第135話 温度計と病院
修正が追いつかない程度に忙しいですが、定期更新はなんとか守っていきたいと思います。
美濃国 稲葉山城
その知らせを、俺は一日千秋の思いで待っていた。
「殿、温度計なる物の為に作らせていた玻璃の棒が完成したとの事。」
「直ぐ行くぞ。実物を確かめねばならん!」
今回で完成したという連絡は3回目だった。帰国直後の今回は結構期待している。最初の知らせではガラスから水が漏れる場所があるくらい出来がまだまだだったが、前回はかなり良い具合になってきていたのだ。
仕事は多いがこれについては前々から言っておいたので、十兵衛も新七郎も文句は言ってこないでついてきた。どれだけ有用か説明しておいたのも影響しているだろうか。
「いいえ、殿を止めても無駄だと分かっただけです。」
「此れさえ無ければ真面目に務めに邁進して頂けるので、此れ位は良いかと。」
……理解のある部下で俺は嬉しいよ。
♢
ガラス作りを始めてからおよそ10年。やはりこれくらいは必要だったということだろう。
「如何でしょうか?」
「悪くない。いや、素晴らしいと言って良い!」
水銀を入れて溜まりの部分は少し前に出来ていたが、その先のくびれが再現出来なかったのだ。型が悪いのか微調整する職人の腕が未熟なのかは分からなかったが、今回でその問題点が解消されたわけだ。
「玻璃の棒を伸ばす時に僅かに『待つ』必要があった様で御座います。」
「感覚的な部分は何とも分からんな。で、空気は入っていないのか?」
「殿が仰る通りに、水銀を温めて管の上まで来た所で溶けた玻璃を被せました。」
「其れで上に少し水銀の粒が密閉されているのか。」
「其の様な細かい部分に迄手を加えられる程腕が良くない物で。」
「いや、十分だ。完璧と言っても良い。」
管の中を真空状態にするのはこの時代では難しい。最初は小学生の時理科の教科書で見たガリレオの温度計を作ろうと思ったが、あれは簡単に作れるものだと気圧の影響を受け過ぎるのでやめた。
水銀が容易に手に入るのが分かった段階で温度計は水銀と決めていた。細かい温度の上下は計れないが、精度でいえば水銀が現在でも一番だ。
「きちんとマスクはして作業したか?」
「彼れは息がし難いので嫌ですが、殿の命ですので徹底させて居ります。部下も嫌々で御座いますが。」
「其れで良い。作業に依っては肺に毒が入り兼ねない故な。」
最初は給料を増すと言っても嫌がっていたマスクの着用。典薬頭の官位を得てからは渋々だが従うようになってくれた。権威とは大事なものである。
「では試用だな。確か伝兵衛が今日は勤めだったか?」
「では屋敷まで御持ち致します。」
「頼む」
♢
稲葉山に昨年整備した病院は3つの入り口に分かれている。誰でも治療が受けられるが医師の卵や見習い医師、見習い看護師が勤めている丙医院。武士や職人が治療を受ける乙医院。国人や親族などが入る甲医院だ。乙医院は兵士や職人とその家族への福利厚生を兼ねている重要施設だ。
丙医院は言わば大学病院の役割も担っている。新しい薬の治験や新しい道具の試用を行う代わりに無料で診察が受けられる。或いは既存の薬や治療の訓練をしている医学生の診察を受ける。ただの奉仕でやれる程懐事情が無限に良いわけではないのだ。
で、ここには道具の試用を担当する職員がいる。兵として戦に従事し、負傷して兵として戦えなくなったが体は健康な者たちだ。伝兵衛はその1人で、戦で左足に受けた矢傷のせいで満足に走れなくなった男である。普通はまともに稼ぐ手段がなくなるこの時代だが、彼のような人間はうちで各種の仕事を割り振っているわけだ。
最初は福祉の面から年金的な形で養おうとしたが、皆に反対されたし何より彼ら自身に止められた。曰く、琵琶法師ですら自らの力で稼ぐ、と。
ならば出来る限り負担にならない方法で貢献してもらおうということでこういう形に落ち着いたわけだ。
「で、使い心地は如何だ?」
「は、玻璃なんて畏れ多くてとても腋に何て挟めませんだ……」
それは予想していなかった。
「た、体温を計る実験だから何とか遣って欲しいのだが……」
「こんな細い玻璃の棒、挟んで折れたらと思うと、手、手が震えて持つのも……」
実際に小刻みに震える伝兵衛を見ると何も言えない。自分で使うのは父が許してくれない。仕方ない。
「新七郎、出番だ」
「大分便利使いされる様に成った気が致しますね。」
以前別件で玻璃を扱った新七郎は、慎重にだが何とか温度を計る動作が出来た。しかし同時に、これは人間用に使うのは色々な意味で難しい事も意味していた。
高級品過ぎて貧乏人ほど予防的に使いたい体温測定ができないわけで。
「結局、実験と甲の医院での利用が限界か。」
「お湯が煮え滾る温度を百度、氷る温度が零度。零度が未だ某には分かりませぬが。」
「十兵衛が知るべきは人の体温は35度から37度が平常という事だけだ。」
「まぁ、此の体温計とやら細すぎまするな。恐ろしくて出来れば使いたく無いです。」
十兵衛ですら怖くて使えないのでは困るのだが。
結局、温度計は毎日決まった時間に気温を測定するのが主となってしまった。女性陣も怖くて使えないと言われてしまい、自分の体温のデータ化と子供のデータ化くらいしか出来ていない。
温度計としては湿球温度計も隣に並べ、その差から湿度を出す専門職も孤児院から採用した。計算ばかりが好きな子で他のことをやりたがらないというので、ここではうってつけだろう。前世で使った乾球湿球の温度差から湿度を求める表を渡し、毎日設置した地域のデータを手旗信号で稲葉山に届けさせる。昼ごろには温度・湿度・気圧のデータが揃うようになったわけだ。
湿度の変化は雨の警戒を促せるし、霜や雪への警戒も冬が近くなると可能だ。
「ふむ。天候を先読み出来ると成ると軍師が不要に成りかねませぬな。」
「しかし十兵衛、天候だけが軍師の仕事ではあるまい?」
「確かに、吉兆を見るも星見も軍師の仕事ですな。」
最近はそのへんも平井宮内卿から習っているという十兵衛にとって、温度計はある意味強烈なブレイクスルーになるようだ。
「天候は時に人の生死を何よりも操りますからな。其れが先読み出来るなら万の策より国を治めるに必要に御座います。」
「まぁ、前線が近付いているとか雲が出来やすいとか台風近いかもだけでも圧倒的に情報面で優位か。」
「左様。流石玻璃の道具ですな。」
ガラスは特別関係無いのだけれど。まぁでもガラスの密閉性だからこその温度計でもあるか。
♢
さて、甲医院は国人や有力な子女のために使われる現状で最高の治療が施される場所だ。ある程度安定供給が可能になったアルコールを使って消毒も頻繁に行っており、そして最近試作したある物もここには置かれている。それが、
「陶器の便所、ですか。何故此の様な発想を?」
「新七郎よ。此れは優れ物だ。糞尿が水で簡単に流れる。遠く南蛮の羅馬では嘗て水で糞尿が流れる清潔な厠が多く作られたという。此れは其の水洗の厠を再現した物よ。」
「確かに床に埋め込まれている故持ち帰る者は居りませぬし、掃除はし易くなったと評判ですが。」
わざわざ実験的にここに来た人間に使わせているが、彼らにとっては今までと変わらないものの働く人間の評判は良い。
陶器の産地で比較的陶器は安価に使われているのもその要因かもしれない。これが玻璃だったら誰も使ってくれなかっただろうし、猪毛のブラシでゴシゴシ洗うなんてことも出来なかっただろう。
「日々掃除をし、糞尿が洗い流せて清潔な厠。此れぞ病の元と成らぬ理想の厠よ。」
「殿が日頃から注意せよと仰っている糞尿で病が人から人へ伝わるというのを防ぐのですね。」
「まぁ、此れも作るのに金がかかる故今は此処と稲葉山・大桑の屋敷にしか付けられぬがな。」
とはいえ、徐々に水洗便所は普及させたいところだ。そして糞尿は回収して肥料や硝石の材料にしていく。
「何れは此の陶器厠を日本全国に広め、衛生的な住環境が人々の当たり前としたいところだな。」
「夢は壮大に御座いますが、先ずは陶器の値を安くせねば此の近隣でしか使われませぬよ。」
「分かって居るよ。其の為にも妻木殿の窯が軌道に乗らねばな。」
少しずつ技術が進んでいる。出来る事も増えている。ならばそれに合わせて慌てずに改良していくしかあるまい。
甲医院の院長は半井兄弟の兄である寿琳が務めている。弟の瑞策はまだまだ学び足りないと言って俺の側を離れない。曲直瀬道三は現状乙の医院で治療経験を積みつつ、そのうち尾張に派遣して尾張の医院長でもさせようかと考えている。
ペニシリンも少しずつ作る人間が慣れてきたためか成功率が上がって使える量も増えている。と言っても耐性菌を気にするほど濫用できる分量ではないので今は気にしていないが、将来的に大量生産が可能になればセファスロポリンや更に次の薬が必要になるだろう。
なので、ガラス職人には次の使命としてレンズ作成を命じた。接眼レンズと対物レンズという2つのレンズで構成される顕微鏡はこれまた時間がかかる物だ。しかし作らなければ細菌から薬を作る道はほぼ絶望的である。
「ローマは一日にして成らず、か。まだ時間は在るが、怖いな。」
これにも10年かかったら1557年。寿命まであと4年しかない計算になる。
僅かに見えてきた史実の寿命がちらつくが、だからといって焦っても良い事はない。
豊の膝枕で甘えつつ、心を落ち着ける。大丈夫だ、俺は絶対生き残る。そして信長を導いて、より良い未来を築いて見せるのだ。
「甘えても良いですが、お腹の子には負担を掛けないで下さいね。」
……女は強いな。
温度計完成です。当然ですが水銀溜まりの精度や留点の細さなどには粗さがあります。しかし当時としては真空状態などかなり画期的なものになっています。だからこそガラスの高級という視点が普段使いを許さないジレンマ。
病院はついに整備が進みました。とはいえ今は半分実験場的な意味合いがあり主人公の目指す「本当の弱者救済」とは違うものです。しかし一歩一歩でも進めないとダメという考えがこういう形で出てきているということになります。その分国人向けの金をとれる医院は衛生面などで今できる最高の設備を整えています。
次のガラス用具チャレンジは顕微鏡。対物レンズと接眼レンズは別物な上精度が落ちると像が結べないので難易度は高いです。しかも主人公が求めるのは両方で100倍単位の倍率。どれだけ時間がかかることやら。




