第5話 第一角-数字 2
酒宴が催されている同僚の自宅に、筆頭財務官が顔を真っ青にして駆け込んできたのは、宴もたけなわになっていた頃だった。
すでにしたたかに酔い始めていた同僚のひとりが、酒杯を手にして筆頭財務官を迎え入れる。
「遅かったな。まあ、まずは一杯やろうじゃないか」
そう言って酒を勧めてくる同僚の手を筆頭税務官は邪険に振り払った。
まさか、このような仕打ちを受けるとは思っても見なかった同僚は、怒るよりも唖然としてしまう。
白けた雰囲気が漂う宴席をぐるりと舐めまわすように睨んでから、筆頭財務官は重苦しい口調で告げた。
「正直に言ってくれ。この中で、小麦に手をつけた者はいないか?」
途端に、数名がばつが悪そうな表情を浮かべて、顔をそらした。それを目ざとく見つけた筆頭財務官は激昂する。
「おまえらかっ! 小麦は私の管轄だと決めていたじゃないか!」
「そう怒るなよ。ちょっと予定外の出費があって、借りただけさ。すぐに戻すさ」
「ああ。ここはお互い様って奴だろ?」
卑屈な笑みを浮かべる同僚らに筆頭財務官の顔が、まず怒りで真っ赤になり、次いで血の気が失せて青ざめていった。
なぜなら、言い返せなかったからだ。
思い返せば、横領が露見しないように注意を払っていたのは最初だけだった。酒と女さえ与えておけば一切政務に関心を持たなかったヴリタス王弟に、横領が露見するのではないかという緊張感もいつしか薄れてしまい、「自分だけなら」と他人の管轄する税に手を出したこともある。
「なんてことだ……!」
まるで顔料で塗り替えるように顔色を変えた筆頭税務官は、ついに足腰から力が抜け、その場に座り込んでしまった。
そのときになって、ようやくただ事ではないことに気づいた同僚たちがざわめく。
「いったい、どうしたんだ?」
その問いに筆頭財務官は、ぼそりと呟く。
「……バレているんだ」
「バレている?」
おうむ返しに問われた筆頭財務官は、怒鳴り声を上げた。
「そうだ! バレているんだよ! 新しい領主の奴は、俺たちが横領をしていることに気づいているんだ!」
筆頭財務官は、これまでの経緯を一気にまくし立てた。すべてを吐き出すと、筆頭財務官の胸の中にフツフツと怒りが沸いて来る。
「ちくしょう! 私はちゃんとヴリタスの野郎に全部押し付けてやったのに、おまえらが勝手にやりやがったから! おまえらのせいで! おまえらのせいで!」
ようやく事態を把握した同僚たちの顔からも、一気に血の気が引いた。
「帳簿を見たってのは、今朝なんだろ? それで何で、もう横領がバレたんだ?」
「そんなの知るか! 新領主は、一目で横領を見抜いたそうだ!」
「ひ、一目で……?」
「そうだ! 計算盤も使わず、一目でパパッと横領を見抜いたんだよ!」
筆頭財務官の怒声に、宴席はシンッと静まり返った。
しばらく官吏たちは互いに無言で顔を見合わせていたが、そのうちひとりが恐る恐る提案する。
「だ、だが、たまたま計算を間違ったって言い張れば良いんじゃないか? ほら、なくなった分については、勝手に倉庫を漁った獣どもに、全部持ち出されたってことにすれば……」
官吏らの間に、それもそうだなと、ホッとした空気が流れる。
しかし、それも誰かが呟いた一言で吹き飛ばされた。
「もしかして……最初っから知っていたんじゃないか?」
それは、まったく見当違いの憶測でしかなかった。
だが、彼らからしてみれば、初めて見た記録から瞬く間に横領を見つけ出したというよりも、納得できる話だ。
「知っていた? しかし、それを今さら……」
「そう言えば――」
その官吏は、ひとつ大きく咽喉を鳴らしてつばを飲み込んだ。
「――俺たちを最初に集めて、『不正は許さない』と言ったのは、あれは言うなら今だぞって意味だったんじゃ……」
それに、官吏たちは酔いが一気に醒めた。
「じゃあ、首を刎ねてやるって脅したのは、このことか?」
「で、でも、どうやって俺たちの不正を暴いたって言うんだ?」
「確か、あのガキは死と破壊の女神の御子だとか……」
「まさか、御子の力で……?」
ざわりと空気に怯えが走る。
「俺は、あのダリウス将軍が率いる軍をおかしな力で消し飛ばしたと聞くぞ……」
「それだけじゃない。ダリウス将軍が屋敷にこもっているのは、恐ろしい呪いで死にかけているとか……」
憶測が憶測を呼び、いつしか荒唐無稽な噂話まで飛び出して来る。もはや不正が露見した理由を探るのではなく、自らで理由を作り始めていることに、官吏らは気づいていなかった。
そのうちに、ひとりの官吏が席を蹴るようにして立ち上がる。
「き、急用を思い出したので、わたしはこれで失礼する!」
そう言うと、取るものも取りあえず屋敷を辞去して行った。
官吏たちの胸の中に、「逃げたな」と言う言葉が同時に浮かぶ。
それを皮切りにし、次々と官吏たちは席を立った。
「私もやらねばならないことがあったのだ。これで、失礼するよ!」
「私もこれから予定があるので、失礼します!」
「妻が体調を崩しているので、私もこれで」
あっという間に客人すべてが辞去してしまい、ひとり残された屋敷の主人である官吏は、誰に言うともなく言い訳を口にした。
「わ、わたしも実家の母が危篤で……」
◆◇◆◇◆
翌朝、シェムルの作った朝食を食べ終えた蒼馬が、予習も兼ねて昨日取ったメモを眺めていると、そこに髪をふり乱したミシェナが飛び込んで来た。
「た、大変でございます、領主様!」
ミシェナの姿に、ただ事ではないと察した蒼馬は真剣な面持ちになって問い質す。
「いったい、何があったの?」
すると、顔を蒼白にしたミシェナは恐る恐る言った。
「そ、それが官吏の皆様が、今朝になって誰ひとりとして出仕されていないのです。それで、心配になって、ご自宅に伺いましたら――」
そこで、ミシェナは言いよどむ。
「――ご自宅はもぬけの殻で、誰もいらっしゃらなかったんです!」
一瞬、何を言われたか蒼馬も理解できなかった。しばらく茫然とした後、我に返った蒼馬は事態の把握に努める。
「もぬけの殻って、家族の人もいなかったの?」
「はい! それに、家の中がしっちゃかめっちゃかで、まるで夜盗にでも入られたみたいな有様なんです!」
予想外の事態に、しばし蒼馬はシェムルと顔を見合わせる。
「……どういうことだ、ソーマ?」
「分からないよ。――とにかく、官吏の人たちの所在を確認しよう」
蒼馬が官吏たちの所在を調べさせると、間もなく街の入り口に詰めていた門衛から報告が上がってきた。
今朝、街門が開くのと同時に、官吏たちが大荷物を載せた馬車で家族と共に街から出て行ったというのだ。それを門衛たちが咎めもせず、また報告も上げなかったのは、以前から蒼馬が、街を退去したければ引き留めはしないと告知していたからである。
自分についていけずに街を退去したというのならば、蒼馬も仕方ないと思う。
しかし、前日まではそんな素振りも見せなかった人たちが、示し合わせたようにそろって街から逃げるようにして出て行くのは、いくらなんでもおかしい。まるで集団での夜逃げのような行動に、さすがに不審を覚えた。
「シェムル! ガラムさんたちに連絡。急いで逃げた人たちを捕まえて!」
「ああ、わかった!」
シェムルから連絡を受けたガラムは追跡部隊を編制するとともに、自身はハーピュアンのピピ・トット・ギギの下へ赴いた。
「すまぬが、手を貸してもらいたい」
「承知いたしました、ガラム殿!」
ガラムの要請に、ピピは薄い胸を張って快諾した。
官吏らが街から逃亡してから、すでに数時間が経過していたが、その程度の遅れは大空を翔るハーピュアンにとっては何ら問題にならない。ましてや官吏らの乗る馬車も、荷物を満載にしていては、その足も鈍ると言うものだ。
ボルニスの街から飛び立った七人のハーピュアンたちは、街道をノロノロと走る官吏らの馬車を瞬く間に見つけ出すと、ゾアンの追跡部隊を先導し、ひとり残らず捕縛したのである。
そうして捕縛された官吏らは、その日のうちにガラムらに引きずられるようにして蒼馬の前に曳き立てられた。後ろ手に縄で縛られた官吏らは、すでに観念していたようで、尋問するまでもなく自分らが逃げ出した理由をベラベラと喋ってくれた。
それを一通り聞いた蒼馬は、驚き半分、呆れ半分に言った。
「つまり、横領をしていたのがバレたと思って、街を逃げ出したの?」
蒼馬の口ぶりに、官吏らはざわめいた。
「もしや……気づいていなかった……のですか?」
皆を代表して、筆頭財務官が恐る恐る尋ねる。
すると、蒼馬はコクッとひとつ頷いてから、あっけらかんと答えた。
「ええ。計算が合っていないのには気づいていたけど、まさか横領してたなんて思わないですよ」
「ですが、計算が合っていないのに気づいて! だから、横領が! でも、気づいていない?! ば、馬鹿な! 計算盤もなく計算できるはずない! 事前に調べていたに決まっている!」
自分らがとんでもない勘違いをしていたのに気づいた筆頭財務官は混乱し、支離滅裂なことを言い出した。何をそんなに驚いているのか、理解できていない蒼馬は、筆頭財務官の剣幕に気圧されながらも素直に答える。
「普通に、帳簿を見て計算しただけですけど……」
「計算ができる……?!」
筆頭財務官の顎が、かくんっと落ちた。
読み書きできないと言われただけなのに、勝手に計算までできないと思い込んだのは、筆頭財務官の早合点である。しかし、教えられもせずに、蒼馬が異世界からの落とし子であり、単にこちらの世界の文字や数字を知らないだけだと察しろと言うのは無理な話だ。
さらに蒼馬はそうとは知らずに、筆頭財務官へ追撃を入れてしまう。
「別に、方程式とか関数とか使うわけじゃないし、足し算と引き算ができれば十分でしょ? あとは、掛け算と割り算ぐらいか。でも、計算と言っても、それぐらいだし……」
「そ、それ、ぐ、ぐらい……?!」
もはや、筆頭財務官は卒倒寸前だった。
すでにこの世界でも、様々な図形の面積や立体の体積を求める幾何学や代数を用いた方程式などの算術も存在する。
しかし、それはあくまで、ごく一部の学士や賢人たちなどの算術を研究している人に限られた話だ。
計算を生活の糧とする彼ら官吏の中には、算術の基本となる四則演算ですら足し算と引き算がせいぜいで、掛け算や割り算となると、途端に覚束なくなる者もざらであった。
日本の平安時代においては掛け算が貴族の教養とされていたように、この世界でも掛け算や割り算ともなると、ごく限られた一部の貴族や官吏らだけの高度な教養のひとつだったのである。
ところが、そのような高度な教養を「ぐらい」と表現した蒼馬に、筆頭財務官は唖然としてしまう。
それでも筆頭財務官は、何とか気力を振り絞って言いつのる。
「で、ですが、計算ができても、計算盤がなければ……!」
筆頭財務官が言う「計算盤」とやらが何なのか分からなかったが、おそらくは算盤の仲間だろうと思い、蒼馬は答えた。
「あれぐらいなら、紙とペンがあれば十分でしょ?」
再び、筆頭財務官は唖然としてしまう。
彼らにとって、帳簿につけるような大きな計算を行うときには、計算盤はなくてはならないものだった。それなのに、「ペンと紙があれば十分」と言い切り、実際に短時間で計算違いを見つけ出した蒼馬に、筆頭財務官は慄然とする。
「そんな、馬鹿な……。紙とペンだけで計算なんて、できるわけが……」
筆頭財務官がそれほどまで信じられずにいるのには、ある理由があった。
その理由とは、蒼馬と官吏らが使っている数字の違いである。
この世界で使われる数字は、一、十、百…と位を表す記号しかなく、二から九を表す記号はない。そのため、二から九を表記するには、記号をその数だけ繰り返し書くのが決まりであった。
それを用いて、15468という数を書いてみよう。
現代日本人が日常的に使うアラビア数字を使えば、たった五文字で表すことができる数だ。しかし、これをセルデアス大陸で使われていた数字と同じように、一万を§、一千を@、百を*、十を+、一を|として書くと、次のようになる。
§@@@@@****++++++||||||||
一見しただけでも、とても難解であると言うのが良くわかるだろう。
さらに、この数を四で割ってみよう。
まず計算するには、それぞれの位の数字がいくつあるか数え、全体の数を把握することから始めなくてはいけない。そこから実際に割り算するのも大変面倒だ。
ところが、アラビア数字を用いた記数法で表せば、15468÷4という単純な計算でしかない。これならば、ちょっとした紙とペンがあれば、小学生でも解ける問題だ。
蒼馬がごく当たり前としか思っていない高校レベルの数学知識とアラビア数字は、このセルデアス大陸で数字を取り扱うのが生業となっている官吏らですら驚愕せざるを得ないものだったのである。
しかし、そうとは知らない蒼馬は、官吏たちの驚きが理解できずに、きょとんとした。そんな蒼馬にシェムルが声をかける。
「それで、こいつらをどうするんだ?」
それに驚きのあまり茫然自失としていた官吏らは、今さらながら蒼馬が自分らの生殺与奪の権を握る権力者であることを思い出し、震え上がる。
「う~ん。――どうしようかね?」
そんな官吏らの姿に、困った蒼馬は曖昧な笑みを浮かべて見せた。
作中にもありますが、今では小学校で習う九九も平安時代などでは貴族の教養のひとつだったそうです。
兵庫県豊岡市日高町の祢布ケ森遺跡で大量出土した木簡の中に、九九の練習で、「三九廿四」と計算間違いをしているものがあったとか。ちょっと親しみを覚えますw
それと驚いたことですが、ヨーロッパでは17世紀ぐらいまで負の数の概念が理解できなかったと言う話があります。
例えば、10-20=-10ですが、この-10という解が理解できないのです。
これをリンゴに置き換えると、10個のリンゴは理解できる。20個も理解できる。でも、10個から20個を取るのは無理! だって、もうリンゴはないよ! -10個って何? 存在しないじゃん! そんな数はあるはずがない! きっと計算間違えだ!って思ったとかw
私たちが当たり前に使っている数字や計算も、歴史を振り返れば、面白い話がいくらでもあるものです。
P.S.すでに修正されておりますが、セルデアス大陸における15468の表記例で10の単位の記号が1つ抜けておりました。感想で指摘され、取り急ぎ修正した後、返信しようとしましたが、その時点で感想が削除されておりました。お名前もわからないため、この場を借りてその方にお礼を申し上げます。
作者ながら、セルデアス大陸の数字の難しさを思い知りました。orz




