第52話 悪寒
ダリウス将軍が率いる討伐軍が王都を発ったことは、危険を承知でホルメア国の内部まで潜入させていたゾアンの斥候によって、わずか一日足らずでボルニスに知らされた。
ホルメア国の王都からボルニスまでは、早馬を乗り継いでさえ数日かかると言うのに、これは驚くべき速さである。
この速さを実現させたのは、蒼馬が考案した新しい情報伝達手段だった。
現代日本で育った蒼馬は、この世界の誰よりも情報の価値とその伝達速度の重要性を理解していた。そんな彼が、より早くより正確に情報を伝達する手段を求めたのは当然である。
そして、蒼馬が目を付けたのが、ゾアンの太鼓であった。
この時代の早馬が半刻(約一時間)で走る距離は十クイリ(約三十~四十キロメートル)ほどである。それに対して太鼓の音は、当然ながら音速なので秒速三百四十メルト(約秒速三百四十メートル)だ。単純に考えれば太鼓の音による伝達は早馬より三十~四十倍の速さになる。
もちろん、太鼓の音が届く範囲に中継点を作らなければならないが、その手間を考えてもこの速さには価値があった。また、太鼓の音が届く距離だが、当時の記録によればゾアンの太鼓は、快晴で無風の状態ならば一クイリ(約三キロメートル)離れた場所まで音が届いたと言うから驚きである。
この時代において、もっとも早い情報伝達手段と言えば、狼煙であっただろう。
しかし、狼煙は風雨などの天候に影響されたり、夜間など煙が視認できない状況では使えなかったりする欠点がある。また、狼煙による伝達は煙の色やその有無だけが頼りであるため、伝達できる情報量がきわめて少ないのも問題だった。
それに比べてゾアンの太鼓が優れていたのは、狼煙よりも風雨の影響が少なく、夜間でも伝達が可能であるというだけではない。何よりも伝達できる情報量の多さが挙げられる。
さらに蒼馬は何らかの理由で太鼓の伝達が途絶してしまう恐れに備え、太鼓を叩き終わった戦士たちに駅伝のように口頭で情報を伝達させ、より情報の確度を高めていた。
後に蒼馬は、マーマンやハーピュアンたちの特殊能力も加えた情報伝達手段を構築するのだが、その原型はすでにこのときに作られていたのである。
このゾアンの太鼓による最初の速報が届いた時、蒼馬たちはマルクロニスによってホルメア国軍の得意とする戦い方を教えてもらっているところであった。
「これが、ホルメア国軍の得意とする重装槍歩兵の密集陣形だ」
そう言ってマルクロニスが指し示したのは、街の守備隊を臨時の重装歩兵にして編成した部隊である。
兵士たちの防具は、これまで蒼馬たちが目にしてきたホルメア国の一般兵士と同じものだ。
唯一違うのは、その右手に持つ長い槍だけである。
槍の長さは、おおよそ四から五メルトもあり、それを地面に突き立てて待機している様は、まるでスタートを待つ棒高跳びの選手のようだ。
そんな装備の兵士三人が横一列に並び、その横列がさらに縦に十二列で並んでいた。
「これは一列が三人で、深度が十二列しか作っていないが、かつてソルビアント平原を制圧した時には横列が百二十八人に深度が六十四列に及ぶ密集陣形が組まれたものだ」
ゾアンが歴史的大敗を喫した大戦の話を持ち出され、その場にいたゾアンたちは皆一様に顔をしかめた。
「密集陣形と言っても、これは密集しすぎじゃないですか?」
密集陣形を眺めていた蒼馬がそう思うのも無理はない。何しろ横列は隣の兵士と肩が触れ合わんばかりで、縦列ともなれば前列の兵士の背中に後列の兵士の胸が触れ合うほど密集しているのだ。
これではさぞや動きづらいことだろう。
「密集陣形は、どれだけ密集できるかが肝心だ。かつてホルメアの名将と謳われたダリウス将軍は『我こそは勇者と思う者は、さらに一歩前に詰めよ』と兵士たちを鼓舞したものだよ。――まあ、実際に見ればわかる」
そう言ったマルクロニスは密集陣形を組む兵士たちに向き直ると、号令をかける。
「槍、構え!」
マルクロニスの号令と同時に、前から六列までの兵士が音を立てて槍を構えた。
「うあぁ。これは……」
それを真正面から眺めていた蒼馬は、この陣形でゾアンたちが敗北した理由がよくわかった。
真正面から見ると、自分と相対しているのがひとりの兵士であっても、その脇からは後ろに控えている五人の兵士の槍の穂先が少しずつ長さを変えてこちらに突き出されているのだ。それは、最前列の兵士の槍をかわしたとしても、さらに五本もの槍の穂先が待ち構えていることになる。
これではまるで六本腕にそれぞれ武器を持った阿修羅と戦っているようなものだ。いくら身体能力が高いゾアンでも、これに真正面から挑むのは自殺行為でしかない。
「遠くから矢で陣形を崩しでもしないとダメなのか……」
その蒼馬の独り言に、マルクロニスはにやりと笑う。
「そのときは、こうする。――盾、構え!」
今度はいっせいに盾を構えた。
「こ、これは……」
最前列の兵士たちが自分らの前面に盾を並べるさまは、まるで壁のようだった。互いに盾を重ね合わせるように並べ、一分の隙も無い。さらに二列目以降の兵士たちは、盾を屋根のようにして頭上に掲げていた。
マルクロニスは足元にあった小石をいくつか拾い上げると、それを密集陣形の前面と頭上に放り投げる。小石は、いずれもが盾にはじかれてしまう。
「弓の達人でも、よほど距離をつめなければ、あの隙間に矢を通すことはできないだろう。かつて帝国の名将と呼ばれたインクディアス将軍はエルフとの戦いにおいて、この密集陣形を用いて、エルフの弓兵たちが雨のように降らせる矢を防ぎ、肉薄したところで一気に蹂躙したという」
この世界においても、エルフは弓の名人ぞろいで知られている。そのエルフの弓兵たちですら、この密集陣形の前には敗れたのである。
「特にホルメアでは、前面への攻撃力を高めている。通常、他国では槍の長さは二から三メルトなのに対し、ホルメア国は四から五メルトと長いものだ。この槍を片手で扱えるように、肩から革紐を吊るして槍を支える工夫をしてある。これによって、正面からのぶつかり合いならホルメア国の密集陣形は無敵を誇っていると言ってもいいだろう」
武器の長さは、大きな利点である。単純に考えても、相手の武器が届かない距離から攻撃できるというだけでも大きく違う。日本でも織田信長が当時の常識的な槍の長さが一間半(九尺、約二.七メートル)だったところに、三間半(二丈一尺、約六.四メートル)の長い槍を持った槍部隊を作り、大きな戦果を挙げたというのは有名な話だ。
蒼馬はマルクロニスがやけに前面を強調したのに気づき、問いかけた。
「では、側面や後方は?」
「弱い」と、マルクロニスは断言した。「密集した上に、あの長い槍と大きな盾を持っているため、方向転換が難しい。指揮官の号令と太鼓や笛などの合図がなければ、まともに向きすら変えられない。下手に慌てて方向転換をしようとすれば、兵士たち同士でぶつかり合い、陣形はぼろぼろになる。もちろん、それは周知のもので、たいていは密集陣形の左右には歩兵か戦車部隊を置き、防御させる」
やはりそう簡単にはいかないかと気を引き締めつつも、蒼馬はこのことをしっかりと記憶にとどめた。
その時である。ひとりのゾアンの戦士が、ものすごい勢いで駆け込んで来た。
「太鼓による速報が入りました! 討伐軍と思われる人間の軍勢が、ルオマとかいう街に向かって行軍しているのを確認したそうです!」
その戦士の言葉に、皆の中に緊張が電撃のように走り抜ける。
「ついにきたか!」
そう言って左の手のひらに、パシッと音を立てて右の拳を打ち付けたのは、ズーグであった。
待ちに待った討伐軍の報に血が高ぶっているのは、何もズーグだけではない。
口には出さないがガラムはわずかに拳を固く握りしめ、ドヴァーリンはさっきまでひっきりなしに口をつけていたエールの入った革袋の栓を閉じ、ジャハーンギルは尻尾を慌ただしく地面を打ち付けていた。
「敵の規模は?」
蒼馬の質問に、そのゾアンの戦士は答える。
「はい! 敵は、およそ七千以上! 二の太鼓、三の太鼓ともに同じ数を打ってきたので間違いありません!」
「七千以上?!」
予想していたよりも多い兵数に、蒼馬は思わず声を上ずらせた。しかし、作戦を立案した自分が動揺を露わにすれば、みんなが不安になってしまう。すぐに蒼馬は、咳払いをして動揺を押し隠した。
「予想よりも多いですね」
「まったくだ。おまえの言っていたよりも、やって来るのが遅いし、数も違うんじゃないか?」
蒼馬の言葉を受け、マルクロニスにドスの利いた声でそう言ったのは、ズーグである。
それは、気づけばいつの間にか蒼馬の軍事顧問のような立場に納まっていたマルクロニスを牽制する意味もあった。
その意図を察したマルクロニスは、最近やや出しゃばりすぎたかなと反省する。
もともと蒼馬が従軍経験のない素人であると見抜き、自分の見識を売り込んできたマルクロニスだったが、実際に言葉を交わしていくと、蒼馬は素人どころか無知と言ってもよかった。
しかし、それは愚鈍と言う意味ではない。蒼馬はマルクロニスが教えたことを砂漠の砂地にまかれた水のように貪欲に吸収したのだ。教師として、これほど教え甲斐がある生徒はいない。そのため、ついつい周囲の目を忘れて入れ込んでしまっていた。
「面目ない。どうも勘が外れたようだ」
マルクロニスは、素直に謝罪した。
自分を牽制したゾアンの危惧も理解できる。あの演説によってゾアンのみならずドワーフやディノサウリアンの支持も得られたが、それがどれほど強固なものかはわからない。ここで蒼馬が同じ人間種族であるマルクロニスを重用すれば、やはり人間を優遇するのかと、せっかく得られた支持が揺らぐ恐れもある。
「それぐらいにしておけ、ズーグ」
やや気まずくなったところに仲裁に入ったのは、ガラムであった。
「敵がどうだろうと、俺たちは役目を果たせばいいことだ」
ズーグもマルクロニスの助言の価値は理解していた。マルクロニスを牽制すると言う目的は果たせたので、小さく鼻を鳴らしただけでガラムに文句は言わない。
ガラムはズーグの厚い胸板に裏拳を入れる。見た目では軽く小突いたようだったが、意外と重い打撃音がし、ズーグが小さくうめく。
「ゾアンは言葉ではなく、結果で力を示せ。そうだろ?」
「……違いない、なっ!」
ズーグは仕返しとばかりに、ガラムの背中に平手を叩きつけた。それはガラムの身体が前に飛び出しかけるほどの力だ。ガラムが睨みつけると、ズーグはとぼけた顔でそっぽを向く。しかし、叩いた自分も痛かったらしく、右手をぶらぶらと振っていた。
「力を示せと言ったが、馬鹿力を示せとは言ってないぞ」
「おう。軽く撫でたつもりだったが、ひ弱な大族長様には、キツかったか?」
いきなり、いがみ合いをはじめたのに、蒼馬は奇襲をこのふたりに任せて大丈夫なのかと心配になる。助けを求めるようにシェムルを見やると、彼女はため息をついて、こう言った。
「悪ガキふたりが、じゃれ合っているだけだ。心配するのも馬鹿らしい」
シェムルの身も蓋もない物言いに、蒼馬は苦笑いするしかなかった。
◆◇◆◇◆
ガラムとズーグのふたりが、ボルニスにいるゾアンの戦士の中から選び抜いた精鋭を引き連れ、討伐軍に奇襲を仕掛けに出向いてから二日が経った。
ゾアンの奇襲部隊はとっくに橋の近くで兵を伏して討伐軍が来るのを待っていたが、肝心な討伐軍の行軍が予想以上に遅く、いまだ戦いが始まったという報告は届いていない。
その代わりに、実際に討伐軍を確認して太鼓を叩いた戦士たちが順次帰投し始め、より詳細な討伐軍の様子が蒼馬の元に届けられてくるようになった。
それによると、騎兵や戦車はごく一部の将校たちだけで討伐軍の大半は歩兵という構成のようだ。ゾアンの戦士が見る限りでは、討伐軍の士気は高く、兵たちの練度も高いらしい。
その報告に、蒼馬はぼやいた。
「あんまり、僕たちにはうれしい話じゃないね」
「見くびられるより良いだろ。互いに、己が力と名誉のすべてを賭して戦う。それが戦というものだ」
誇り高いシェムルらしい台詞に、蒼馬は「見くびってくれた方が楽でいいんだけどね」と、こっそりと呟く。しかし、ゾアンの鋭い耳はそれを聞き逃さなかったらしく、「不甲斐ない我が君だ」とでも言うように、シェムルにため息をつかれた。
「この調子だと、橋にはいつぐらいにやってきそう?」
蒼馬にそう問われた戦士は、自分の目で見た討伐軍の様子を思い浮かべながら答えた。
「そうですね。ゆっくりと移動していますが、数刻もしないうちに来ると思います」
「そうか。いよいよだね」
ガラムやズーグたちが見事奇襲を成功させてくれるのを蒼馬は願った。どうしても不安はぬぐい切れないが、あのふたりならば大丈夫だと思うしかない。
しかし、不意に何かが蒼馬の脳裏に引っかかった。
「……ちょっと待って!」
今のやり取りの中で、何が引っかかったのか、蒼馬は慌てて考え直す。自分がまずいことを言ってしまったのではないかと戦士が不安で落ち着かなくなる頃に、ようやく蒼馬は顔を上げた。
「今、ゆっくりって言いました?」
「え? ええっと……はい。そう言いましたが」
さらに蒼馬は重ねて問う。
「人間の軍勢は、いつもより移動が遅いの?」
その戦士は、別段何らかの意図をもって、ゆっくりと言ったわけではなかった。まさか、そんなところを鋭く指摘されるとは思っておらず、しどろもどろになりながら答える。
「え……いや……なんとなく私がそう感じただけですが」
蒼馬は何か嫌な予感がした。
鼻先に突きつけられたナイフの切っ先に、今まさに気づいたような感覚だ。背筋に氷の芯を差し込まれたような悪寒。全身の血管が縮み上がり、心臓がバクバクと音を立てる。
何か、まずい。とてつもなくまずい気がする。
「どうしたんだ、ソーマ?」
蒼馬の異変に気づいたシェムルが訝しげな声を上げるのに、蒼馬は我に返る。
とにかく冷静になって考えようと、ひとつ大きく息をついた。それから、なぜ自分がこの言葉に引っかかるのか考える。しばらく考え込んだ蒼馬は、ある結論に達した。
「……もしかして、警戒されている?」
しかし、すぐにそんな馬鹿な、と思う。
ガラムたちも言っていたように、これまでゾアンが平原の外に攻め出たことはない。実際に蒼馬がこの街を落とすのを提案した時でさえ、ゾアンは平原から出るのに難色を示した。それほど、この街を落としたのは異例の出来事なのだ。その上、さらに街から出て奇襲をかけてくるなどと誰が想像できるだろうか。ましてやこちらは寡兵である。まさか数に勝る敵に攻撃を仕掛けるなんて考えるはずがない。
思い過ごしだ、と自分に言い聞かせるが、蒼馬の勘は激しい警鐘を鳴らし続けている。
それに蒼馬は狩猟種族であるゾアンの戦いに関する勘を高く評価していた。そのゾアンの戦士が感じ取ったものをおろそかにはできない。
そう言えばと蒼馬は思い出す。
最初にマルクロニスが予想したよりも討伐軍の行軍が遅いのだ。マルクロニスは自分の勘が外れたと言っていたが、そこに何か意味があるのではないか?
マルクロニスが予測していなかった何らかの理由で、討伐軍はあえて行軍を遅くしている可能性はないかと考えた。
「でも、何で時間を稼ぐような真似を?」
ホルメア国としては、この反乱は一時でも早く鎮圧したいはずだ。それなのに、あえて行軍を遅らせるほどの理由を考える。
「……何かを待っているのか?」
まず、真っ先に思いついたのは援軍の存在だ。マルクロニスの言葉を信じるならば、動かせそうな国軍はもうない。しかし、ホルメア国には、まだ領主たちの私兵が存在する。
だが、二千にも満たない自分たちに対して、討伐軍は七千以上だ。わざわざ、こちらに時間的余裕を与えてまで領主たちに援軍を求めるとは考え難かった。ましてや自分たちの反乱に触発され、各地でも反乱が起きないとも限らない。領主たちも、そうした不測の事態に備えなければならないのに、援軍に向かうとは思えなかった。
では、いったい何を待っているのだ?
そう考えた蒼馬の脳裏に、最悪の予想が思い浮かぶ。
「まさか、僕たちが仕掛けてくるのを待っている?」
蒼馬は慌てて地図を広げると、敵でも睨みつけるような目で見つめた。
もし、自分が討伐軍の指揮官で、ゾアンの奇襲を予期していた場合はどうするか、蒼馬は考えた。すると、すぐに答えは出る。
「……罠をしかける」
蒼馬が奇襲をかける場所として橋を選んだのは、それ以外に奇襲をかける場所がなかったからである。端的に言えば、奇襲をかけるのならば、ここしかあり得ないのだ。
しかし、それは敵にも同じことが言えるだろう。
ゾアンが奇襲をかけて来るならば、ここしかあり得ない、と。
奇襲とその場所がわかっているのならば、そこに罠を張り、奇襲に来た敵を返り討ちにすることは容易い。もし、蒼馬が討伐軍の指揮官ならば、必ずそうする。
「……!」
蒼馬は地図の中から、まだ見ぬ討伐軍の指揮官の影を感じ、思わず後ずさる。
これまでの敵は自分の存在を知らなかったため、簡単に策に嵌められた。ところが、今度は逆に誰かが自分の思惑を見透かし、策に嵌めようとしている気がしてならない。
蒼馬はその想像に、ぶるりと身を震わせた。
奇襲を中止するべきか決行するべきか、蒼馬に迷いが生じる。
もし、本当に罠が仕掛けられていたならば、奇襲をかけたゾアンたちは大きな痛手を被るだろう。
しかし、相手が罠を仕掛けている確証はない。たったひとりゾアンの戦士が何となくそう感じたことから推測しただけだ。それに、この兵力差で、真っ当に戦ったら確実に負けてしまう。だからこそ、奇襲に頼ったと言うのに、それを棒に振ってしまっていいのか、蒼馬は悩む。
「駄目でもともとでやってみる……?」
しかし、すぐにその考えを否定した。奇襲部隊に選ばれたのは、ゾアンの中でも選りすぐりの精鋭たちだ。彼らを失えば、主力を欠くことになる。
どうする? どうすればいい?
悩み抜いた末に蒼馬は、ようやく決断の言葉を吐いた。
「ガラムさんとズーグさんに、撤退の指示を。奇襲は中止します!」
◆◇◆◇◆
「どうした、おかしな顔をして?」
地に伏せた体勢のまま、ガラムはズーグにそう尋ねた。
そこは奇襲を予定している橋から少し離れた茂みの中である。斥候からは、もう間もなく討伐軍がやってくるという知らせが届いていた。いよいよ戦いが始まるという緊張が漂う中で、なぜかズーグが先程からしきりに鼻にしわを寄せたり、鼻を鳴らしたりしていたのだ。
「うむ。なぜか、妙に鼻がムズムズするのだ」
「風邪か?」
体調管理ぐらいちゃんとやっておけとでも言うように顔をしかめるガラムに、ズーグはおかしな言葉を返した。
「風邪ならば、いいのだがな……」
まるでもっと悪いことでもあるような口ぶりに、ガラムは眉根を寄せる。
それにズーグは、頭の毛をバリバリとかきむしりながら、重い口調で言った。
「こう、鼻がムズムズするときは、決まって悪いことが起きる前触れでな」
「悪いことの前触れだと?」
「ああ。ガキの頃に住んでいた村を人間に焼かれる前の晩も、そうだった。負った傷が悪化して親父が死んだ時もだ」
思った以上に重い内容に、ガラムは言葉に詰まる。
そのガラムの反応に、ズーグもこれから奇襲をかけるという時に口にして良い内容の話ではなかったと気づき、慌てて取り繕う。
「悪い。気にするな。この俺ともあろう者が、大戦を前にして繊細になったかな?」
冗談めかして言ったが、とてもガラムは笑う気にはなれなかった。
何か気になることでもあるのかと問い質そうとしたガラムだったが、その言葉を口にする前に、物見に立たせていた戦士が声を上げる。
「大族長! 人間どもの姿が見えてきました!」
河の方に目を転じれば、待ちに待った討伐軍の姿が見えた。
「では、俺は殿につくぞ」
撤退する時に追いすがる敵兵を食い止める殿の役目をズーグは任されていた。自分の配置に戻ろうとするズーグを呼び止めようかと迷ったが、今は目の前の敵に集中すべきだとガラムは思いとどまる。
その間に討伐軍の先頭が橋を渡り始めていた。
焦る気持ちを押さえながら、ガラムはじっと討伐軍の様子を観察する。こちら側に渡ってきた兵士が少なくては与えられる被害も少ない。かといって欲をかいて多数の兵士を渡らせてしまえば、奇襲そのものが失敗しかねない。
奇襲を仕掛ける最高の好機を見計らっていたガラムが、ついに立ち上がった。
「突撃だぁ! 太鼓を叩け!」
ガラムの叫びとともに、激しく太鼓が打ち鳴らされ、茂みに伏せていたゾアンの戦士たちが一斉に立ち上がり、四つ足になって大地を駆け始める。
その最後尾にいたズーグも、今まさに駆け出そうとした時、自分を呼ぶ声に気づいた。
「族長っ! ズーグ族長!」
「何だ?!」
ズーグが振り返ると、ひとりの戦士がこちらに向けて駆けてきた。
「ズーグ族長! ソーマが、奇襲をやめて撤退しろと!」
「何っ?! 今さらか?」
肩を弾ませて荒い息をつく戦士の言葉に、ズーグは仰天した。もはや突撃の太鼓は鳴らされ、ガラムを先頭にして討伐軍に突撃を始めたところだ。今さら退くに退けるものではない。
それに見れば橋を渡ったばかりの討伐軍は、自分たちの奇襲に驚き、右往左往している。このまま斬り込めば、討伐軍に大きな痛手を与えられるのは確実だ。こんな好機をみすみす逃して良いものかとズーグは迷う。
しかし、その時、キラリと光るものがズーグの視界の隅をよぎった。
そちらを向くと、そこにはうっそうと茂る森があるだけだ。気のせいだったかと思いかけたズーグの目に、再び森の中で何かきらめくものが見えた。
その瞬間、ズーグは背筋の毛がいっせいに逆立つのを感じた。
「そういうことかっ!!」
ズーグは四つ足になって駆け出しながら、大声で戦士に命じる。
「退却の太鼓を叩け! 今すぐに、だ!」
言われた戦士が慌てて退却の太鼓を打ち鳴らすと、ガラムを穂先にし、一本の鋭い槍のように討伐軍に斬り込もうとしていたゾアンの隊列が乱れる。自分らの奇襲に慌てる敵を目前にしておきながら、突如の撤退の太鼓に戦士たちは進むべきか退くべきか迷い、その場にたたらを踏む。
その脇を赤い矢のように駆け抜けたズーグは先頭集団に追い付くと、その中で自分もなぜ退却の太鼓が叩かれたかわからないだろうに、周囲の戦士たちの混乱を静めようとしているガラムを素早く見つける。
「ガラムッ!!」
地面に深く足の爪を食い込ませ、急制動をかけつつ、大声で叫ぶ。
「罠だっ! 右手の森の中に人間どもがいるっ!!」
「?! なにっ!」
ガラムが振り向くと、今まさに森の中から人間の兵士たちが喚声を上げながら飛び出してきたところだった。ガラムが見定めたところ、その数はおよそ百から二百と少数だ。
しかし、その少数の人間は小さく鋭いナイフのように、討伐隊に突撃するゾアンの側面から、こちらの急所をえぐって来るだろう。
どうすればいい?!
ガラムは、一瞬迷う。この襲撃が、今自分らが取れる唯一の反撃の機会だと理解していたがために、犠牲を覚悟でこのまま突っ込むべきではないかと言う考えが浮かぶ。
しかし、その迷いを断ち切る声が上がる。
「ガラム、逃げるぞ!」
ズーグは近くにいた戦士の尻を蹴飛ばしながら大声を張り上げた。
「戦うな! ひたすら逃げるぞ! ほら、逃げろ逃げろ!」
その言葉に、ガラムも迷いを吹っ切った。
「撤退だ! すぐさま街に帰還しろ!」
両雄がそろって撤退を指示したのに、ようやく周囲の戦士たちも動き始める。
しかし、それはわずかに遅かった。
ざあっと言う音とともに、頭上から矢が雨のように降り注ぐ。
ガラムとズーグのふたりは、とっさに身体を小さく丸めるようにして後ろに大きく跳び退いた。その直後、ふたりがいた場所に無数の矢が音を立てて突き刺さる。
「ズーグ! 大丈夫かっ?!」
地面を転がり、片膝立ちになったガラムは隣のズーグに呼びかける。
しかし、ズーグは返事もせずに、ガラムも初めて見る憤怒の形相で討伐軍の方を睨みつけていた。
いったいどうしたのだ、とズーグの視線を追ったガラムも絶句する。
いまだ右往左往する討伐軍の中から、先程の矢を放ったと思われる部隊が前進してきていた。混乱する討伐軍の中にあって、それだけが遠目でも規律のとれた動きを見せる部隊が掲げているのは、黒地に金糸で獅子の横顔をあしらった大きな旗である。
「あれは、黒い獣か?!」
ガラムもズーグも知らない。
それこそが、ホルメアの名将と謳われたダリウス・ブルトゥス将軍を示す旗であるということを。
しかし、それを知らなくてもガラムは、その旗のことは父親から幾度となく聞かされてきた。
かつてソルビアント平原に侵攻してきた人間の軍勢の中心に、ホルメアの旗と並んで掲げられていたという、忌まわしい旗に間違いない。
ガラムの全身に、溶岩のような怒りの血流が駆け回る。雄叫びをあげて、あの旗を掲げる部隊に斬り込みたい衝動が彼を突き動かす。
「……ぐぅっ!」
しかし、すんでのところで唇を噛みしめ、踏み止まった。
今なお胸の中でくすぶる衝動を振り払うため、自分にも言い聞かせるようにズーグに向けて叫んだ。
「今は逃げるんだ! これ以上の犠牲はマズい!」
ガラムの声に、ようやくズーグも黒い獣の旗から目をはがす。それから、自分らの前に横たわる十数名のゾアンの戦士たちの姿を前に、口の中の苦いものを吐き出すように言った。
「……わかっている。今は、逃げるしかないな」
まだ息のある者もいるかもしれないが、見捨てるしかない。
今は、その怒りと無念を飲み込み、ふたりは逃げに徹するしかなかった。
◆◇◆◇◆
馬か騎竜でもなければ、ただの人間が四つ足になって駆けるゾアンに追いつけるはずもない。あとほんの少しでゾアンたちを壊滅できたのにと、逃げるゾアンの後姿を歯ぎしりして見送るしかなかった伏兵部隊は、ゾアンの姿が見えなくなると討伐軍の本隊に合流するため向かった。
すると、それをダリウス将軍本人がわざわざ出迎えたのである。
「ご苦労だったな、ボーグス」
「こりゃ、将軍閣下。わざわざ出迎えてくださったんですか」
伏兵たちを率いていたのは、胡麻塩頭を短く刈りこんだ中年の男――ボーグスであった。
ダリウスの命を受けて密かに討伐軍より先行していた彼は、数日前から二個中隊を森に潜ませていたのである。何日もの間、森に潜伏していたため泥と落ち葉まみれになったひどい有様のまま、ボーグスは申し訳なさそうに頭を下げた。
「すいやせん。どうやら、直前で気づかれちまったみたいで」
しかし、ダリウスはその格好に嫌悪するどころか、むしろ満足げにボーグスの肩を叩く。
「ああも思い切り良く逃げるとは、わしも思わなんだ。おぬしの落ち度ではないわ」
感覚の鋭いゾアンたちを相手に、何日もずっと息をひそめて森の中に隠れているなど、そこらの気位ばかり高い貴族出の将校にできるものではない。ボーグスができなければ、誰がやったとしても同じ事である。
「河で汚れを落としてくるがいい。その後は、わし直属の部隊として編入せよ」
「へい。ありがたく、そうさせてもらいやす」
河に水浴びに行くボーグスたちに温かい食事と酒をふるまうように指示したダリウスは、ゾアンたちが逃げ去った方角を見やる。
「しかし、何とも見事な逃げっぷりではないか」
その声には、嘲るどころか掛け値なしの称賛の響きがあった。
罠にかかったと見るや、恥も外聞もなく、すぐさま逃げの一手を打つ。これは、なかなかできることではない。その結果、ほぼ思惑通りに罠にはめたというのに、十数匹を仕留められただけで終わってしまった。
「多少、ものがわかるならば、ここで仕掛けてくると思っていたが、案の定か。それにしても、ずいぶんと良い手駒も持っているではないか」
ダリウスは口許に、笑みを浮かべる。
それは老獪な獅子を思わせる笑みだった。
「しかし、唯一の攻勢の機会は潰してやったぞ。さあ、次はどうする? それとも、これで終わりか? 反徒の頭目とやらめ」
ダリウスの頭上では、黒地に金の獅子をあしらった旗が北風を受け、大きく翻っていた。
蒼馬の奇襲を読み、罠を仕掛けていたダリウス将軍。
それをあわやのところで気づき、蒼馬は辛くもその罠から逃れることができた。
しかし、すでに討伐軍はボルニスの間近に迫っている。
自分らの数倍の敵を相手に、いかにして戦うか苦悩する蒼馬。
そのとき、シェムルの行動が蒼馬にある閃きをもたらすのだった。
次話「閃き」
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重装槍歩兵の密集陣形は、ファランクスのことです。
ファランクスで検索すれば画像もヒットしますので、実際にどのような陣形なのか見てもらえれば、より作品の中の展開がイメージしやすいと思います。
ファランクスのもっとも一般的な戦法は、ひたすら前進して敵を押しつぶすというものです。このファランクス同士が激突すると、互いに盾と盾で押し合い、わずかな隙間を広げて槍を突き入れて敵陣を崩そうとする激しい衝突が行われたらしいです。
ファランクスの攻撃力は、どれだけ多数で相手に圧力をかけるかがポイントになります。それを証明するように、テーバイのエパメイノンダス王が兵士に「もう一歩進んで、私を喜ばせてくれ」と鼓舞したと言われています。 作中でも、これを参考にした逸話を入れてみました。




