第168話 小谷決戦(上)【地図あり】
ネタバレにならないよう地図は最後につけておきます。
近江国 小谷城
春。雪解けと共に織田軍は動員を開始した。田植えの季節など御構いなしだ。その総数は約20000。少なく見えるがほぼ全て常備兵というところでその異常さが分かるだろうか。
呼応して近江へ動員したうちの兵数は7000。これも常備兵のみだ。だが越前方面にも4500を送ったのであまり多くない。というか美濃一国と越前の一部だけではこのあたりが限界だ。尾張・三河・遠江・北近江の一部から動員できる織田とは国力が違う。
露骨に小谷から敦賀を狙う布陣だが浅井も朝倉もこれを受けざるを得ない。
そして今回は越前側で一部の国人が動員を拒否した。特に朝倉当主の延景のいる府中城と敦賀を結ぶ中間地点にある燧城の城主赤座直則が城に籠ったのは大きい。これで朝倉領は北部長崎城の一帯と中部府中城一帯と南部敦賀一帯の3つに分断された。
そこで、守りの固い中部地帯は赤座との合流が難しいため越前の部隊は北部陽動を、そして近江側を本命に織田と全力で攻めることとなった。当然俺も小谷城へ出陣だ。
織田軍は織田信秀・信長親子揃って出陣。長男信広と信秀弟の信光や一族の秀敏らが留守を任されたそうだ。林佐渡守や柴田権六、佐久間信盛、鳥居忠吉(松平広忠の代理)、山本勘助、酒井忠尚、佐々政次、飯尾連龍、井伊直盛、磯野員昌といった名前が並ぶ。
一方のうちは常備兵が俺の直属ばかりなので明智十兵衛光秀、平井宮内卿信正、平井綱正、日根野備前守弘就、日根野常陸介盛就、谷大膳衛好、大久保忠世、大久保忠佐、芳賀高照、芳賀高継といった面々を中心に、小姓上がりの古田吉左衛門重則や長井道勝、井上頼次という叔父一門が加わる形となった。
敵方は浅井領内で進めた調略により、村落単位の逃散が相次いで約2000の動員に留まった。朝倉は燧城の封鎖で府中方面の兵が不足し若狭武田がなりふり構わず送ってきた援軍と合わせても8000にしかならなかったようだ。合計10000前後。ほぼ3倍を用意できた形だ。
しかし、合流直後の軍議で近江介信秀殿は全く油断した様子を見せなかった。やや弛緩した空気を醸し出した将に対し、圧をかけるように強い口調で軍議を始めたのだ。
「相手は金吾(宗滴)ぞ。侮る者は今すぐ領国へ帰れ」
その一言で、楽観的なムードは一瞬にして吹き飛んだ。
「良いか。首実検が終わるまで、何人も気を緩めては為らぬ。窮鼠猫を噛む。ましてや敵は手負いの虎と龍ぞ。」
武田信虎・朝倉宗滴・浅井久政。油断すれば喉元に噛みついてくるだろう。
「調略で寝返る者も多く居る。だが其の者等に気を許すな。奴等が仕掛けた埋伏の毒を疑え。良いな?」
「「応!」」
歴戦の猛将はやはり違う、と再認識させられる時間だった。
♢
小谷城南西の水田地帯と河原で浅井・朝倉・武田連合軍は待ち構えていた。虎御前山と姉川の支流を背後にした浅井の軍勢には「南無阿弥陀仏」の旗を持った農民もちらほらと見えた。織田・斎藤領で本願寺派の寺院は高田派に改宗させられているのを知っているのだろう。信仰を捨てるか土地を捨てるか、いずれも捨てずに戦うかの三択で戦う道を選んだ者がそこにいた。
「死兵か。厄介だな十兵衛」
「真に。命在っての物種、でしたな?」
「そうそう。命在ればこそ功徳も積めるし幸も在る。其れを忘れては為らぬ。」
「人を救う事を第一とされる殿らしいですな」
仕事仕事で死んだ前世を考えれば、命大事にと考えるのは当たり前だ。自分の気質として人を救おうとするのはもう仕方ない。だからこそ命を捨ててまで守る信仰というのが分からない。大学時代に終末医療の現場を見学した時、そこにいた宗教家たちは皆終わりへ向かう人々の苦しみを和らげ、心の平穏のために祈り、言葉を説いていた。仏教もキリスト教も関係なかった。
だが目の前の坊主とそれに従う人々はその真逆だ。命を捨てさせる宗教に意味は無いし許してはならない。
俺の軍の前にいるのが浅井だ。大砲の話を朝倉から聞いているのだろう。命がけでそれを邪魔するために城に一番近いここに布陣していたのだ。
実際この距離からでは現状の大砲では城に傷はつけられない。
「朝倉は水田の畷を使い、兵数の差を埋めようとして居りますね。」
「織田の兵が河原を迂回しようにも雪解けの増水が完全に収まっていない、か。ぬかるんでいるなら水田と変わらんな。」
畷、つまり畦道の向こう側に敵は布陣している。細い道で数の優位を潰そうという古典的だが有効な手だ。虎御前山を迂回するとなると時間がかかるだろう。
「であれば迂回するだろうな、時間を掛けてでも確実に勝ちたい織田ならば。」
「でしょうね。殿は如何しますか?」
「うちは被害を出さずに浅井を退かせたいのでな。こういう姑息な手を使わせてもらうよ。」
部隊に命じて昨年ずっと美濃にいた間に作ったブツを持って来させる。ザビエル一行の知識も借りて持明院様を元気づけようと作った花火から着想を得て作った。超大型の打ち上げ花火である。人に向けてはいけないものを、今回は敵に向ける。
「良し、敵に撃ち込んだら騎馬で突撃せよ」
「ははっ!」
全部で4発をひとまず1か所に撃ち込む。時間差をつけて騎兵の邪魔をさせないように、と思ったのだが。
「殿、一発目で敵の農兵が大混乱して居りますぞ」
「騎馬も至近距離での爆発音に耐えられなかったか。田に侍を振り落として逃げて行くぞ。」
「そして其の馬が畷を走り回って足軽を田に叩き落して居りますな。二発目は要るので?」
「一応混乱が少ない場所に撃ち込め」
「御意」
二発目で完全に混乱した浅井の兵に、うちの精鋭木曽馬の騎馬隊が突撃をかける。こうなれば数の有利不利という次元じゃない。先鋒が壊滅すれば動揺が一気に広がる。そしてこちらを防げなかった浅井にとって水田地帯で互角以上に戦う予定が崩壊した時点でまともに軍として機能しなくなるのは必然だった。
「後方へ逃げようとする兵が敵を更に混乱させて居りますな。中央も水田の中に居る為か逃げ惑う馬に乱されて如何にも為らない様で。」
「坊主共が真っ先に逃げようとして水田に落ちて踠いているな。命乞いさせろ。」
「宜しいので?」
「死兵共に現実を見せてやれ」
各地で坊主共が槍に囲まれ降伏していく。中には数珠を片手に抵抗し討たれる者も出るが、命乞いをする者も当然出てくる。
命を賭けても極楽浄土に行けると説いて死地に送り出した連中がそういう様子を見せることを民衆はどう見るか。
「今生の幸福を願わず、己が生にしがみ付く姿は幻想を壊すのに十分だろう。」
「其処まで行かずとも、刃が鈍れば被害が減りましょう。」
前線が遠ざかる。視認できない距離になった頃、織田から連絡が入る。
「殿、織田軍の迂回部隊が敵に遮られたとの事」
「敵将は?」
「山崎吉家との事」
「朝倉随一の猛将か。厄介な事をするな、金吾殿は。」
「正面は本命に非ず、ですな。寡兵の策には付き合わないだろうと読まれて居たと」
「しかし、突破されれば即座に自らを危うくする策を見せるあたり、流石としか言えないな。」
「真に」
朝倉宗滴は自ら姿を晒して水田へ、そして畦道へ誘っていた。そこまでしておきながらそれが囮とは恐れ入る。
現状は宗滴が後方に下がり、織田軍が正面から攻撃してもあまり意味がない。迂回した織田兵5000は朝倉の3000と激戦を繰り広げているそうだ。
「さて、こうなると浅井を我々が突破出来るかが肝か。」
「殿、前線に雨森・赤尾・海北の三将が現れたと報告が。」
「まぁ、そうなるよな」
浅井左兵衛尉久政とてバカではない。ここ数年で生きるか死ぬかの勝負を延々と続けてきたのだ。その程度理解しているということだろう。浅井の主力を率いる雨森弥兵衛、赤尾清綱、海北綱親が相次いで投入されたようだ。
「前線は停滞した様子」
「まぁ、結局ただの打ち上げ花火だからな。人は死なん。だが、騎馬武者が全員退いた。」
「では、手筈通り大久保隊を前に出します」
「頼んだ」
ここで大久保兄弟の歩兵隊を前に出す。彼等は他の者と装備が違う。少数しか(物理的に)用意できなかったので仕方ないのだが、この部隊はぬかるんだ水田を比較的すいすいと進んで行く。
「ゴム底の足袋はやはり違うな。すいすい進んで行く。」
「草鞋では水を吸って重くなりますからな。蒟蒻といい、良く思いつかれますな。」
布にコンニャクのりを染み込ませ、撥水性を持たせてある。彼らの履いている足袋は重くならない。波型の靴底は水田をしっかりと踏みしめられる。
先日初めて試作品を履かせた時はおっかなびっくりだったが、今日は慣れたのかすいすいと進んで行く。大久保兄弟の速度に相手は驚き、一部が弓を射かけるが、そこに向けて花火砲をぶつけて邪魔をする。精度が落ちた矢は正面に向けている盾で防がれ、そして乱戦の畦道に横槍を加える形となる。
大久保隊は足袋が先割れで親指とそれ以外で分かれており、ぬかるみでも踏ん張りがきく。迎撃のため水田に入った敵兵は踏ん張れずまともに戦えない。
「弓を番えた敵に矢を浴びせろ。田の中を動ける大久保隊を全力で援護せよ!」
十兵衛が指示を出す。100人に満たない部隊が、複雑な畦道をものともせず敵の横腹を突いて崩していく。斎藤軍随一の槍部隊に浅井の兵は崩れ、崩れた箇所を起点に徐々にうちの兵が敵陣に浸透していく。
もう少しで完全に崩せる。そう思いつつも十兵衛が四方を調べるよう指示を出すのを見る。こういう時間帯こそ一番危険だ。そして平井宮内卿にその薫陶を受けていた彼がいる限り、俺に危険は訪れない。
だから、東部から近付いてくる一隊も既に把握している。その旗印も、大将として率いているであろう将の名前も分かる。ここが彼との決着の場だと。
「十兵衛!」
「御意!行け日根野隊!」
温存していた日根野兄弟をぶつける。武田信虎、退場してもらおう。死兵は本願寺のみにあらず。きっと俺の首をとる為だけに現れた猛将を、歴史の舞台から引き摺り下ろそう。




