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第226話 変わり目

1話まるごと武田大膳大夫晴信のお話です。三人称になります。

 甲斐国 躑躅が崎館


 細川晴元の遺児と畠山尚誠、そして朝倉景鏡らが到着した日は、辛うじて武田大膳大夫晴信の次男が命を長らえた日であった。

 そのため彼らに対し、機嫌のよかった晴信は即時拘束・即時通報しての引き渡しではなく、拘束した状態での面会を決めるのだった。

 当然だが畠山尚誠らは生き延びられるという景鏡の言葉が嘘だったのかと恨みを抱き、そして景鏡は拘束されてもなお命の危険までを感じない自分の状況をある意味不思議に感じていた。


「で、細川の者は?」

「彼の者は年端もいかぬ少年に御座いまする」

「話が出来そうなのは?」

「恐らく朝倉の者かと」

「では朝倉と話すとするか」


 晴信がこう判断したのも間違いではない。自分たちが絶対的に優位な状況だ。何か聞くに値する情報があるならそれも良し。何もないならないで斎藤か織田に突き出せば相応に対価は得られるだろうからそれもまた良しだ。


「とは言え、今宵は家臣共が快癒の宴中。明日に会えば良かろう。逃げる事もどうせ出来ぬ」

「ははっ」


 こうして翌日会うことを決めた晴信は、家臣や国人たちの待つ部屋に向かうのだった。



 晴信が部屋に入った時、部下である領主の大半は一礼するだけでまた酒に夢中になっていた。織田や斎藤からもたらされる酒に彼らは舌鼓を打ち、北条や織田から買った安い米と塩の料理を味わい、最近少しだけ出回り始めた醤油の料理を我先と奪い合っていた。


(怠惰だ。牙が抜かれている)


 晴信は息子が助かった嬉しさも忘れて眉をひそめた。奪わねば皆が満足に食えない甲斐という貧しい土地。それが武田の精鋭を生み出してきた。己を食わせてくれない当主なら追い出すだけの気概があった甲斐の領主たち。それが今、安い食料と新しい味を得て闘争性を失いつつあった。


(此のまま強さを失えば、我等は、武田は、甲斐は如何なるか)


 強さがあるから武田は生きている。北条と織田と斎藤にとって、武田は強い壁だ。だからこそ、壁の維持に金を払っているつもりで安い米や塩を売ってくれている。しかし、武田が弱くなればそれもどうなるか。そもそも、上杉という敵がいなくなれば、壁が不要になればどうなるか。


(何か生き残る術を見つけねば、我等は不要の存在となる)


 目の前で酒を美味い美味いと飲む者たちは、そこまで考えていない。先日の大戦で小笠原・村上・海野・高梨・長野の連合軍を破ったが、その時失われた精鋭は当分取り戻せない。


(武田が生き残るには、武田だけが出来る事を見出すか、武田を必要とされる様にするか)


 晴信は表面上彼らと談笑しつつ、そうした焦りを忘れることは出来なかった。


 ♢♢


 翌日の朝、晴信は相変わらずの酒豪たちに対し可能な限り自分が飲まないことで二日酔いを回避していた。クリアな思考を維持することを重視する晴信は、朝倉景鏡との会談でも酒で頭が鈍る事を恐れていた。

 準備をし、いよいよ拘束していた景鏡に会おうかというタイミングで、彼の元にある人物が接触を求めてきた。

 そして、その会談が全ての変わり目だった。


「何故今貴殿が話に来た、村上の」

「そろそろ終わりとせぬか、大膳大夫」


 やって来たのは村上周防守義清の家臣の1人屋代(やしろ)正国だった。既に嫡男の屋代基綱に当主を譲っており、自身がここで討たれることも覚悟しての来訪だった。


「何が言いたい?」

「公方様無き今、織田や三好、斎藤が如何いう思いを武田に持ちますかな?」

「……」

「今は我等と揉めぬ様にと武田も頼られていましょう。然れども次、上杉を織田等が討つとなれば武田は如何なりましょうや。信濃の先鋒を任され、信濃一国は得られましょう。其れが望みならば我等も致し方無し。越後は織田の物か、斎藤の物か。上野は北条ですかな。何れにせよ武田が其れ以降大きくなる術は御座らんな」

「……」

「海は手に入らず、主な陸路も無く。武田の領内は発展出来ますかな?」


 晴信は当然だがそんなことを言われなくてもわかっている。だが、わかっているからこそ何も言い返せない。


「美濃や尾張は凄まじい発展を遂げているとか」

「……」

「我等につけば、駿河も遠江も差し上げましょうに」

「御帰り願おう」


 晴信はそう言うと立ち上がった。


「又御伺い致しましょう」


 屋代はそう言うと、堂々とした態度で帰って行った。

 憂鬱な気持ちになりながら、晴信は朝倉景鏡のもとに向かうことにした。


 ♢♢


 朝倉景鏡は檻ごしに1通の手紙を差し出した。近習の三枝さいぐさ昌貞が受け取り、問題ないと見て晴信に渡す。


「成程。そういう事か」

「殺すには惜しいと思いませぬか?」

「思わぬな」


 景鏡は思わず舌打ちする。晴信は本心から殺すことを躊躇わない人間だからだ。しかし一方で、今殺す気はないことも十分理解していた。


「上杉と武田、組めば織田や斎藤相手でも勝てると思いますが?」

「織田との戦、我等が最も前に立たねばならぬ事を其方は分かっておるのか?」

「上杉は武田が味方と成れば北条を追い詰める事、十分可能でしょう」


 晴信は景鏡の言っていることも分かっている。だからこそ。


「仮にも織田と北条は安く米と塩を長く売ってきておる。其れを上杉がしてくれるかは分からぬ」


 寝返らせておきながら、時間稼ぎの捨て駒にされる可能性もある。晴信ならそうする。だから彼には決断できない。


「書状は預からせて貰おう」

「どうぞどうぞ。上手く上杉と話をして下され」


 晴信が部屋を去ると、景鏡は安心するように大きく息を吐いた。当分生き残れることを確信しつつ、床にごろんと転がった。

 数日ぶりに命の危険を感じずに寝られることに感謝しつつ、彼は大きな欠伸をして目を閉じるのだった。

結構キーとなる立ち位置になっている武田。裏切るなら今しかないのを武田もわかっていますが、そう簡単に踏み切れるほど織田や斎藤の実力を理解していないわけではありません。

彼の苦悩はもう少し続くことになります。

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