第118話 濃尾大乱 その4 織田上野守信長?
尾張国 那古野城
織田弾正忠信秀は、その報せを聞いて尚動く気配を見せなかった。
「故に、武衛様は御子息だけでも逃がさんと正面に忠臣達を放ち、自ら裏口から逃げる動きで敵の追っ手を引付けてお亡くなりになられました。」
涙ぐむ語り手は名を牧長義。武衛こと斯波義統の一族で正室は弾正忠信秀の妹である。側に控える林佐渡守に、彼はまるで観劇の役者がごとき身振り手振りで会話を進める。
「家臣で何とか生き永らえたのは彼の子を逃すのに従った太田又助なる者など僅かばかりで。」
「そも、何故武衛様は奇襲を許したのだ?」
「甲斐氏が大和守の家臣と繋がって居った様で。遠江守護代を弾正忠様に奪われたのを恨んだとか。」
その言葉に、口を噤んで聞いていた弾正忠信秀が大きく息を吐くと声を上げた。
「遠江での戦で諦めたかと思いきや、恥を知らぬ一族だったか。」
「殿、まさか名門の甲斐氏が其処まで分別を失っていたとは誰も思いませぬ。致し方無いかと。」
甲斐氏は元々応仁の乱の頃遠江守護代を務めた名門である。しかしその後今川氏に圧されて遠江の領地を失った。
武衛の側にいたのはそんな一族の生き残りであり、プライド以外何も残っていない悲しき一族だった。先の今川義元との戦でも従軍していたが、武衛より先に後方に下がり何一つ役に立たなかったために守護代を受け継ぐことを許されなかった。
「其れで、弾正忠様は如何される御心算で御座いますか?」
「今は未だ本格的には動かぬ。典薬頭殿の戦が如何なったか分かってからだ。」
「長島は清洲に兵を送ったとの事。津島も城も襲われて居りませぬ。」
「守りの固い城を攻めれば機を逸する事は流石に分かって居ったか。まぁ良い。津々木、清洲城下の様子を調べて参れ。」
呼ばれたのは津々木蔵人。土田御前の寵愛する信長の弟に残された数少ない家臣である。
「そ、某で御座いますか?」
「うむ。清州の動きを其方の部下を使い調べさせよ。」
動揺が隠せない津々木だが、土田御前に命じられて清洲城の大和守信友と連絡を取っていたのがこの男である。
「……かしこまりました。」
その様子に鼻白んだ弾正忠信秀は、彼が部屋を出た後林佐渡守に語りかけた。
「彼れ程咋だと却って疑って良いのか判断が付かなく成りそうよな。」
「全くに御座いますな。余程味方する者が少ないと見えまする。」
「そう仕向けたのだがな。佐渡守も三郎は気に入って居らぬであろう?」
「如何程の阿呆でも三国を支配し、裏切る心配の無い仁義の厚い義兄を持てば何とでも成りましょう。我らの話を聞かぬでは困りますが。」
「安心せい。人の話を聞くだけ聞くのは彼の義兄殿が絵本で教えてくれた。下手に正室の意向が強いより余程其方は遣り易い筈だ。」
大きく溜息を一つついて、林佐渡守は「殿も無茶を仰る」と呟いた。
♢♢
津々木の部隊が清州に向かった直後、土田御前は「安全上の理由から」那古野城内の地下に移された。事実上の幽閉である。
三郎信長の弟妹らは個室を与えられ彼女とは別の部屋に護衛と共に住居を移した。
「津々木が居ないと相互の連絡すら出来ぬのか。良く此の程度でわしを欺こうとしたな。」
「殿が清洲に兵を送れば此の城が手薄になると思って居たそうで。」
「内憂が有るのに外患に取り掛かるのは時と場合を見ねばな。典薬頭は土岐を見て外患を先に討った。内憂は動く力が無いと見て、な。」
土岐二郎頼栄の味方が少なかったこと、兵の集まりが悪い事を見抜いたからこそと弾正忠信秀は言う。
「其れに、そろそろ三郎が我慢出来ずに大暴れして居る頃よ。向こうの様子が分かってからでも遅くはあるまい。」
♢♢
遠江国 井伊谷城
燃え盛る小野氏の屋敷の前で平伏する井伊氏の一族を見ながら、三郎信長は不服という様子を隠そうとしなかった。
「其方等が任せてくれと言うから父上は井伊谷を任せて居った。其れを俺も信じた。なのに此の体たらくよ。」
「返す言葉も御座いませぬ。」
そこに、騎馬を降りた柴田権六が近付いてくる。
「若様、小野政直の子は如何なさいますか?」
「殺せ……と言いたいところだが、遠いと言え井伊の一族でも有るのだったな。仏門に預けよう。龍潭寺は一族所縁の者の寺だったな。其処に入れろ。」
「ご配慮、痛み入ります。」
頭を下げ直した井伊の一族を一瞥すると、彼は平手・柴田・佐々といった諸将に矢継ぎ早に命を下す。
「初陣だからと油断してくれたのは小野だけぞ。次は城を固めて我らを待ち構えていよう。気を抜くな、敵は吉良一族也!」
「応ッ!」
織田三郎信長。領内で大規模に発生した反乱に対し、遠江の諸将を瞬く間にまとめ上げ遠江唯一の反乱勢力小野氏を自ら3000の兵で討伐。
初陣としては非常に珍しい形だったものの、彼はそのまま三河領内の反乱に加担した吉良氏を討つべく小野討伐後すぐに動き出した。
「よし、吉良氏は上野介であったな。挑発の意味を込めて上野守の名で吉良氏に文を送りつけてやれ!」
「え、あの、若様其れは……」
「何だ。意見が有るなら申せ!」
側に居た小姓の1人を睨みつけるように見ると、彼は竦んで物を言える状況でなくなってしまう。
「言う事が無いなら早く準備せよ。時間が惜しい。平手の爺も柴田も下方も皆働いて居る。此方で出来る事は進めるのだ。」
「は、はぃぃぃ」
実際は初の実戦を終えて気が高ぶっていただけなのだが、結果的に偶然が重なってこの文は吉良氏の元にそのまま届くことになった。
「織田上野守とは……物を知らぬ『うつけ』の評判、真の様ですな!」
吉良氏の家臣が彼を舐めきったのは当然であった。
そして、それから彼は神速ともいえる用兵で、吉良氏の重臣である大河内一族を族滅することになるのであった。
しかし、この手紙は幸か不幸か後世に伝わり、信長のうっかりエピソードとして500年の未来にも語り継がれることとなる。
♢♢
三河国 東条城
吉良氏の家老格である大河内信貞ら一族を討った信長率いる軍勢は東条城に入城した。三河では戸田一族からも離反者が出るなど混乱が見られたが、信長が遠江から率いた5000の軍勢によって各地の造反者は孤立し各個撃破された。大河内一族も西条吉良氏側から見限られ、東条吉良氏の居城と共に挙兵した家臣は悉く討ち取られた。
東条城を押さえつつ桜井松平氏の状況を調べさせていた信長は、そこにやって来た一人の使者からの報せに驚愕した。
使者は鳥居忠吉。岡崎の松平広忠からであった。
「上野上村城を落とした?」
「はっ、5日前に。我が殿松平次郎三郎は桜井松平の謀反を聞き、三河守護代に使者をお送りしましたが御返事芳しくなく。仕方なく目の前の脅威を討つべしと酒井殿に具申し自ら兵を率いて打ち破りまして御座います。」
信長が三河まで乗り込んできたのには理由がある。安祥城に居て三河守護代を務め、上ノ郷城も管理する庶兄の織田信広の動きが鈍かったのだ。彼は岡崎城が敵に回ると考えて籠城の準備に即座に動き、上ノ郷城にも敵に備えるようにしか命令を出さなかった。しかも桜井松平の反乱は佐久間氏の動きも封じてしまった。結果的に遠江を早期に混乱から復活させた信長の軍勢が上ノ郷城に入り、そのまま吉良氏の反弾正忠派を一気呵成に攻め滅ぼしたことでこの心配は杞憂に終わった。
しかし岡崎を警戒したことで三河の戦力をまともに使えなかったのは事実であった。その隙に岡崎の松平広忠は逆に桜井松平氏の松平清定を打ち破り、見事城を確保していた。
「で、其方の主は何と?」
「御引渡し致します故相応しい方を御送り願いたい、と。」
「分かった。上ノ郷の近藤九十郎を送ろう。松平の忠節、俺から父上に確と伝える事約束致す。」
「我が主君も喜びましょう。其れでは、御邪魔に成らぬ様下がらせて頂きまする。」
信長は独断で決められない事でもあるため、即座にこの申し出を受けた。庶兄の立場もあり、父の決裁を仰ぐべきであることを理解し、相手がそれを理解していることも理解しての決断だった。
そして、鳥居忠吉が下がると同時に平手政秀を呼ぶ。
「吉良の後始末を終え次第尾張に向かう。松平殿には其の間国人衆に不穏な動き有れば兄に御伝え頂きたいと伝えておいてくれ。」
「若様、留守居は守護代様に御任せするので?」
「警戒心が強い兄上だ。松平も完全に信用せずに上手く沈静化させてくれようぞ。」
「かしこまりました。では安祥城に使いを。」
「頼む」
周りに同年代以外がいなくなったところで、信長はつい愚痴をこぼした。
「戦は始まる迄と終わってからが面倒だ。義兄上が戦を嫌がるのも分かる気がするな。」
一応解説。上野守も上総守同様親王任国なので名乗れません。史実では今川に対抗して上総守名乗りましたが、この世界線でも因果からは逃れられませんでした。
土田御前、史実より周りに頼れる人がいなかったため動きがバレバレであっという間に潰されました。
斯波の武衛様退場の理由は内部に内通者が出た為。本来敵対しないはずの甲斐氏に恨みを買っていたという形です。代々守護代だったのに弾正忠にとられた!という実にあれな理由ですが。
信長の初陣の敵は小野政直。某大河ドラマの関係が結構名前・地名で出てくる回でした。地図ではわかりにくいですが、省略されている地域で少しずつ反乱起こしている人はいます。細かいので扱わないだけです。ですので一部地域だけ反乱が起こっているわけではないです。
次話からいよいよ二郎サマとの対決へ向け動いていきます。




