線を食い破る」
「小倉上陸は御任せを」
「頼むぞ、弥次右衛門(日根野盛就)。門司攻めは次郎左衛門(大沢正秀)が先鋒を務めよ」
「はっ」
「既に大友の命運は尽きた。だからこそ、此方にいる大友の者共にも時代の変わり目を確と見せねばならぬ」
「「応」」
さぁ、決戦だ、雷神。
上陸地点が多ければ多いほど守る側は予測が難しく、対応する場所も増えるので大変になります。織田はそれを生かして守りの薄い日向中央部に上陸を成功させました。
一方、上陸地点が限られる小倉戦線はそれでも大友にとって大変な場所であることに変わりません。大軍に大砲、空からの支援など、大友にとって技術差と経済力差が明確に上陸戦の有利を潰しているのです。




