第139話 妹のためならば俺は産婦人科医にだってなれるかもしれない(なれない)
美濃国 稲葉山城
立春の頃。信長が遊びに来た。蝶姫も一緒だ。
「久しいな義兄上。此の前貰った『北風と太陽』は面白かったぞ!」
「御久しゅう御座います。兄上が薬の件で御怒りと伺いましたよ。」
蝶姫(嫁いだことで濃姫と呼ばれるようになったらしい)も今年で数え14歳。周囲からは世継ぎが求められ始める時期だ。体も嫁いだ時より全体的に女らしさが増した気はする。性的な目で見る気はないが、乳がもう少し育てば実母の小見の方を超えるだろうに。そこが悔やまれる。
「義兄上、濃は今でも事在る毎に兄様は兄様はと五月蝿いですぞ。」
「当たり前です。今の御前様では兄様の半分程しか凄くありませぬ。」
「おや、以前は義兄上の毛程にも及ばぬと申して居ったのに。随分俺も男を上げた様だな!」
「……知りませぬ!」
いわゆるツンデレか。日本史に燦然と輝くツンデレの系譜の始まりか。
「で、次の遠征は叔父上が行く事に成ったのでな。其れも知らせようと思ったのだ。」
「ふむ。という事は弾正忠殿も出ないのか。」
「長島が落ちたばかり故な。俺も後を継ぐ為の準備で忙しいのよ。」
どうやら弾正忠信秀殿の弟織田信光殿を大将に、佐々政次・佐々孫介兄弟と柴田勝家・飯尾定宗・丹羽長政・前田利春・榊原長政といった将が来るらしい。総勢4000。十分すぎる程十分だ。
「長島から脱走した者共は晒し首とした。本願寺の者が残した者であろうが、断定出来る何かが在るわけでは無い故警告に留めた形よな。」
「また本願寺には恨まれるだろうな。」
「義兄上、人から恨まれぬ事など出来ぬ。若し其れが出来る者が居たとしたら……」
「其れは誰にも知られて居ないか、誰にも顧みられぬ者。」
「義兄上は『ひきょうなこうもり』に成りたい訳ではあるまい?」
先日贈ったもう1つの絵本だ。蝙蝠が鳥と獣の争いで時々で優勢な方に味方した結果、仲直りした鳥と獣の仲間外れにされる話。あらゆる人と仲良くするなんて不可能だ。それは自分でもわかっている。だから朝倉と戦うという思いもこめて、信長に贈った。
「信長。俺は日ノ本を戦で死ぬ人が居ない国にしたい。」
妹が少し自慢げに胸をそらす。別に高尚な意図はない。戦で死にたくないし、長寿のためには合戦のストレスなんてない方がいいのだ。
「そして、医で救える人は出来る限り救いたい。其の為に、朝倉を……景鏡を、討つ。」
「うむ。弾正忠家、盟約に基づき、全力で援けようぞ。」
信長は左えくぼを浮かべながら、少しハイテンションに応えてくれた。そんな信長を、妹は穏やかな顔で微笑みながら見ていた。
♢
翌日。泊まっていった妹夫婦について、豊から大事な話があると呼ばれた。
「殿、蝶様なのですが……」
「何か在ったか?」
「お休みに成る前に少し御話をさせて頂いたのですが、如何やら月のモノがかなり不安定な様子で御座いまして。」
「月のモノ……生理か!」
今の豊は日本最高の産婦人科医となっている。俺が得ていた婦人科の知識と多くの産婆の経験などを吸収し、俺以上に女性の診察をこなしてきた彼女は正に日本最古の女医であろう。
そんな彼女に数年前から俺はある依頼をしていた。それがこの時代の女性の月経、つまり生理の状況調査だ。生理は栄養状態やストレスなどで不順になりやすい。戦乱が続くこの時代、女性はどの程度生理周期があるか、そしてそれにどう対処しているかを俺は知らなかったのだ。
デリケートな問題なので女医や女性看護師を軸にこの計画は進めている。データを集め本の形でまとめてもらっているが、現代女性より環境適応しているためかストレスや栄養失調が多少あっても周期は一定している女性が多いようだった。
だが、豊が妹に聞いた限り彼女はそうではないらしい。
「婚儀の前後も安定して居られなかったのですが、尾張に行って暫くも来ない日が続いたそうで。親しい人が側を離れると不順となる事が多いそうです。畿内に殿と三郎様が行かれた先年も不安定だったと。」
「最近は如何なの?」
「年明けから少し乱れて居られると。年初の集まりで一族の方から跡継ぎを求める声を聞いたらしく。」
「蝶は表面上は気丈な娘だ。傍目では何とも無いと見せては居るだろうが、実際は寂しさや不安が在るのだろう。」
史実で信長との間に子供が産まれなかったのはこれが原因か。生理不順にこの時代にしてはなりやすいのだ。
史実の斎藤一家は守護家から下剋上しているし、政略で信長に嫁ぐし、実家は兄と父で仲違い。最後は父親が兄に殺されたわけで。
うん、まぁ耐えられなかったのだろう。心はともかく体が保たなかったのだ。流産も記録にはないがあったかもしれない。
「如何致しますか?やはり当帰芍薬散を?」
「川芎も安定して栽培出来る様に成ったから当然だけれど、其れと根本の原因も何とかせねばなるまい。」
「寂しさや不安の方ですか?」
「うむ。信長と話しておこう。其れで大分変わる筈だ。」
こういう問題は大体医者だけでは解決しない。周囲の理解や協力あってこそだ。俺は家族でもあるが、今は離れて暮らす立場だ。これを解決しなければならないのは夫である信長なのだ。
♢
「つまり、俺が傍に居ないと子作りも儘ならぬ、と?」
「まぁ、そもそも子供が欲しいなら一緒に居なければ出来ぬがな。」
信長は少し困った様子である。
「俺は弾正忠家の跡継ぎだ。義兄上と京に行った様に遠方へ出る事も少なくないぞ。」
「うむ。だが蝶は寂しいと顔には出さぬが体に支障を来たすのだ。」
「女子とは難しいの。日頃から折り紙を強請るのも其れが理由か?」
「不安が強いと形在る物を安心感の代わりに欲しがるからな。」
「側室に遠江の井伊の娘をという話を貰った時も日が沈む前から絵本を読んでくれと付き纏って来ていたが、其れも此れか。」
よく考えれば、戦に出る前後や外での仕事の前後は昔から物をねだる事が多かった気はする。家族と離れ離れになるのが不安だったのかもしれない。
史実ではそういうものは貰えなかっただろうから、余計辛い思いをしたのかもしれないな。
少し思案顔でうんうん唸っていた信長だったが、頭の上に電球マークでも現れそうなくらいわかりやすく閃いた顔つきとなった。
「そうだ、子が出来れば良いのだ!」
「おいおい」
「いやいや、義兄上。義兄上と御正室の仲睦まじさは濃も羨ましがって居った。此れも嫁いで間も無く子が出来たからこそだ。」
最高のおっぱいだったから俺が全力で愛したとは口が裂けても言えない。
「子は鎹と申すであろう。互いの血を分けた子を宿せば不安なぞ吹き飛ぶ筈よ!」
「……まぁ、間違ってはいないが。昨日月のモノが来たばかりだ。此処に其方と来て安心したのだろう。少し待ってやれ。」
「くっ……あの肌触りの良い尻は御預けか。」
ちっ、この尻党め。親子揃って尻好きとか変態じゃないか。人類の母なる根源は乳だと何度言えばわかるのだろうか。
「まぁ、義兄上の言う通り今後は気を付けよう。幸い今年は余程何か無い限り遠江か尾張で共に過ごす故な。危ない物で無い限り出来る限り連れ回すとしよう。」
「そうしてくれ。俺の可愛い妹だ。仲良く過ごしてくれるのが俺にとって一番だ。」
「任せよ。其れに就いては自信が在るぞ!」
笑った時の左えくぼに父親譲りの力強さを感じるようになってきた。
どうかこの夫婦が困難にも負けず幸せであらんことを。
俺はそう、強く願うのだった。
弾正忠家からの援軍は結構豪華です。ぼちぼち有名な武将の影が見えてきた頃かな、と思います。
蝶姫こと濃姫の少し我がままな性格などは実はこの生理不順の伏線だったのだーという話。
彼女は不安を感じたり寂しさを感じたりするとストレスで生理不順になるという設定です。
史実では最初に嫁ぐのが不倶戴天の敵となっていた土岐一門という説もありますし、信長に嫁いだ時も味方はほぼいない状況。そして親兄弟は憎しみの連鎖。最後は実家を夫が滅ぼすことに。
彼女は精神的に強くならざるをえなかったのかな、と思います。だからこそ、強くなる過程で女性としての大事な部分を失ってしまったのではないか、というのが本作を書く上で自分が抱いた仮説です。
本作ではストレス源が意図せずして激減していますので、漢方薬と適切なストレス軽減が出来れば子供が出来るはず!という主人公の願いです。産まれるか否かは今後のお楽しみということで。
次回は朝倉側の視点と越前侵攻開始までになる予定。忙しさのピークは過ぎているのでそろそろ週3投稿に戻したいですが……ワールドカップ次第な部分もあります。




