第170話 小谷決戦(下)
途中と最後、♢♢で三人称になります。
近江国 小谷城
小谷城には浅井左兵衛尉久政が逃げ込んだ。どうやら主だった朝倉兵は宗滴本拠の敦賀に近い近江東野山城に逃げ込んだらしい。しかし戦場から引きずるように逃がされた久政は小谷城から逃げるのは良しとしなかったらしく、元々逃げていた正室と子供達がいなくなった城に入ったらしい。小谷を死に場所とするのだろうか。
翌日から射程距離に入った大砲で少しずつ建物を破壊し、城壁を崩していく。信長曰くこの城は破却して新しい城を琵琶湖沿岸に造る予定らしいので遠慮せず練習の的にする。歴史的建造物になれる素養がある建物だが、残しておけば野盗や浅井残党の拠点になるかもしれないのだ。手加減はできない。砲撃してみてわかったが、織田軍が以前の城攻めで放火したこともあって木造の建物はあまり残っていなかった。城壁は漆喰で固められ、大砲で穴が空く程度だが一応補強されていた。
大砲で建造物がなくなると、織田軍の兵によって周辺の郭が続々と制圧されていく。そして報告される敵将の討死。百々盛実や三田村国定が死に、片桐直貞が織田軍に降伏する。既に浅井は風前の灯火だ。
本丸のある郭に続く城門には赤尾清綱が立ち塞がったそうだが、うちの大砲部隊の前では武士の仁王立ちとか精兵の死守とかは無意味だった。アウトレンジからの一方的な砲撃に対し突撃を敢行した彼らは織田軍の柴田権六に討たれたそうだ。天晴れな最期と織田の兵は先に死んだ海北綱親共々絶賛していたが、俺としては降伏し生きていく道を選んでほしかったところだ。
そして、赤尾の死と共に日没を迎えた。城攻めから2日。大砲も各15発ほど発射できる強度だったのに満足し、郭からの奇襲に備える織田兵を残して撤収した。大砲を下ろすのには時間がかかったが、万一奪われたら大変なのでそこは仕方ないだろう。
♢♢
夜。本丸で浅井左兵衛尉久政が僅かな家臣と共にいた。城内に残っていた女性は彼の生母・浅井千代鶴とその傍仕えの女性3人のみだった。そして彼女たちと残った重臣たちは酒宴に興じていた。
「母上、どうぞ一献」
「まさか息子に酒を勧められる日が来ようとは」
まるで連日の戦など夢だったかのように彼らは踊り、歌い、笑う。その宴は先に死んだ仲間と、これから死にゆく自分たちへの餞である。ここに残ったのは老いた浅井の功臣のみ。若い将は皆既に脱出している。
「殿、飲み足りませぬぞ!ささっ、一献」
「舅殿」
「安心召されよ。殿の子は必ずや再び此の地に浅井の旗を掲げる様に為りましょう。」
「そうよな。きっとそうよな」
「では殿。猿夜叉の未来に」
「うむ。我が子の栄光に」
御猪口を同じ高さまで掲げ、2人は同時に酒を味わう。
自分が浅井当主として死ぬこと。自らの子が浅井の次を担う事。それだけが彼にとっての救いだった。
♢♢
翌朝。
織田軍の総攻撃が始まった。敵はわずかに本丸と付随する小さな郭を残すのみだったためか、早々に本丸には火が放たれた。
左兵衛尉久政正室の父にあたる井口経元らが最期の突撃を行い織田軍に多数の負傷者を出した。しかし100に満たない人数しかいなかった彼らはやがて1人、また1人と倒れていった。井口経元も1刻(約2時間)ほどで複数の長槍に貫かれ、血の海に沈んだ。
炎によって崩れ行く本丸はついに崩壊した。そして残った郭からも煙が起ち上る。
「左兵衛尉は何処だ?」
「本丸と共に死したかと」
「俺はそうは思わないな」
ここは違う。初めて会った鎌刃城での和議の時に感じた久政という男の雰囲気は、こんな威風堂々とした建物を死に場所に選ぶような人間ではなかった。もっと陰気で、静かな場所だ。そう、あの小さな郭の様な。
「彼の郭を調べよ」
「しかし、火が付き始めて居りますれば」
「左兵衛尉は恐らく彼の郭だ。本丸には居ない」
「御意」
織田の兵が必死に本丸の消火を進めていて、信長たちが何処にいるか分からない状況だ。多少勝手に動いても許されるだろう。
郭は静かで、ゆったりと煙が立ち込める状態だった。周辺を馬廻りに固められ集団で近付くと、建物のやや入口奥に妙齢の女性が2人血を流しながら倒れていた。
「最後まで残っていた女性は居たのか?」
「恐らく、左兵衛尉の生母である千代鶴が」
「とすると、此の2人は其の傍仕えか」
やはりここで当たりのようだ。煙で徐々に見えなくなる女性2人の遺体に手を合わせ、俺達は建物をぐるりと1周することにした。部下には煙を吸わないよう命じ、少し建物から離れつつ移動していく。
本丸との渡り廊下が炎ではない別の何かで寸断されているのを見て、俺はほぼ確信する。
そのまま裏手に回ると、鬱蒼と茂る森の中にこの郭があることに気付く。
「逃げたのでしょうか?」
「いや、無いな」
そもそも逃げる気なら小谷城下での合戦後に逃げれば良かったのだ。逃げていない時点で死に場所をここと定めたはずだ。
注意深く観察しながら様子を探っていると、建物の小窓がふいに開いて煙がそこから吹き出す様に出た。そしてその先には、
「左兵衛尉殿」
「美濃守か。久しいな」
目元があの頃から随分と変わった、この城の主の姿があった。
♢
土塀は燃えないのだろう。思った以上に炎は大きくない様だった。格子つきの小窓からは、陰のある目元が特徴的な瞳が俺を見ていた。
「大筒に彼の面妖な焙烙玉、潤沢な兵と米。最期まで、欲しかった物を其方だけが手に入れ続けて居たな。」
「……降らぬのか?」
「生き恥は晒さぬ。浅井として生き、浅井として死ぬ。其れだけだ」
「何故此の郭で?」
「父上から頂いた、最初の我が居場所だ」
彼は抑揚のほとんどない声でそう言って、小窓を離れた。時折咳き込む音が2つ聞こえた。母親と共にいるのだろうか。なんとなくだが、追いかけてはいけない気がした。それでも救えるなら救いたいという思いがあったが、小窓を開けた事で空気の巡りが良くなったのか、火の勢いが増していくばかりだった。
伝令に出した兵と共に信長が郭に着いた頃には、本丸は屋根が崩れ落ちこちらの郭も完全に火にのみこまれていた。
「義兄上」
「あぁ。此処が思い出の場所だそうだ」
「会ったのか」
「彼処の小窓からな」
指さした小窓は既に煙を大量に吐き出し、中の様子をうかがい知ることは出来なくなっていた。
「で、あるか」
そう呟くと、信長はじっと建物を眺めていた。
「何故、降らなかったのだろうな」
「六角を通して何度も和睦の使者は送って居たのだ。だが今なら分かる気がするぞ、義兄上。」
「ふむ、何故だ?」
「小谷城だけは我等は欲しかった。左兵衛尉は小谷城だけは失いたくなかった。だからであろう。」
浅井の当主として、どこまで攻められても彼には手放せなかったという事だろう。自分が養子であるために、小谷城の城主という部分に命を懸けるだけのこだわりがあったのかもしれない。
そんなことを、信長と炎を見ながら考えていた。
鎮火した後、本丸からは遺体が出てこなかった。
代わりに、左兵衛尉久政のいた建物から7人の遺体が発見された。その1人は身に着けていた鎧から左兵衛尉久政と見られ、すぐ側で亡くなっていたやや背の低い遺体は母親の浅井千代鶴と思われた。
この日、戦国大名としての浅井氏は滅亡した。
♢♢
近江国 東野山城
その報せは、ある意味予見されたものだった。
「浅井左兵衛尉様、小谷城と共に」
「死んだ、か」
朝倉宗滴は、数秒だけ目を閉じた。そして目を開くとポツリと呟く。
「彼の男は異常な程小谷城に拘って居たな」
「で、如何いたしましょうか?」
「若狭に全力で動いて貰う他在るまい。最悪、長崎城を本願寺に渡してでも斎藤を引き付けて貰うか。」
浅井領がほぼ失われたのは痛かったが、敦賀まではまだいくつもの城がある。それらを利用して守りつつ、若狭との連携と尼子の動きによって事態を打開する他に手はないと宗滴は考えていた。
「他力本願というのも耄碌の証だがな」
「しかし、若殿との連絡が途絶えがちになったのは困りますな」
家臣たちと浅井派に残った国人たちを纏めつつ、宗滴は寝る間も惜しんで防衛線を構築していた。小谷城が落ちたことで織田が手にした地域を彼らが支配するために動きを止める今のうちにその作業を終わらせなければならなかったためである。
「砦の中には亮政の時代に落とされ、其の儘放置された物も在りました。」
「最低限使える様に成れば十分だ。此の東野山を中心に隘路を使って守るのだからな。」
近江から越前へ向かう道は道幅も狭く、山岳を通る深坂越や愛発越を通らなければならない。そのため守りやすい地形となっており、その出入口を抑える東野山城で防衛すれば敦賀は守れると宗滴は考えていた。
しかし、東野山周辺でも小谷城陥落の報によって裏切る者が続出し、思うように防衛線が構築できない日々に朝倉兵は苛立ちを隠せずにいた。宗滴だからこそ防衛のための準備が予定に近い状況となりつつあったが、本来裏切り者が出なければ既に準備万端で織田斎藤連合軍を迎えられていたという思いを彼らは持っていた。
そんな日和見な国人と朝倉との温度差の中、織田斎藤連合軍は小谷城陥落から1か月で東野山城周辺に迫った。尼子が但馬に攻め込んだことを知っていた彼らは、早く越前と若狭を抑えようとその動きを加速させていた。
「敵先陣は?」
「阿閉貞征ですな。浅井に世話に成った男の癖に、恥晒しめ!」
元浅井家臣が悪態をつく中、宗滴は心を落ち着けつつ立ち上がり迎撃を命じようとした。
しかし、その直後。
「ぐぅ!」
胸を締め付けるような痛みが、彼を襲った。
右膝から崩れ落ち、右肩から地面に震えながら着地した。戦場では決して膝をつかなかった老齢の柱が、倒れた。
「「金吾様!」」
慌てて諸将が駆け寄るが、あっという間に声すら発せぬ状態となった宗滴に一気にその場の人々が浮足立つ。
「い、医師は居らぬか!」
「薬を!美濃守の物でも良い!金吾様が助かるなら何でも良い!」
「御気を、御気を確かに!」
「よ、鎧を外しましょう!窮屈な儘では!」
「金吾様!金吾様!」
大騒ぎとなる陣幕の中から、抜け出した1人の男が大急ぎで陣内を離れていく。それに気づける者が誰もいないほど、宗滴が倒れたことは大きな衝撃だった。
浅井が滅びてちょうど月が1周したその日、朝倉氏滅亡への大きな一歩が踏み出された。
浅井久政、死亡。
一族は若狭武田領経由で逃げました。詳細は次の話で。
本作の浅井久政にとって、自分が「浅井」である証明といえた小谷城だけは手放せなかった。それが分からなかった織田に彼は最期まで降伏することはなかったのでした。
朝倉宗滴の生死ダイスは少々特殊な振り方をしていましたが、それでもこのタイミングでこういう状態になるというのをプロット段階で示されたのを見て「信長ってやっぱり持ってるな」と思ったものです。




