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第160話 間に合わなかった技術、届いた手

 尾張国 那古野なごや


 1551(天文20)年の始まりは、あまりにも慌ただしいものだった。


 年末、日の出前に蝶姫が産気づいたと連絡が入り、大急ぎで準備を済ませていた豊や産婆らと那古野へ向かった。

 彼女の出産については全面的に依頼されていたのもあり、斎藤の家で全面支援という予定だった。整備された街道で一気に那古野に入ると、俺達はそのまま屋敷に入り、待っていた信長に案内されて蝶のいる手前の部屋に入った。


「豊、状況確認。各種道具の消毒は出来ているか?」

「先行して此方に泊まり込んでいた瑞策ずいさく殿の御蔭で完璧に御座います。」


 1ヶ月前から尾張に先に入っていた半井なからい瑞策が夜の明けぬ内から準備を進めてくれていたため、確認作業は予定以上の早さで進んだ。全身を清潔な白衣に包んだ集団が蝶のいる部屋に入る。手袋は医療現場には初登場のグッタペルカのゴム手袋だ。アルコール消毒できて衛生的な環境が徐々に整いつつある。


 俺は今回も産医と産婆に基本は任せ、不測の事態で出られるよう待機状態だ。ここまで蝶は不育症にも罹らず信長のサポートの下で非常に安定した状態が続いていた。とはいえ万が一がある。逆子ではないのを胎動の位置で確認済みだが、何が起こるか分からないのが命の現場だ。白衣にゴム手袋を準備しつつ、静かに待つ。


 同じ部屋に控える信長はただ待つだけの状況が嫌なのか碁盤を出してきて、乳兄弟の池田恒興(つねおき)を相手に打ち始めた。イライラが盤面に如実に出ていて、集中できていないのが良く分かる。いつも年下の乳兄弟には負けない信長だが、このままいけば今日は初敗北の日になるだろう。


「此処、もう生きるので精一杯ですな。殿にしては珍しい。」

「構わん。生きていてくれれば。生きていてくれさえすれば、其れで良い。」

「……ですな。元気で在れば、其れで良いかと。其れは其れとして手は抜きませぬが。」


 2人の会話は途中のこれだけだった。恒興の方も途中で大ポカをしていた。冷静でないのは誰も同じか。


 産婆と豊がしきりに「ひっひっふー」と声に出しているのが聞こえる。ラマーズ法だ。俺が知っていた数少ない産科に関わる知識。俺と関わってきた赤ん坊は全員これで産まれてきた。大丈夫。大丈夫だ。

 自分に言い聞かせるようにしながら動かずじっと待つ。いつでも白衣を着てマスクを付けて出られるようにしつつ、でも出番が来ない様にと祈りながら。



 長かった。朝一で連絡を受け、日が落ちようかというこの時間まで蝶は戦い続けていた。生理食塩水を砂糖を惜しまず作り、途中で彼女に投与。点滴で大汗をかいて出た水分を補給させた。口から飲む余裕もない彼女に、体力や出血次第では最悪点滴も必要になるかもと考え始めた時、豊の「全身、出ました!」という声が響いた。

 慌てて部屋に入ろうとする信長を止める。


「義兄上!!」

「落ち着け!赤子が泣く迄待て!あと此れを着ろ!」


 信長のために用意していた白衣を着せ、自分も白衣に身を包む。泣け。泣いてくれ。願いながらお湯と石鹸で手を洗い直し、アルコールを吹きかける。白衣を着た信長にも同じ事をさせる。


 その頃になって弾正忠信秀殿が部屋に現れる。信長の恰好を見て「似合わんな」と左えくぼを浮かべる。


「慌てるな。御前如きに出来る事は無い。信じろ、斎藤の女子の強さを。」

「女子の、強さ」

「隣に居る義兄と、蝶姫にも流れるマムシの血を信じるが良い。」


 今回ばかりはあの図太い父道三の血を受け継いでくれと願う。


 そして、


「ぁあああああああああああああっ!」


 泣いた!


「行くぞ!」

「応!」


 開かずの扉と化していた襖を開ける。


 ようこそ、乱世終わらぬこの国へ。


 産まれてきてくれて、ありがとう。


 ♢


 翌日。


 一同が落ち着いたところで、京極に関して話し合いが行われた。相手からは弾正忠信秀殿と信長、そして平手政秀が出席。こちらは俺と叔父道利、そして十兵衛光秀だ。


「弾正忠殿、無事赤子が産まれた事、真に御慶び申し上げる。」

「斎藤の御家から来た室が素晴らしかっただけの事。愚息の功など御座いませぬ。何より、御当主の医学在ってこそ。」


 叔父の言葉に弾正忠信秀殿は素っ気なさげな言葉で返すが、右の口元が緩んでいる。


「さて、本題に入りましょう。書状は織田の御家にも?」

「うむ、管領代から届いて居った。高慶たかよし殿に張り付いて居る草からも屋敷への客が増えている、と。」

「此方に来た書状では大津からの船が頻りに行き来している、と。」

「管領か。面倒な事をするのだけは日ノ本一だな。」


 どうやら浅井から管領細川晴元経由で京極高慶に連絡がいっているようだ。

 平手政秀が管領代六角定頼から互いに送られた書状を見比べながら発言を許される。


「殿、敢えて書状の中身を変えたのは、我等の連携が何処まで出来ているかを見る為でしょうな。」

「食えぬ男よ、管領代。確かに我等の味方だが、我等と万一敵対した時も考えての手であろうな。」

「とはいえ、此れ程詳細な情報は我等では集められぬ物。敵に回すには怖すぎまする。」

「で、あるな。今は此の報せに感謝だけしておこう。」


 織田はどう動くつもりなのか。今年のうちの目標は九頭竜川沿いに更に砦を増やしつつ長崎城を包囲するように簡易な城を複数造って降伏を迫りつつ国人などの降伏を促す予定なのだけれど。


「京極も浅井も纏めてわしが相手をしてやる。孫祝いだ。安祥の信広も呼んで全力で行く。」

「おお、では俺も行って構わぬか、親爺!」

「駄目だ。其方は蝶姫の側に居ろ。其れに産まれたのは娘。嫡男は未だなのだ。尾張・三河・遠江三国を治める大変さを味わいながら男子が出来る様仲良くして居れ。」

「ぬうう。最近戦に出られて居らぬぞ……」


 バトルジャンキーかお前は。というツッコミを心の中にしまいつつ話を続ける。


「総出で向かうと成ると相当の兵数ですね。」

「うむ。四万は揃える。兵糧はやっと今年の取れ高なら賄えよう。」

「ではその分美濃の酒を御買い上げ下さい。」

「結果的に其の方が美濃から買う物が増えそうで怖いがな。」


 清酒好きは多いから仕方ないね。最近は少しずつ冷害への強さ・収穫量の多さに加え、味の良さも考慮した品種改良を専門の試験用農場を用意して試させている。年単位での挑戦にはなるだろうが仕方ない。美味い米は美味い酒に繋がり、消費が増えれば金も動くのだ。それに既存の酒は混ぜ物が入っていたり運搬の過程で不衛生になったり保存性が落ちる場合もある。飲み過ぎは健康に悪いと言うが、この時代の場合量を飲むと混ぜ物で健康を害しそうだからまともな酒造りを俺が主導で始めたのだ。まともな酒屋も多いが、庶民が手に入れられる酒は危うさがある。


「十兵衛、其れは其れとして祝いの品は手配したか?」

「既に美濃より明日届くよう命じて居ります。」

「流石仕事が早いな」


 既に若くして俺の家老のような立場を確立しつつあるだけのことはある。


「蝶が喜ぶ絵本なども在ると嬉しいな、義兄上!」

「心配するな、『桃太郎』を用意してある。」

「おぉ、御伽草子で見たような?」

「恐らく其れだな。同じではなかろうが。」

「何にせよ楽しみだ」


 桃太郎は既にあるのか?まぁこの時代から伝わっているものがあるのも不思議ではないか。

 別に鬼退治はしなくて良いから、幸せになってくれればいい。


 ♢


 美濃国 大桑おおが


 数日後に稲葉山城に帰ると大桑から報せが来ていた。

 曰く、「小見おみの方の咳が止まらぬ」というもの。

 俺は大急ぎで大桑に向かった。


 大桑にも医師は常駐させている。既に父道三は50後半。前世の感覚だと70以上の定年退職レベルだ。何時何が起こるか分からないのでうちでも優秀だった忠誠心確かな医師を置いている。

 大桑の屋敷に行くと、小見の方は寝所で半寝たきり生活だった。


「咳が出ると仰るので、安静にされる様御助言致し、小柴胡湯しょうさいことうを処方致しました。しかし数日経てど咳が止まらず、御体優れぬと仰るので急ぎの文を出した次第に御座います。」

「良い判断だった。後は俺が診よう。」


 豊は置いてきた。感染症の時が怖い。特にこの時代は結核という危険もある。俺自身が結核患者を診た事がないので知識しかないが、あれは戦前日本などではかなりの猛威を振るった。多くの偉人・有名人の命を奪ったのが結核なのだ。

 白衣マスクゴム手袋スタイルで小見の方を起こしてもらい、喉の様子などを見る。咳き込んだ回数が多いからか荒れている。だがそれ以上の何かはわからない。胸部X線でも撮れれば別だが、現状では判断のしようがない。少なくとも、俺の知識では判断しきれない。悔しい。


「症状が改善しない以上、薬を変えましょう。柴胡さいこ桂枝けいし乾姜湯かんきょうとうに変えます。お疲れの様ですし。」

「御忙しいに、態々来なくても良かったのですよ?」

「いいえ、御方様には蝶の娘と是非会って頂かねば。初孫に御座いますぞ。」


 こんなところで死なせるか。蝶だって小見の方に自分の娘を会わせたがっていたのだ。


「初孫ならもう会いました。其方の子等に。」


 俺を実の子の様にこの人は信じてくれた。考えれば小見の方様こそ俺の本格的な医学知識を披露した最初の相手だった。お腹の中にいる蝶のために、俺はこの世界で初めて誰かを救おうと動いた。

 そんな人を、俺を息子と思ってくれる人を、死なせてたまるものか!


「ですから、無理はしなくて良いのです。」

「御安心を。無理などさせませぬ。」


 患者に無理をさせる医者にはなりたくない。無理せず治すのが本物だ。

 とはいえ結核だったら今の手札では治せない。最悪でも結核に似た症状の非結核性抗酸菌症あたりであれば良いが。


 ♢


 処方を変えて1週間。食事も少量だが食べられ、生理食塩水も惜しまず使い、状況に応じてペニシリンも投与した。少しずつ体調が安定してきているが油断は禁物だ。こういう時に他の病が感染したらとてもこの時代では対応できない。運との勝負だ。



 さらに1週間。明確に俺が来た頃より症状は改善している。でも油断はしない。助けるのだ。俺のもう1人の母を。

 蝶からも文が届いた。本人の体調も娘の体調も安定している。だから母上を頼みます、と。少し震える字で書かれていた。体力が完全に戻る前に書いたのだろう。だが小見の方宛ての書状は確実に気力を与えてくれたらしい。



 そして田植えに向けて人々が活発に動き出す頃、ようやく普通に歩ける程度の体調に回復した。結核ではなかったとみていいだろう。肺の病気だったのは間違いない。肺炎か、非結核性抗酸菌症か。あまり診ない病気の気はするが、肺炎も種類が多いので可能性は捨てられない。

 とはいえ今回大事なのは過程じゃない、結果だ。



 最終的に3週間に及ぶ滞在で小見の方に降りかかった病魔は撃退に成功した。

 だが今日の件で俺はまだ手元にない薬が結核だったら間に合わなかったという事実に危機感を抱かざるを得なかった。


「ストレプトマイセス属……300倍でないと見た事がないが、探せる体制を作らなければならない、か。」


 顕微鏡で見たことがあるのは300倍以上の倍率のみ。低い倍率ではストレプトマイセス属か俺には見極めるのは困難だ。

 だが、ガラス職人に優先順位を上げさせるしかあるまい。今回もし結核だったら間に合わなかったのだ。間に合わせねばならない。



 次への恐怖を俺に残し、春がやって来る。本気で探し始めねばならない、ストレプトマイシンを。結核の特効薬で、ハンセン病にも多少の効果がある身近な放線菌で作れる可能性が高い、その薬を。

蝶姫出産。女の子でした。このあたりはダイスの思し召しなので仕方ありません。出産までかなり大変でしたが、現時点の技術を全面に生かして無事出産を成功させました。鬱展開などこういう場面では許さないのが主人公です。


小見の方は史実ではこの年3月に肺病で亡くなっています。肺病も肺炎・結核など色々ありえるので、今回はこんな話にしました。救えたけれど、結核だったら無理だった。

というわけで、主人公も結核と戦う為にストレプトマイシン探しを本気で始めることにします。


京極関連は織田が生半可な策ならそれごと捻り潰すという覚悟で動員を予定しております。

どうなるかは次話以降で。

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ストレプトマイシン…、日本で大量生産が開始された年に祖父は肺結核を発症し、この薬のお陰で助かることができました。結果90歳まで長生きできました。 この薬が戦国時代に誕生したなら、どれだけ多くの人が助か…
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