第174話 宮内卿最後の教え(上)
最初以外三人称です。
越前国 府中城
越前の国人や朝倉氏の面々が揃った。
「では、此度の仕置を殿より頂く」
十兵衛の言葉で九頭竜川以南の処分が行われる。まずは朝倉本家。朝倉龍景の下敦賀郡司家が合併し、一乗谷で石高でいえば20000石相当。人口はもっと多い地域が与えられる。食料不足と知行不足を戦さ場と産業面で支えないといけない。
そして大野の朝倉氏。以前保護した亡き朝倉景高の遺児朝倉龍重の下に、先日降伏した前波一族と富田一族を配した家だ。大野城を与え、本家のライバルとして残す。当面の敵である加賀本願寺と別に、朝倉本家の目を向ける相手でもある。
真柄氏や赤座氏、溝江氏はうちの直属国人とし、地侍などからも一定の石高を取り上げて終わりとした。空いた福井・敦賀を斎藤直轄とし、府中を日根野に与えた。といっても日根野は九頭竜川へ援軍に行っているので、細かい論功は後回しだが。
朝倉家臣にも不満は出たが、そもそもこのまま滅びを待つ状況だった中で辛うじて許されたという感覚が強い者が多かったらしい。宗滴に生かされたという意識の人間もいて、大きな問題にはならなかった。
とはいえ前世の毛利は関ヶ原の減封に対してずっと恨みを持っていたなんて話を幕末史の話で高校の先生がしていた。多少なりともフォローは必要かもしれない。
そして、これらの処理の最中、本願寺との戦が始まったと連絡が入った。
♢♢
越前国 九頭竜川沿岸
平井宮内卿は九頭竜川沿いの18ヶ所の砦に各500の兵を入れ、各砦に火縄銃120を配備した。そして6ヶ所ごとに予備兵500を用意して負傷兵との入れ替えを可能とし、自身は5000を率いて敵兵が集中する地域への支援が可能な体制を作り上げた。このシステムは十兵衛と共に義龍が対本願寺を見据えて計画を立てていたもので、安定した迎撃が可能となる予定だった。
実際、各砦にバラバラに攻めかかった本願寺勢は各所で火縄銃の洗礼を浴び、攻撃開始から3日間で8000の死傷者を出した。情報が本願寺側に集まる前に、各地が突撃しては火縄銃で崩された形である。更に、一部の地域では平井宮内卿の直属部隊によって追撃も行われ、本願寺の坊官にも犠牲者が出る状況だった。
この状況に全軍の総大将本願寺坊官下間頼言と副将国人代表窪田経忠は一計を案じた。窪田経忠と一軍を率いる杉浦玄任がそれぞれ15000を率いて集中的に2つの砦を襲い、残りの九頭竜川北岸の7つを各3000で囲んだのだ。
そして平井宮内卿の軍勢が現れたら撤退しまた別の砦を大軍で襲うことで、時間経過で各砦を追い込みつつ大軍を常に平井宮内卿に追いかけさせて消耗させようと目論んだのである。
「狙いが分かり易過ぎるの。付き合うだけ無駄よ」
宮内卿はこれに付き合わない。窪田の軍勢が宮内卿の軍勢の接近で撤退を始めると騎馬武者を先行させ、寄せ集めの国人の群れで連携が出来ていないことを把握した上でのことだった。猛然と襲いかかる騎馬武者に国人達は迎撃のため立ち止まる者、逃げ出す者、自らの領民を救うため他の国人の兵をどかそうとする者などに分かれた。本願寺側のように意思疎通しているわけではなく、窪田もあくまで代表というだけで指揮命令系統が統一されたわけでもなかった。そのため中途半端に抵抗した兵が次々と討たれ、軍勢としては早々に機能不全に陥っていった。農民主体の本願寺兵としても頼りにしていた国人の武力があっという間に瓦解したことで、彼らの計画は出鼻をくじかれた形となった。特に先陣を務めた日根野兄弟は府中を兄が、燧周辺を弟が管理することがほぼ決まっており、自分の領地まで影響が出ては困ると奮戦した。
大軍に攻められた砦についても、宮内卿は早々に手を打っていた。1日目の攻撃を耐えたところで敵軍へ夜襲を敢行。夜襲部隊1000を率いる芳賀兄弟は火縄銃も利用して巧みに本願寺側の睡眠を妨害し、砦兵は一部を除き耳栓を用いて休息をとった。そして翌朝には彼らに宮内卿の情報がもたらされた。
ここで本願寺内部は意見が割れた。窪田率いる国人は15000しかおらず、実際は今も60000の兵がいることから攻勢を続けるべきという人間と、一旦立て直してから再度攻めるべきという人間である。現状彼らは優位に進めているものの、いつ斎藤の本隊が来るか分からない現状では安全策をとりたい人間と強攻策で防衛線を破りたい人間が存在するのは仕方なかったといえる。
そうして緩慢に砦を攻めながら内部で揉めていると、宮内卿率いる5000の続報が本願寺にもたらされた。曰く、追撃によって宮内卿の軍勢は本陣に接近中で、このままだと本陣が戦闘になる、というものだった。
本陣には総大将下間頼言の20000の部隊がいるため、そうそう簡単に負けるわけがなかったのだが、前日に15000が敗れていたために彼らは『万が一』を考えてしまった。
「杉浦、我等は本陣を守るために戻るべきでは無いか?」
「しかし、砦攻めを疎かにしては」
「現時点で敵軍の総指揮を執っているのは宮内卿だ。宮内卿さえ討てば砦など士気が落ちて逃げ出すであろうよ。」
「そう上手く行かぬのが斎藤との戦なのだが」
杉浦玄任は結局自身の率いるうち5000と周辺砦3か所を攻めていた5000を本陣へ戻した。これでも本来ならば優勢だったのだが、手薄になった砦の1つ森田砦が火縄銃による牽制から遠巻きとなった本願寺勢に対し開門して攻勢に出た。
「伝令!森田砦から敵が出て来ました!」
「杉浦!聞いたか!今こそ森田の砦を落とす時ぞ!」
「待て、本覚寺の!此れは不味い!」
九頭竜川を使って斎藤軍は相互に連携をとって守っている。これを防ぐ手段を持っていない本願寺勢はどうしても1手遅れるのだが、今回だけはなぜか1つの砦だけが突出した。この意味が分からない程杉浦玄任という若武者は未熟ではなかった。
しかし、杉浦玄任の言葉に一部の坊官は耳を貸さず、農兵を引き連れて城に向かった。10000の兵から更に2000あまりが離脱する。
「斯くなる上は撤退だ。我等は今数の優位を失いつつある!」
「しかし、目の前の砦を攻めている信徒達は」
「捨て置け!此処まで纏まらぬのなら最初から本陣に全軍で逃げるべきだったわ!」
彼がそう叫んだその時、突出して森田砦に向かった兵が向かった方向から斎藤の旗印を掲げた兵と織田の旗印を掲げた兵が現れた。その数7000。その実態は今まで戦場に出てこないで後方で待機していた織田兵と夜襲を行った芳賀の兵、そして宮内卿の部隊の一部と九頭竜川南岸の砦をほぼ空にして抽出された兵だった。しかし、そのような情報は本願寺にはない。
「織田の、援軍が、来たというのか」
絞り出すように杉浦玄任が呟く。やって来た方角から、彼には森田砦に向かった兵が壊滅したであろうことは容易に想像できた。ほぼ同数の敵と戦うには本願寺の兵は訓練というものがされていなさすぎた。
「撤退!予定とは違うが本陣も今如何為っているか分からぬ故、敵の居ない方角へ逃げよ!」
彼の判断は素早く、最も犠牲を減らす方法となった。
しかし、周辺で砦攻めを行っていた者達を見捨てる戦い方でもあった。
宮内卿本人はこの軍勢にいなかったものの、この軍勢は各砦を攻めていた兵を順番に圧倒的多数で潰していった。
夜。宮内卿はその日の経過報告を受けると、こう呟いた。
「大軍と無理に一か所で戦う必要は無し。相手を細かく分ける様誘導し、此方が勝てる状況で只管敵を討てば寡兵でも大軍に勝つ。教えた基本ぞ、十兵衛。」
本願寺、平井宮内卿に翻弄される。
本願寺の農兵は訓練をうけた兵ではないので、基本的に指揮命令系統というものが確立しているものではありません。信長との戦でも結局は雜賀などの傭兵を軸に勝機を探り大軍で「進む、戻る」だけを命じて織田を押し潰していただけとも言えます(それだけではない部隊もいたでしょうが、数が多くなればなるほどおおざっぱにならざるをえません)。
九頭竜川で宗滴が本願寺と戦った時も大軍同士が正面からぶつかったわけではありません。砦の防衛計画の基本も砦という有利な地形を利用し敵に火縄銃で被害を強いる。そして疲弊した敵を叩くというシンプルなものを補強しているにすぎないのです。




