第１４６話　怪物の降臨

　越後国　春日山城

　評定が行われる一室で、越後上杉氏の重臣を集めた上杉定実と、側近を集めた山内上杉当主・関東管領上杉憲政が悲痛な表情を浮かべていた。

「まさか龍若丸様が殺されるとは……」

「其れも、長野殿が打って出た隙に殿が信頼する妻鹿田《めかだ》が御正室共々害してしまうとは。」

「長野殿は既に箕輪《みのわ》衆と共に平井を退去。平井城は敵の手に落ちてしまった……」

　龍若丸の乳母を務める女性。その夫が妻鹿田新助であった。彼は関東管領上杉憲政の信頼から嫡子を任されていたが、長野業正が出兵した隙に憲政の子を奪って北条方に寝返ろうとし、抵抗した正室を嫡子共々殺してしまったのである。妻鹿田本人も不忠者として北条氏に討たれ龍若丸は丁重に葬られたが、それで彼らの心が晴れるわけはないのだ。

　そして、これに動揺した上野の憲政派に北条氏康の勢いは止められない。上野への大規模な兵の移動を察知した里見義堯(よしたか)が先日千葉氏を攻めたが、これを読んでいた北条綱房らの反撃で撤退した。佐竹氏も身動きがとれず、周囲が圧倒的劣勢では古河公方も北条に味方する状況は変わらない。

「此のままでは伊勢（北条）の関東支配が決定的に成ってしまう……何とかならぬものか。」

　関東管領上杉憲政は越後に来て援軍を要請した。しかし越後守護上杉定実は長尾家中の内部対立と自身の健康問題があって出兵できる状況ではなかった。

　結果として、関東管領の根拠地であった上野はその過半が北条氏の手に落ちていた。

　嫡子を失い、妻を失い、本拠地を失った悲しみは常人の想像できる範囲のものを超えるといえるだろう。

　悲嘆にくれる上杉憲政に、上杉定実がぽつりと呟いた。

「……手が無い訳では、無い。」

　その顔に浮かぶのは、強い決意。平井城を出る決断をした時の憲政の表情に近いものがあるのは、同じ上杉一門故のことか。

「関東管領、其方の覚悟次第で、上野は取り戻せるかもしれぬ。」

「……既に我が子をも失い、其れでも此処に居る時点で、此の身に出来るあらゆる手を尽くす覚悟は出来て居りますぞ！」

「では、其処の男を養子に迎えて欲しい。」

　定実が指さしたのは、まだ２０歳にも達していない青年であった。しかし、その眼は異様にギラギラと尖った輝きを放ち、統一されていない長さの髪が特に背骨付近まで伸びている。

「まさか……平三《へいぞう》殿を？」

　彼の名は長尾平三景虎(かげとら)。現守護代晴景の弟だが、その武勇から家中に越後守護代に推す声が後を絶たない人物である。

「左様」

「しかし、其れは……余りにも。」

「関東管領。既に事態は予断を許さぬ状況だ。長尾家中も危機感を強めて居る。」

　本来、長尾家中は晴景・景虎兄弟で争いを続けていた。

　しかし、北条の台頭がそれを許さない状況を作ってしまった。

「既に伊達の御家騒動は泥沼と化した。時宗丸の入嗣は叶わぬであろう。」

「ですが、長尾の当主は其れで良いのですか？」

「守護代の兄は守護代を続けられるなら、そして長尾の当主であるなら弟の下でも構わぬと覚悟を決めた。弟は戦上手だ。兵を率いる事が出来るなら其れで良いと言って居る。」

「後は決断するだけ……ですか。」

「左様。関東管領、わしももう長くは生きられん。此れを決めて隠居する気だ。越後守護と関東管領、その肩書が在れば必ずや此の男の力で関東を其方の手に取り戻させる。其れだけの勇猛さが此の男には在るのだ。」

　静かな、しかし強い声色で上杉定実は上杉憲政に訴える。

「其れに、此の男女子には興味が無い。室も取らぬと言って居る。」

「では、次代の関東管領は……」

「其方が２人の姉を娶り、子を為して養子とすれば良い。平三の当主就任も一門と成れば無理が少ない。」

「其処迄するのですか……」

「違う、其処迄せねば伊勢（北条）は抑えられぬし、長尾家中も纏まらぬ。」

　長尾家中の争いは、家臣たちは真っ二つとは言わないまでも酷い状況だった。本来の当主である晴景には幼少時から従う者達が支持を表明し、強い当主を求める国人は景虎を支持する。

　そんな彼ら全てを納得させるには、この方法しかなかったのだ。

「関東管領、決めよ。其方が決断出来ぬなら、此処を出て他の道を探されよ。わしにはもう此の道しか手が浮かばぬ。」

　その言葉に、長い長い沈黙が続いた。

　たっぷり５分程、その場にいる人々は身動きせず、ただ関東管領上杉憲政の決断を待った。

　冬ながら居並ぶ人々の額には汗が浮かび、握った拳や背筋にも汗が溜まる。

　瞬きすら許されぬような静寂が続き、唇が開く音すら幾人かの耳に届いて、

「分かりました。彼を、関東管領の後継者に任じます。」

　歴史的な決断が、行われた。

　♢♢

　上野国　厩橋・総社

　箕輪城の長野業正へ攻勢を強めたい北条氏康は、雪が深くなる間際の１１月に大軍を蒼海城に集結させた。その数３００００。

　北条綱成・多目元興・北条綱高・北条時長・大道寺盛昌・用土重利・太田康資・由良成繁・小幡憲重・大石定久・成田泰季らが参加し、上野支配を確定させようという陣容だった。

　対する長野業正率いる箕輪衆は４０００。勝敗は誰の目にも明らかと言えた。

　しかし、蒼海城に集結した北条軍の元に、越後から山を越え援軍がやって来たという情報が舞い込んだ。

　その数、１２０００。沼田氏ら数少ない上杉方に残っていた領主の兵が合流し、１６０００まで増えた彼らに対し、北条氏康は箕輪への備えに大石定久・用土重利ら６０００を残し、２４０００で迎え討つ事を決めた。

　１１月２０日。

　総社の東に流れる、数年前に流れの変わった利根川を横目に両軍は対峙した。

　上杉軍は左に中条《なかじょう》藤資《ふじすけ》を中心に新発田《しばた》綱貞《つなさだ》や鮎川清長ら揚北衆と呼ばれる越後北部の国人を配置。右に山本寺《さんぽんじ》定長や北条《きたじょう》高広・沼田顕泰らを置き、中央に柿崎景家・斎藤朝信・甘粕泰重らが布陣した。

　一方の北条方は左に北条時長・大道寺盛昌ら駿府・相模の衆を置き、中央に北条綱成・太田康資・北条綱高ら武蔵の将が、右に小幡憲重・由良成繁といった上野国人が布陣した。

　両軍は３日に亘って戦闘を繰り広げた。両軍が有利な陣形を模索し、北条軍はどっしりと構えつつも隙を見せれば即座に大軍で崩そうという姿勢を見せる。一方の上杉軍は陣形を目まぐるしく変えながら決して隙を見せず、２日目の昼ごろにはその大将の名を聞いた北条氏康も唸る他なかった。

　多目元興と共に、前日の用兵の見事さを褒めるしかなかったのである。

「長尾平三景虎……凄まじい采配振りだな。」

「殿、此れで未だ二十歳に成らぬという事に御座います。」

「彼れだけ次々と陣形を変えながら乱れぬと成ると兵を無暗にぶつける訳にも行かぬ。」

「突出した大道寺殿の部隊は逆に崩されかけましたからな。」

　２日目朝に先手を取ろうと仕掛けた大道寺盛昌だったが、逆に上杉軍の北条高広がほぼタイムラグなしに９０度陣形を変えて横腹を突いてきたため１００単位の損害を出してしまった。

「無理は出来ぬ。しかし敵も仕掛ける余裕は無かろう。狙いは雪の季節での自然休戦の筈。夜襲に警戒しつつ少しずつ圧迫して退かせる事を目指す。」

　北条氏康という人の狙いは常人としては間違っていなかった。しかし、相手が悪かった。

　３日目。太陽が沈みかけ、そろそろ今日も終わりかと北条軍にやや弛緩した空気が流れた時、上杉軍が動いた。

　動き出したのは柿崎景家。２００の騎兵を突如北条の右陣に向けた。慌てた右陣の赤井照忠が押し留めようと立ち塞がるが、柿崎隊は勢いのまま突撃。槍衾《やりぶすま》が半端だった隙を速度を落とさずに突いた柿崎隊は一気に赤井隊を貫通した。

　これに呼応するように一斉に上杉軍は攻勢に出た。北条綱成の奮闘で中央は大崩れせずに立て直したものの、弛緩から疲労を色濃く自覚した北条軍はまるで疲労などないかのような突撃を見せる上杉軍に徐々に押し込まれた。

　長尾景虎は合戦の様子をじっと見つつ、右の口角をひくつかせていた。目は無表情を装っているが、にやけるのを抑えるのに必死である。

　その様子を見て、宇佐美定満は小さく嘆息しつつ話しかける。

「もう少し上手く御隠し成され。兵に飢《・》え(・)て(・)居るのが知られますぞ。」

「抑えろというのが無理な話だ。此れ程満たされる相手も然う然う居らぬ。」

　定満も彼の狂気を知ったのは最近だが、その異常さはすぐに理解していた。

「其処迄温もりに飢えるなら女子でも抱けば宜しいでしょうに。」

「駄目だ。女子は溺れる。兄上を見てそう見えた。やはり戦だ。戦で流れた血が、俺を満たすのだ。体に入れるのは酒だけで良い。」

「分かりませぬなぁ、女子に現《うつつ》を抜かす気質には見えませぬが。」

「俺は俺自身の渇きを良く分かって居る。母上の温もりに飢えていた俺に女子の肌は強過ぎるのだ。」

「左様で」

　呆れつつも、その手腕には舌を巻く定満は戦場を再び眺める。ほぼ平地故に主戦場は見えないが、徐々に自軍が前に出ているのが分かる。

　勝ち戦になるとほぼ確信したその時、景虎が突如目を見開いた。同時に口を開き、まるで戦場全体に轟くかのような大声を発する。

「敵が来るぞおおおおおおおっ！」

　ビリビリと体に響く声だが、しかし鼓膜を突き破る様な金切声ではない。文字通り兵たちの芯に響かせる声だ。

　一瞬訪れる静寂。その後に兵たちから鬨の声が上がる。

「弥太郎、中央だ」

「御意」

　側に控えていた小柄な少年と言っても問題ない青年・小島弥太郎が騎馬で飛び出す。数人の馬廻りが続き、あっという間に最前線へ呑み込まれていく。

　数十分の後、伝令が本陣へ駈け込んで来た。

「北条綱成、此方に大規模な攻勢に打って出て参りましたが、小島隊が綱成本人を足止めし凌ぎまして御座います。」

「御苦労」

「はっ」

　その言葉に、宇佐美定満は冷や汗が背筋を伝うのを感じる。

「彼れは俺の子飼いだ、爺《じい》」

「未だ未だ老いた心算は御座いませぬぞ、殿。」

「声が驚きでか細く成って居るぞ。養生しろよ。」

　景虎はその後戻ってきた弥太郎に、要所要所で場所を指図しては戦場に送り込んだ。馬廻りのメンバーだけは常に違ったが、弥太郎だけは毎回指示された戦場へ突撃し、そして数十分で戻ってきた。

　宵闇が戦場を覆う頃、北条軍は撤退に追い込まれた。この戦闘を見越して火矢を数多用意し、北条軍へ射かけた上杉軍に対抗する用意がなかったことも一因であった。

　しかし、北条氏康はそれ以上に上杉軍の高い士気と自分の打つ手をことごとく防ぐ景虎の馬廻りの奮闘ぶりに危機感を抱いた。

　この１日で北条側が失った兵は４０００あまり。目立った将は討たれなかったものの、将の近習に当たる側近に多くの死傷者が出たため、氏康は戦線の維持を困難と判断。蒼海城へ撤退した。

　総社の戦いと呼ばれるこの一戦は、関東支配を着実に進めていた北条氏に大きな楔を打つものとなった。

　蒼海城に集められた物資の過半を撤収した氏康は、攻勢のための整備しかしていなかった蒼海城を放棄。女淵《おなぶち》城や大胡《おおご》城に前線の整理を進めざるをえなかった。

　一方の長尾景虎はこの一戦の勝利をもって関東管領上杉憲政と越後守護上杉定実の後継者となり、両名より偏諱を受けて上杉政実と名を改めた。

　軍勢の過半は関東で越冬し、その間に岩櫃《いわびつ》の斎藤氏を滅ぼして海野《うんの》氏との連携体制を復活させるのだった。

　♢♢

　常陸国　太田城

　佐竹義昭は歓喜した。

「直ぐに上杉殿に使いを出す。其れと、古河の公方様にもだ。宇都宮に出兵の準備をするよう伝えよ！」

　小田・結城・壬生・那須ら北条方に当主を変わって以来苦杯を舐めさせられ続けた若き佐竹氏の当主は、やっと来た自分にとっての朗報に飛びつくこととなった。

　♢♢

　上総国　久留里城

　里見義堯はその報が三度来るまで動かなかった。しかし三度目の報が届くと、即座に出陣を命じた。

「佐貫《さぬき》と造海《つくろうみ》の城を取り戻すぞ。慎重に、しかし大胆に、だ。」

　沿岸部を陸地から奪われ手立てを失っていた彼にとって、その勝利は起死回生への博打には十分すぎるものだった。

　♢♢

　下総国　古河公方館

　古河公方・足利晴氏は、側近と小山高朝に決断を迫られた。

「氏康めを討つなら今立たねば成りませぬ。」

「いや、しかし、だな」

「殿！既に後戻りは出来ませぬぞ！」

　彼らの話している側では、北条から派遣されていた家臣が４人、縄で縛られている。

「公方様、今なら我等が執り成す故戻れますぞ！一戦の結果のみで北条を裏切れば必ず後悔する事に成りましょう！」

「黙れ伊勢の代官風情が！」

　公方の家臣が刀を抜き放つと、無防備な代官を袈裟切りにする。腕は中途半端だったが、刀の良さが代官の縄を断ち、腹部に浅くない傷を与えた。

「ぐ、お、おのれ野田の木端領主如きが……」

「伊勢如きが坂東の覇者を名乗る方が不敬成るぞ！」

　もう一太刀加えられ、代官は絶命する。

「殿、もう後戻りは出来ませぬぞ。さぁ、此の逆賊共を討つのです。」

「野田、何と、何という事を……」

「さぁ！」

　血染めの刀を持って迫る野田政朝に、古河公方は顔を覆って「御終いじゃ、御終いじゃ」と呟く。苛立つ野田政朝に、隣にいた元服を終えたばかりの足利藤氏が手を伸ばす。

「其の刀を寄越せ。我が刀を血で汚したくは無い。」

「ははっ！」

　藤氏は刀を構えると、残った３人を次々と斬る。腕の不足が過ぎたのか彼らは一撃で死ななかったものの、これを追うように周りの家臣たちが３人を絶命させた。

「今日から古河公方はこの藤氏が務める。上杉政実に関東管領に任ずる旨文を出すぞ、準備致せ。」

「「ははっ！」」

　その様子を見ながら、潜在的に敵対しつつも穏健に動いていた晴氏は頭を抱え込んで嗚咽することしかできなかった。

　♢♢

　出羽国　米沢城

　年末。伊達晴宗に届いた一報に、しかし彼は鼻で笑うだけであった。

「宜しいので？」

　側近の中野宗時にそう聞かれても、晴宗は鼻で笑う。

「構わぬ。佐竹は此方に来れぬのは変わらぬ。下手に此方に手を出されないで済む故な。」

「蘆名様は二階堂攻めを続けるとの事。田村も相馬も援軍を出せぬ様子。」

「相馬は国分が滅んだ故北から葛西らが攻めて来るのに警戒せねば成らぬ故な。援軍なぞ出せぬよ。」

「大崎彦三郎殿は無事に義宣《よしのぶ》様を討ったとの事。」

「重畳だな。此れで又一人父上の無駄にばらまいた胤が潰せた。」

　１５４８年１１月。稙宗派で晴宗の弟でもある大崎義宣が義父大崎彦三郎義直によって討伐された。さらに葛西・留守の連合軍によって国分盛氏が国分城を落とされ自害。天文の乱における伊達稙宗派有力領主国分氏が滅んだことで、両者の勝敗はほぼ決定的となった。残るのは磐城《いわき》地方などの相馬・田村・二階堂・二本松らと、出羽の最上八楯ら少数だけとなっていた。

「で、最上殿からは何と？」

「立石寺経由で支援も在ったとの事で、上山《かみのやま》に兵を出すと。」

「援軍を出せ。亘理が良かろう。養父と違って我等に付いたなら忠節を示せ、とな。」

「御意」

　晴宗は攻勢の手を緩めない。足利の公方から来た使者は一度来たのみでここ数か月音沙汰がないのだ。好きに動いていいということと彼は勝手に判断した。

「父上、もうすぐ其の首に手が届くぞ。」

　親子の情とは深いものだが、その情が反転した時、その憎しみはどのような関係よりも強いものになるという。