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第140話 混乱と好機

全編3人称です。

 越前国 波着寺はちゃくじ


 3月22日。朝倉孝景は額から汗を吹き出しながら階段を降りていた。


「季節外れの暑さよの。立春を過ぎたばかりであろうに。」

「未だ五月雨も見ぬままにこの暑さ。何が起こって居りまするやら。」


 同行する疋壇ひきた久保ひさやすも顔を顰めるほどの強い太陽が照りつける。その活発さは夏でもなかなか見られないものだ。梅雨にすら入っていないこの時期では珍しいどころの話ではない。


「しかし、殿は休みも取らず熱心に御祈祷為さりましたな。」

「次の戦は越前の中に成りそう故な。斎藤典薬頭は侮れぬ。初陣でも我が方の城を落としたし、土岐二郎も易々と攻め落とされた。」

「守り上手なれど攻めも非凡。しかも偉丈夫で土岐二郎と一騎討ちして彼の御仁を討ち取る腕前。」

「天は二物を与えず、とは偽りよな。其れとも、真に薬師如来に愛されたか?」


 自嘲気味に笑う孝景。首筋を伝う汗を拭いつつ、疋壇は小姓に孝景の汗も拭くよう指示する。


「偽薬の件、如何致しますか?」

「景鏡が当家の事を思って遣った事でも在る。咎めはせぬよ。もう辞めさせねば寺社が五月蠅くなって来たが。」

「確かに、美濃出兵の資金は彼の薬で稼いだ金から出たと聞き及びました。」


 財政基盤の弱体化しつつあった朝倉の資金面を支えたからこそ景鏡は高い発言力を持っている。負けても大きな不平不満が出なかったのはそのためだ。汚れ役を厭わないからこそ強い。それが今の朝倉景鏡という男である。


 階段が終わると山道となる。陽射しが和らぐものの、ムッと迫ってくるような蒸し暑さが彼らを襲う。

 疋壇は再び自らの胸元に噴き出した汗を拭う。手拭いは既に水に浸して絞った程度に濡れている。

 輿が待っていたので孝景を乗せ、自らは歩きつつ竹筒の水を口に含んだ。


「しかし殿は何時も祈祷の時は水を飲まれませぬな。願掛けと聞きましたが。」

「元服したばかりの頃に同じ様に祈祷しての。願いが通じた故、今でも其の時の遣り方を変えて居らぬのよ。」

「そろそろ御歳を考えて頂きたい物ですな。」

「はっはっ。其方が言うなら此度で終わりにするかな。あと少しで寺を出る故、我慢我慢。」


 森の中の道を出て視界が開ける。同時に照りつける太陽も木漏れ日程度ではない強烈な陽射しを彼らに浴びせかける。

 寺域を出たところで孝景は水を浴びるように飲み始める。疋壇は既に汗で背中に貼り付いている着物を鬱陶しく思いながら新しい手拭いを鳥居のある出入り口で待っていた部下から受け取った。


「いやぁ現世に戻ると欲が出ますな。先程迄気にならなかった背筋に貼り付くのが、不快で不快で仕方在りませぬ。」

「途中から汗が余り出なくなったの。まだ若さが残って居ったか?」


 そう言葉にした瞬間、孝景の体が電池が切れたように制御を失い倒れた。輿から落ちそうになるのを、小姓たちが間一髪支える。


「殿!?」

「あ……ぁ?」


 言葉にならない音を口から漏らすも、孝景は目の焦点も合わず、口も半開きのまま指先1つ動かせないでいた。

 輿がゆっくりと地面に下ろされる。


「い、医師か薬師を呼べ!」

「近くの我が屋敷に運べ!」


 疋壇は慌てて自分の屋敷に運ぶよう指示する。誰かに見られてはまずいと手持ちの布で体を覆い、輿も見えないようにしながら裏道を進んで行った。



 しかし、朝倉孝景の容態は急速に悪化し、彼は帰らぬ人となった。


 享年数えで56歳。死因は脳梗塞であった。


 ♢♢


 越前国 一乗谷館


 極秘裏に集められた重臣たちは、その一報に頭を抱える他なかった。


「何故此の時期に……」

「斎藤が動員を掛け始めた此処で……!」

「まさか、薬師如来が御怒りに成ったのか……」

「一応、城下の民には知られて居らぬのだな?」


 彼らの言葉に、疋壇久保は疲れ切った表情で答える。


「殿を看取った医師は斬った。知って居るのは我が屋敷の数人と、共に居た小姓くらいだ。」

「ならば、一先ず最悪の事態は避けられよう」


 最悪の事態。それは当主なき朝倉氏の状況に諦観した国人の離反と好機と判断した斎藤・本願寺の同時侵攻である。

 当主を失った朝倉の次期当主は未だ幼い朝倉長夜叉である。16歳にはなったものの元服もしておらず、当然初陣も経験していない。


「兎に角、此の状況を打開せねばなるまい。」

「殿の死は絶対に秘匿だ。国人にも知られてはいかんぞ!」

「で、誰が斎藤と戦う大将を務める?」


 その言葉に、場は静まりかえった。



 カリスマだったのだ。朝倉孝景という人は。

 戦場に滅多に出ない彼が出る決意を示しただけで、越前の国人が積極的に兵を出すと返事をする程度に。


「そう言えば右兵衛尉(景隆)殿が常日頃一軍を任されたいと仰ってましたな。」

「其れを申すなら一乗谷奉行として一軍を率いるのは如何かな、玄蕃助げんばのすけ景連かげつら)殿?」

「いや、某は兵を率いた事が少ないのでとてもとても……」

「……」


 一族や近臣の中で朝倉氏の命運を預かろうとする程の豪の者はここにはいない。いるのは虎視眈々と総大将として耳目を集めたい朝倉景鏡くらいである。

 しかし、彼に任せたくない心情の人間が多いため景鏡が総大将になる事はない。本人も嫌われていることは自覚しているため、自分から言い出す事はない。


「いっそ金吾(宗滴)様に御報告をしては?」

「金吾様の屋敷には本願寺の坊官が居る。此奴らに知られたら本願寺が敵に回って終わりぞ!」

「金吾様なら軍を率いる事は可能であろうが、間違いなく金吾様の復帰を口実に本願寺が攻め込んで来よう。斎藤との戦で横っ腹を刺しに来るに違いない。」

「しかし此のまま手をこまねいているよりは勝てる見込みが在るのではないか?」



 そんな中、大声を出せず肩を寄せ合うように話し合っていた一同の下に悪い知らせが舞い込む。


「御注進!御注進!真智様が大野の専西寺より姿を消しまして御座います!」

「ま、まさか真智殿は殿がお亡くなりに為ったのに気付いたか!?」

「不味い。仮に斎藤に逃げ込まれたら当家は終わりぞ!」


 しかし、これにどう対処するかを決めるべき人がいない。

 またもや会議が踊りそうになったところで、景鏡が舌打ちを止めてポツリと呟く。


「こうして話している間にも真智様は逃げて居られるでしょうな。」


 話し合いに熱中していた重臣たちが冷や水を浴びたように肩をびくりと震わせる。


「ま、先ずは真智殿を止めるべきだ。」

「そうだな。某の部隊を出そう。」

「此方も捜索する様手配しよう。」


 慌てて数人が部屋を出ていく。景鏡は小さくため息をつきながら彼らを胡乱な目で見ていた。


 ♢♢


 5日後、重臣たちは目の前の風呂敷に包まれた真智の首を見ながら顔面蒼白になっていた。


「だ、誰が真智殿を討てと申したのだ!?」

「不味いぞ。真智殿は宮上人。帝とは只でさえ疎遠に成りつつあるというに。」


 真智は常盤井宮という宮家の出身である。後柏原天皇の猶子となって一時は高田派の当主となりそうな人物だった。皇族の1人ながら高田派の後継者争いに2度破れたものの、皇族であることは変わりない。その真智を、逃亡中であったため末端の兵が捕縛の命令不徹底で殺してしまったのである。


「幾人かの国衆から如何成って居るのかと文が届いて居る。溝江の若当主からもだ。」

「殿を訪ねたいと記している者も居る。此のままでは誤魔化しが出来ぬぞ。」


 先日以上に混乱する彼らに、景鏡が舌打ちを止めてにやりと笑う。その場ですっと立ち上がり、焦りの表情を浮かべた諸将を見下ろす。


「各々方、此の様な状況に成った以上、最早誰かが上に立たねば戦う事すら儘なりませぬぞ。」

「そうは申すが、其方が大将に成るのは皆が納得する物では無いぞ!」

「無論。然れど総大将が長夜叉様なら如何か?」

「なっ……」

「其方、まさか元服前の長夜叉様を出陣させる心算か!?」

「他に何か手が在るので?」


 その言葉に、全員が口を噤む。


「総大将は長夜叉様。其の下に我等から数名が補佐に就き戦を差配すれば良い。此のまま何も出来ずに斎藤に滅ぼされますか?」

「……良いだろう。他に手は無い。癪だが、乗ってやろう。」

「結構に御座います。若の傅役が側に付けば問題も在りますまい。」


 全員が渋々といった様子でそれを受け容れた。

 他に手が浮かばなかった為だが、とにかく状況は整ったのである。


「ささ、皆々様。戦の支度を願います。勝たねば我等は終わりなのですから。」


 その言葉に嘘はない。しかし誰もが朝倉景鏡という男を信用できないという視線を向けていた。

 

朝倉孝景の史実での亡くなった日と同じ日に退場。死因は書物だと急死を意味する言葉しかなかったので、今作では季節柄多そうな脳梗塞にしました。脱水症状で誘発しやすいのでこれからの季節皆様も十分ご注意くださいませ。


真智を討ってしまったことで益々窮地の朝倉氏。次話からいよいよ越前国内での戦が始まります。

主人公の活躍だけでなく、朝倉景鏡という男にもご注目頂ければ幸いです。

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