第七章
1
二月二十一日 日曜日。
暗闇の中で目覚めた須貝は、接着剤がくっついたようなまぶたをこすった。
右腕に走る不快な痛み。この痛みのせいで目を覚ましたのかとげんなりする。
視線が自然と東側の窓に向く。カーテンのすき間から差しこむのは、中宵の匂いを纏った頼りない光。雨は既に止んだようだ。時計を見れば時刻はまだ四時ではないか。
枕に再度あたまを預け、瞳を閉じて深呼吸。その時須貝は、自分の呼吸に重なる何者かの呼吸の音を耳にした。
布団を払いのけ、腕の痛みをこらえながら立ち上がる。
「誰だ」
「失礼。危害を加えるつもりはない」
部屋の奥からからかん高い声が聞こえた。暗闇の一部が人間の輪郭となって動き出す。輪郭は壁にある照明のスイッチを押した。
室内が照らされる。そこにいたのは、九重愛だった。
チェック柄のパジャマの上にガウンを被った愛は両腕を組みながらベッドの須貝を見つめている。
須貝の脳裏に、雨の中、血だらけの出刃包丁を都医師の腹に突き刺す愛の姿がよぎった。寝起きの呆けた頭は冷水をかけられたように一瞬にして覚めた。
「うわ……うわぁ!」
「おちついて。危害を加えにきたわけじゃない」
愛は両手を高く上げて首をふった。須貝は深呼吸をしてから挑むような視線で愛と向き合った。
「どうしてこんなところに」
「話を聞きたくてね。鳥羽家の人間は信用ならないし、あの見目麗しい姉妹探偵の安眠を邪魔する気にもなれない。ということできみの所を訪れたというわけだ。ちなみに愛じゃない。ハヤテだ」
「ハヤテ……ハヤテ……そうだ、きみは。きみはどうして昨日は出てこなかったんだ。大変なことが起きて、話を聞きたかったのに」
「都先生が殺されたんだってね。シスターが教えてくれた」
「姫子って女の子も、シスターだってまともに話ができやしない。きみはまとめ役を自称したくせに、肝心な時に何をしていたんだ」
「こっちにはこっちの事情があるんだ。それより、本当に都先生が殺されたのか。その腕はどうした。きみも何かされたのか」
「この腕は事件とは関係ない。都先生が殺されたのは本当だ。昨日の真昼に、そこの庭で、都先生は包丁で、その……」
須貝は顔を下げて言葉を濁した。包丁を手にしていたのは“九重愛”だった。だがそれを明言することは、ハヤテが都を殺した可能性を示すことになるのだ。
「包丁で殺したのか」
ハヤテは手を軽く握り、前後にふった。
「本当に殺すとは……だけど、だけど誰が。誰がやったんだ」
「きみじゃないのか」
「否定する」
「じゃあ誰が殺したと思う」
「きみたちはどう思っているんだ」
須貝は答えない。くちびるを噛みながら、ハヤテは背中を向けて部屋を出ていった。
追いかけるつもりもなれず、須貝はベッドに倒れこんだ。
静寂に包まれながら須貝は寝直そうとしたが、脳みそは電極と直流で繋がれたように興奮している。結局五時過ぎまで、眠ることなくベッドの上に横たわっていた。
身体を起こし、右腕の痛みに耐えながら着替える。既に結んである三角巾を首からぶら下げ、そこに右腕を入れる。ミネラルウォーターでのどを潤してから、須貝は部屋の外に出た。
廊下の窓から外を見る。日の入りの時刻が近くなり、薄く淡い紫色の空に灰色の雲が浮かんでいた。夜まで降り続いていた雨は止んでいる。朝の冷たい空気を吸おうと思い、須貝は一階に向かった。
「キャ」
一階に降りたところで女性の声が聞こえた。壁にかかるうす暗い照明の下でパジャマ姿の二ノ宮が須貝を見つめていた。
「ごめんなさい。驚かせてしまったみたいで」
須貝が声をかける。
「須貝さまでしたか。いえ、こちらこそ失礼しました。ずいぶん早いお目覚めですね」
「えぇ。少し外を散歩してみようかと。二ノ宮さんは」
「のどが渇いてしまって。休憩室まで水をのみにいこうかと」
プツリと音を立てて照明がすべて消える。廊下は一瞬にして暗闇に包まれた。
「キャッ!」
二ノ宮が鋭い悲鳴をあげた。
「なんだ。停電か?」
客室棟一階の窓は少なく、その数少ない窓から注ぎこむ外の光も早朝とのことがあって頼りない。数秒間が経ち、須貝の目が暗闇に慣れてきたその時――
「あ!」
「え? ンギャッ!」
右腕に何かがぶつかり須貝は悲鳴をあげた。
「も、申し訳ありません!」
ぶつかってきたのは二ノ宮だった。
「眼鏡が! 須貝さま。動かないでください。眼鏡が落ちてしまいました」
薄い暗闇の中、黒い陰と化した二ノ宮が、須貝の前でしゃがみ必死に手を床に這わしている。自分の両足の間に小さな黒い陰を見つけた須貝は、それを拾い上げた。
「あったよ。ほら、眼鏡」
二ノ宮は立ち上がるが眼鏡を受けとろうとしない。黒い陰《二ノ宮》はただジッとその場に固まっている。
ぱちりと音がして照明が点いた。
唐突な光の襲来に目を細めた須貝は目を細める。二ノ宮は照明が戻って安心したのか、深く息を吐き出した。
「ど、どうもご迷惑をおかけしました」
二ノ宮は須貝の手から眼鏡を受けとると、深く一礼をした。
「昨日のように天候が荒れると、発電機の調子が悪くなるんです。あとで神崎に確認しておくよう申し付けますので」
「あ、いや。それは別にいいんだけど。二ノ宮さん、ひょっとして暗いの苦手?」
須貝が訊ねると、二ノ宮は肩をすぼめて『……はい』と答えた。
「寝るときも小さなランプを点けておかないと安心して眠れないんです……子どもっぽいですよね」
須貝と二ノ宮は連れ立って廊下を進んだ。二ノ宮とは休憩室の前で別れ、須貝は廊下の突き当りにあるドアを開けて外にでた。
つっかけを履き、乾いた草を踏みながら庭に向かう。都の血は長く続いた雨に洗い流されていた。
足音を耳にして、須貝はその方向に顔を向けた。見ると、建山が島の淵のあたりをうつむきながら歩いている。
須貝が建山の方に向かうと、社長秘書も須貝の存在に気づき頭を下げてきた。
「お早いですね」
須貝がいうと、建山はのっぺりとした髪をなでながら疲れ切った顔をみせた。
「昨日の事件がショックでろくに眠れませんでしたよ。須貝さんも?」
「ぼくは腕の痛みで」
須貝は三角巾で吊った右腕を小さく振ってみせた。建山はバツの悪そうな顔をしてそっぽを向いた。
「建山さん。警察に通報をしてください。殺人事件が起きたんです。非常事態なんですよ」
「やめてください。そんなことぼくにいわないで」
建山は島の淵に沿って歩き始めた。須貝はため息をつきなから建山の背中に続く。
「気分を悪くしないでください。無駄だと思いながらもいわずにはいられなかっただけです。忠臣であるあなたが、鳥羽社長を裏切るはずがないですからね」
「忠臣?」
建山は足を止めてふり向いた。須貝をにらみつけるその表情は、人格を否定されたかのごとく嫌悪に歪んでいた。
「冗談じゃない。誰があんな男に。忠誠だなんてとんでもない話だ」
「となると、たんに臆病者なだけか。鳥羽さんのように我の強い相手は苦手ですか」
「わたしは奴隷なんです」
時代錯誤な言葉が建山の口から飛び出し、須貝は『は?』と呆けた声をだした。
「父親の多額の借金を、鳥羽が肩代わりしてくれたんです。その条件として提示されたのが、息子であるわたしを鳥羽の会社に入社させることでした。鳥羽にとって父の借金など大した額ではありません。それよりも鳥羽は、どんなに重労働を課しても逃げ出さない低賃金の労働力を欲していたのです。父も母も、借金を肩代わりし駄目な息子に職を与えてくれたと鳥羽を神様のように崇めています。もしわたしが鳥羽の下から逃げだせば、両親はわたしに幻滅し、家庭は崩壊します。過去に一度転職をにおわせたら、鳥羽はなんといったと思います? 『お前の転職先に不幸を起こすくらい造作もない』ですよ。はは。冗談だと思いますか。まさか。鳥羽の性格をご存じでしょう。あの男はやりますよ」
建山は両手で頭を抱えながらうなり声をあげた。返す言葉が思いつかず、須貝が口を閉ざしていると、建山はよろよろと頼りない足取りで別荘の方へともどっていった。
建山の告白を耳にして、須貝はやるせない気持ちに襲われていた。たしかに現代の日本社会では転職への抵抗感が以前よりは少なくなり、特に若き社会人は少しでも会社に対して気にいらないことがあると転職を選択肢の中に入れる傾向にある。これは一部の悪質な経営者にとっては望ましくない事態であろう。社員一人を雇うにあたり、そのためにかかるコストは決して安いものではない。しかし、その費用を投資して手に入れた人材が『上司が嫌いだから』で辞めてしまうのが現代社会なのだ。
かといって、上司の重圧的な態度を徹底して無くすよう努めることも経営者にとって好ましいものではない。彼らは人の上に立つことに喜びを覚えるタイプの人間であり、これは換言すると、他人を従者として扱うことを好むというわけだ。部下が辞めてしまうからといって、彼らの機嫌を損ねないようふるまうのも気に入らない。それでは主従が逆転している。彼らのための自分ではない。自分のための彼らなのだ。
鳥羽のやっていることは立派な脅迫である。平均以上の弁護士の力を借りれば建山はすぐにでも会社を辞められるだろう。しかし六法全書は円満な家族関係までは保証してくれない。建山は借金を肩代わりしてくれた両親が鳥羽を崇めているといっていた。法的には正しくとも、両親は息子のことを鳥羽の恩を仇で返した親不孝者と評するに違いない。そんな両親とは縁を切ればいい……と口にするひとがいるかもしれない。だが少し考えればわかることだ。苦しんでいる本人が家族との絶縁を一度も考えたことがなかったと思うのか。既にその答えは出したに決まっているではないか。答えを出したからこそ、彼は苦しんでいるのだ。
冷たい海風が須貝の身体を震えさせる。しかし今すぐ別荘に戻って建山と顔を合わせるのも気まずい。こっそりと自室に戻ろうかと考えたその時――須貝の視界の片隅で何かが動いた。
島の北東に位置する例の小屋から鳥羽優里が出てきたのだ。
須貝はいま島の最北端の位置、断崖絶壁の数メートル前に佇んでいる。島の北東にある小屋のドアは客室棟がある南側を向いており、ドアを出て別荘の方にまっすぐ向かう優里は背後に距離をおいて立っている須貝には気づいていないようだった。
須貝は眉をひそめた。早朝からあんなボロ小屋を訪れるとはなんとも不審だ。加えてそれが観葉植物のように大人しい鳥羽優里とはこれまた不審。さらに加えると、優里は羽織った花柄のガウンで腹の部分に何かを隠しているように見える。これを不審な態度といわずに何と表現できようか。
不審の三重奏を目の当たりにした須貝は、優里の姿が見えなくなってから小屋に向かった。四桁のダイヤル錠は8396でかかっている。須貝は一昨日、散歩の際に見たダイヤル錠の数字を思い出した。
「たしか8398だったよな」
まさかと思いながら一桁目のダイヤルを7に合わせる。ダイヤル錠は開いた。
六畳ほどの小屋の中にはかびの臭いが充満していた。北側の壁面に小さな窓があるが、汚れが積もっていて明かりとりの役目をはたしていない。うす暗い小屋の中に雑多に置かれていたものは、釣り道具や工具や園芸道具、そして――
「え。あ、これは」
須貝は壁に立てかけられたそれを見つめた。
子どもの身体ほどの大きさの両刃の斧。神崎が木橋を破壊した時にふり回していた得物だ。
須貝は神崎が木橋を壊したあと、別荘ではなくその北側の方に雨の中向かっていったことを思い出した。この斧を小屋に戻しに行ったのだ。
試しにと須貝は左手で斧の柄を持ち上げてみる。予想以上の重量だった。数センチは床から離れたが、五秒ともたず須貝は斧を降ろしてしまった。地面に落ちた時の衝撃で、柄が横に倒れ、小屋の側面に走る棚に当たった。棚の上には横に長いタンスが置いてある。タンスの引き出しは三段に別れている。須貝は上段を引いてみた。中には大小様々な刃物が収まっていた。神崎が木橋を破壊するために斧と一緒に用いた山刀があった。見るとタンスの中の刃物はどれも刃がこぼれていたり錆びていたりと、殺傷能力があるとは思えない。傍らに置いた巨大な斧も、見るとその両刃はボロボロに欠けていた。
静寂の中で物騒なものに囲まれている雰囲気に耐えられなくなり、須貝は小屋を出た。
2
朝食のトーストはバターが塗られた状態で提供された。利き手が使えない須貝に使用人の二ノ宮が配慮してくれたのだ。
食堂の大きなテーブルでひとりトーストを口に運んでいると、居間の方から大きなくしゃみが聞こえた。
「あぁ。きみか」
たよりない足取りで鳥羽が現れた。銀髪は寝癖で波のように跳ね上がり、顔は土気色で覇気がない。替えていないのか昨日と同じシャツを着ており、半センチほどウィスキーが残ったグラスを握りしめている。
鳥羽はグラスに新しくウィスキーを注ぎ、ストレートのままちびちびと舐めはじめた。相当に心労が溜まっているなと、ほんの少しとはいえ須貝は同情心を覚える。そしてそんな同情心について、骨折した右腕が『馬鹿なことを!』と痛覚を介して非難してくるのであった。
「外にある小屋はこの別荘と違ってずいぶん古いように見えますね」
「あれは五十年以上前に建てられたものだからなぁ」
テーブルに上半身を伏せながら鳥羽が語りだした。
この別荘が建つ小島は、かつては先の大戦で戦死した陸軍高官が所有していた。その高官は別荘を建てて余生をこの島で過ごしたそうだ。平成の時代になって島を保有することになった鳥羽は、時代遅れの別荘を解体して新築した。しかし小屋についてはなかなか造りがしっかりとしていたこともあり、そのままにしておいたという。
「小屋のなかを見たのかな?」
鳥羽は泥のような瞳を須貝に向けた。
「はい。物騒なものがずいぶんと置いてありました」
「全て前の所有者が残していったものだ。好戦的な武人だったらしく、いろいろと実戦的な武器を集めていたそうだよ。あっはっは」
笑い声をあげながら鳥羽は食堂を出ていった。すぐに居間の方から高いびきが聞こえてきた。ソファーで眠り始めたらしい。
「おはよーさん」
パタパタとスリッパの足音を立てながらLAWが食堂に入ってきた。その服装を見て須貝の心が怪訝に膨れる。ショートパンツに黒タイツという下半身はまぁよい。一昨日から一貫しているから、これはLAWのポリシーが現れているのだろう。だが上着に関しては一貫性がないようだ。昨日の彼女はどてらを被り、まるで大学浪人生が自宅でくつろぐような服装していた。で、今日は。ジャージだ。光沢感のある緋色のジャージ。背中には『私立朱雀大路高等学園』と大きく印字されている。LAWの出身校だろうか。高校時代のジャージを日常使いとはこれまた大学浪人生のような服装ではないか。
しかし、一般的に学校のジャージから覚える芋っぽさは感じられない。ジャージの質がいいからだろうか。そうではない。着る者の違いだ。LAWが着るから華やかに見える。LAWが着るから『たかがジャージ』が『さすがのジャージ』に一転する。LAWにはそんな魅力があった。
「なんやあのオヤジ、朝から酔っぱらって。かなわんなー」
居間の方に顔を向けながらけらけらと笑う。そんなLAWのもとに二ノ宮が朝食を運んできた。三枚のトーストとボウルに盛られたサラダ。たまごを四つは使ったであろう巨大な曙スクランブルに山盛りのウィンナーが添えてある。滞在も今日で三日目。LAWの健啖家っぷりは周知の事実となっていた。
朝食を終えて、須貝はLAWに連れられて姉妹の部屋へ向かった。
「都先生のことなんだけど」
パンツスーツに白いシャツ。シンプルに隙のない服装の氷織は、LAWに持ってきてもらった食パンを本のように折りたたんだ。
「とんだ食わせ物だったみたいね」
氷織は食パンに噛みつきながら昨夜今江から送られてきたメールについて語った。
須貝は頭を押さえてため息をついた。都医師の正体もなかなかショッキングな事実ではあるが、それ以上に高校時代の九重愛の身に起きた不幸については腸が煮えくり返るほどの怒りを覚えた。
「九重愛の周りの大人はクズばっかりだ!」
「このことは愛さんの尊厳に関わる。鳥羽が知っているかどうかは分からないけど、他言無用ね」
氷織は鋼のような視線でLAWと須貝を見つめた。ふたりは並んでうなずいた。
「そうだ。今朝のことなんですけど」
須貝は早朝の時間にハヤテが須貝の部屋を訪れたことを話した。
「ハヤテは当惑していましたよ。自分が都先生を殺したわけではない。かといって、犯人の検討もつかない様子で」
「それ何時ごろの話?」
LAWが身を乗り出して訊ねてきた。
目の前にLAWの小さな顔が迫る。須貝は思わず後ずさるが、真摯な表情のLAWは追従する。
「具体的な時間。覚えとらんの」
壁際に追いつめられた須貝は、顔を反らしながら声をしぼりだす。
「四時、四時です。時計を見たから間違いありません!」
「四時かぁ。やっぱりなぁ」
満足したのか、LAWは須貝から離れた。
「ハヤテとは、それ以外に何か話をした?」
氷織が訊ねる。半分ほど齧られた食パンは皿の上に放置されていた。
「話していません。しいていうなら、ぼくの腕のことを心配してもらったくらいですね」
氷織は口もとを指でなでながら思案に耽るように顔を下ろした。
「ハヤテとも少し話がしたいわね。とにかく今日は愛さんと付きっきりで話をするぐらいの気概でいくとしましょう。彼女たちと話をしない限り、事態は前に進まないのだから。そうだ。昨日須貝くんが暖炉の中で見つけたビニール片なんだけど」
氷織がいうと、LAWがジャージのポケットから半透明のビニール片をとりだした。
「LAWから話は聞いた。二人はこれに見覚えはないのよね」
「ない」
「ありません」
「そっか……」
氷織は口をへの字に曲げてみせる。
「どうかしましたか?」
「わたしはこれ、どこかで見た気がするの。見たというより……」
「え、本当ですか」
須貝が食い気味に訊ねる。自分が発見したというだけあって、興味は尽きない。
「だめ。思い出せない。どこかで……うーん」
氷織はLAWからビニール片を受けとり片手でこすってみる。だがすぐに首をかしげてしまった。
「なぁ、確認しておきたいんやけど」
ピンと手を挙げてからLAWがいった。小柄な体型に学校指定のジャージ。まるで本物の高校生のようだ。
「今んとこ、ふたりは誰が犯人やと思ってはるの」
「どうでしょう。やっぱり暴風雨が怪しいかと」
須貝は自信なさげに答えた。
「“暴風雨”は暴力的な側面を有しているわけでしょう。ハヤテを始め、他の人格はとても殺人ができるような性格ではないし。やっぱり、ねぇ」
「わたしはノーコメント。暴風雨の話を聞いてからでないとLAWの質問には答えたくない」
氷織は大きく首をふりながら答えた。
「あんたはどう思ってるの」
反撃。氷織の問いかけにLAWは飄々とした態度で応える。
「誰が犯人かなんてまだわからんわ」
――だけど――とLAWは続ける。
「誰が犯人でないかは、何となくわかってきたわ」
3
三人が客室棟の三階にあがると、階段の前にブラックスーツの神崎が待ち構えていた。
「愛さまがお待ちです。こちらへどうぞ」
神崎はいつもの不気味な笑顔を携えている。ドアをノックして、中から入室を許可する女性の声が聞こえる。神崎はドアノブに手をかけ、すき間風のような笑い声をあげた。
神崎の手によりドアが開かれ、三人はその笑い声の意味を理解した。室内にいたのは愛だけではなかった。ベッドに座るチェック柄のパジャマの愛。その横に、顔を伏せてうなだれる優里の姿があった。
「お三方をお連れしました」
「ありがとう。神崎さん。少し外に出ていてください」
「しかし、社長から恒河沙さまがいらっしゃる時は同席するようにと」
「知った上でのお願いです。外に出てください。何かありましたら大声で呼びますから」
「神崎さん。あなた、優里さんと愛さんを二人っきりにさせたんですか」
須貝は小声で神崎に喰ってかかった。
「愛さんが昨日、都先生に何をしたのか覚えていないのですか」
「優里さまが希望され、愛さまが承諾された。それだけの話ですよ」
神崎は大きく舌打ちをしてから部屋を出た。
「お見苦しいところをお見せしました。おはようございます。わたしが誰かわからないですよね」
力のないほほえみと共にベッドから立ち上がる。
「愛です。おはようございます」
「どうして優里さんがここに?」
氷織が訊ねる。当の優里は顔を涙で濡らし、鼻をすすっていた。
「ほんの十分ほど前にいらっしゃって、その……」
「せ、説明します」
優里は肩を上下させながら呂律が回らない声を発した。
「わたしからちゃんと、説明を……」
氷織が優里の背中を優しくなでる。LAWが冷蔵庫からペットボトルの水を取りだして氷織に渡した。
「ゆっくり。時間をかけて、少しずつ飲んでください。大丈夫ですからね」
ペットボトルの水に口をつけた時、優里の花柄のガウンから何かが落ちた。
床にカタリと金属の音が跳ねる。
それは、刃渡り十センチほどのナイフだった。
氷織がナイフの上に手を置き、LAWの方へその手をすべらせる。LAWはナイフを拾い上げると、部屋の隅のサイドボードの上に置いた。
「愛さんを殺すつもりだったんです」
優里は細い声を絞りだして語りだした。
「何もかも愛さんが原因じゃないですか。お義父さんが愛さんに会わなければ、愛さんをこの別荘まで連れてくることもなかった。愛さんが『殺してやる』なんていわなければ、探偵さんたちがここに来ることもなかった。愛さんがいなければ殺人事件なんて起きなかった。お義父さんや彰さんがおかしくなったのだって、愛さんのせいです。愛さんさえいなければ、わたしたち家族は今まで通り暮せたのに」
愛が優里を優しく抱き寄せた。優里はうなだれたまま、されるがまま、まるで人形のようだった。
「だけど殺せなかった。この部屋に入って、愛さんを前にして気づいたんです。愛さんとわたしは同じだって。わたしたちは男に翻弄されているに過ぎない。愛さんもわたしも、自分の意志とは関係なくこの島に連れてこられました。都先生を殺したのだって、愛さんのご病気のせいなのでしょう? 全部周りが悪いんです。わたしたちは、いいように扱われているだけで、なんて憐れで……そう思ったら涙が止まらなくなって、殺すだなんてとても」
「今朝、外の小屋から出てくるあなたの姿を見ました。ナイフを調達しにいったのですね」
須貝は眉間にしわを寄せながら優里にいった。あの時小屋から出てきた優里は、ガウンの下に何かを隠していた。あれは愛を殺すために持ち出したナイフだったのだ。
「ご存じでしたか。そうです。神崎さんから鍵の番号を聞いて……それで……」
「みなさん。どうかこの部屋で起きたことは他言無用でお願いします」
愛は探偵たちを見つめながらいった。
「優里さんのしようとしたことをわたしは責めるつもりはありません。実際に怪我をしたわけではありませんし、いいでしょう?」
「あなたがそうおっしゃるのでしたら」
氷織はLAWと須貝に視線を向けた。LAWは髪に指を巻きつけながら無言を返す。須貝も了承の意志をこめてうなずいた。『これ以上の厄介ごとはごめんだ』というのが彼の本心だった。
優里は泣き止むと、謝辞の言葉を述べて部屋を出た。まだ朝の九時を回ったところだというのに須貝は既に疲れ切っていた。
「それ、どうされたのですか」
愛は三角巾で吊られた須貝の右腕を指さす。
「……転んで折りました」
あなたの父親が部下に命令して折らせたんですよと正直に話すのも面倒だったので、須貝は軽くいなした。
「愛さん。人づてに聞いたのですが。あなたは高校時代、他校の男子生徒を相手に鬼神の如く暴れまわったそうですね。本当ですか」
氷織は昨夜得たばかりの情報をぶつけてみた。
「よく調べられましたね」
「事実であると認めるわけですね」
「認めます。もっとも、お察しの通り実際に暴れたのは“わたし”ではありません」
「“暴風雨”ですか」
須貝が訊ねる。愛は静かにうなずいた。
「その話を聞くと、やはり今回の事件の犯人は暴風雨だとしか考えられない。暴風雨以外の全員とはすでにお話をしました。誰ひとりとして殺人をするようには見えない」
「ひとは見かけによらないものですよ」
「おっしゃる通り。とにかくわたしたちは“暴風雨”から話を聞く必要があります。お話しすることはできませんか」
「できません。きっとあなたの声は“わたし”を介して暴風雨に届いているでしょう。ですが、暴風雨は好んで前に出てくる性格ではありませんので」
氷織は重い息を吐きながらLAWを見た。LAWは目を閉じ、口を閉ざし、微動だにせず椅子に座りこんでいる。
「……あれ。お訊ねにならないんですね」
愛がいった。解釈に困る言葉に、氷織と須貝が眉をひそめた。
「暴風雨が中学時代に起こした事件は、まだ調査なさってないのですか? 高校時代の事件のお話が出て、次は中学時代の事件かと」
氷織と須貝は顔を見合わせた。LAWはかすかに右目を開ける。
「探偵事務所を名乗っておきながらお恥ずかしい話です。おっしゃる通り、愛さんの中学時代の調査はまだ完遂しておりません」
「いまお話ししますよ。知られて困ることではありません。いえ、少し困る……というか恥ずかしい話ですが、優秀な探偵さんたちでしたらすぐに調べがつくことですから」
そういって愛は中学時代の事件を語りだした。
「よくある話です。中学二年生の時にわたしは、先輩の男性から告白を受けました。ですが、わたしは相手の方をよく知りません。恋愛にも興味がなかったので、丁重にお断りしました」
その翌日のこと。愛はこれまたよく知らない同級生の女子から呼び出しをくらったという。
「人目の付かない校舎裏に呼び出されました。何かと思ったら、その同級生はわたしに告白してきた先輩に恋慕の情を抱いていて、そんな先輩がわたしに愛の告白をしたことに憤慨していたわけです」
「矛先が愛さんに向いたのですか。告白をした先輩ではなく?」
須貝は純朴な表情で首をかしげた。それを見て氷織が、LAWが、愛が笑う。
「女子中学生の思考なんてそんなものですよ。大好きな先輩が自分以外の相手に告白したという事実に耐えられなくなって一種のパニックに陥ったわけです。彼女の心の中に渦巻いている混沌の原因はなんです。排除すべき原因とはなにか。九重愛です。九重愛がすべて悪い。だからわたしに怒りの矛先を向けたわけです」
その論理に須貝は既視感を覚える。優里だ。優里が愛に抱いた敵意はこの女子中学生と同じ論理をたどっていた。自身のなかに生まれた混沌を処理するため、混沌の起因そのものを壊そうと試みる。愛しい先輩が九重愛に愛の告白をしたという混沌。鳥羽鉄也が九重愛を連れてきたことで生じた混沌。それら混沌は全て九重愛の存在を起因としている。故に九重愛を破壊しようと試みたわけだ。
もちろんこの発想はお門違いもいいところだ。九重愛の存在を混沌の起因として捉えることは間違いではないかもしれない。だが混沌を引き起こしたのは愛の同級生や鳥羽優里の歪んだ意志である。これらの意志が暴走し、容易に攻め得る対象として九重愛を選んだに過ぎない。九重愛に責任はない。
「そこからはただのケンカです。いえ、ただのではないか。先方は家庭科の授業で使う裁ちばさみを取りだしたのですから」
「裁ちばさみって、あの厚い布とかを切る大きなハサミのことでしょう。十分が過ぎる凶器だ」
須貝は苦言を呈す。愛は力なく笑ってみせた。
「ですね。気づいた時には、暴風雨とその同級生で取っ組み合いのケンカが始まっていました。暴風雨は同級生を容易に払いのけて倒しました。うつ伏せになった相手は、枯れ葉に埋もれた裁ちばさみに手を伸ばしました。だけど刃は開いていて、握りしめたら――」
はさみは少女の人差し指を切り落としたという。
「搬送先の病院で指は再接着がなされたそうです。事故の現場には同級生の友だちもいたので、周りの大人に正直になにが起きたのかを証言をしてくれました。指が切断されるほどの大事故ともなると、わたしのせいにするわけにもいかなかったようですね」
だがこの大事故はすぐに学校中に知れ渡った。そして事実は伝聞の中で噂に化け、噂は足を生やして闊歩を始めた。
「あれは事故ではなく事件だった。九重愛が相手の指を切り落とした。九重愛は色仕掛けで周囲の大人を騙したに違いない。本当、中学生ってバカみたですよね」
九重愛は無表情のまま語った。
「その日からわたしは学区中でまぁまぁの有名人になりました。そのため高校はできるだけ遠くの学校に進学することにしたわけです。高校は同じ都内だけど、わたしの中学から進学したのはわたしひとりだけでした」
「お辛い人生ですね」
須貝は憐憫の意志をこめていった。
「子どもの頃から、理不尽な目にあってばかりだ。いざ大人になって自分自身の人生を送ろうとおもったら、父親を名乗る男が現れて、こんな場所で軟禁生活。本当に同情いたします」
「ありがとうございます。でもわたし、いまの生活はそんなにイヤではないんですよ」
愛は両手をひざに置いて両目を閉じた。
「DIDはたしかに難病です。治療には費用も時間もかかります。わたしには治療に臨む覚悟はありませんでした。だけど父が現れてわたしのすべてを変えてくれました」
閉ざしていた両目を開き、両手で自身の身体を包むように触れる。そして愛はいった。
「わたしは、ただ生きていたいだけなんです。こうして、この場所に、たしかなものとして存在する。それだけでいいんです。それだけでわたしは幸せなんです」
「愛さん。殺人事件のことはお聞きになりましたか」
「はい」
愛は首肯する。
「お尋ねします。都先生を殺したのは、あなたですか」
「ちがいます。わたしは犯人ではありません。いったでしょう。わたしは、いまの生活はそんなにイヤではないのです。そんな生活を自ら壊すような真似、するわけがないじゃないですか」
4
時計の針が十時を回った時だった。
愛の表情がスッと白く染まり、両手で顔を覆い隠した。
「愛さん?」
「あんたらか」
前髪をかき分けながら顔をのぞかせる。鎖につながれた罪人のような重苦しい目つきだ。
「ブラッドや」
LAWが両手を叩いた。
「誰が外に出ていたんだ。あんたらだれとしゃべっていた」
「愛さんですよ」
須貝が答えた。
「愛? 愛か。そうか。愛とは長いこと話していないな、元気そうだったか。いや答えなくていい。面倒だ。それからあんた、敬語はやめろっていったよな。なんだよその腕。ケガでもしたのか」
ブラッドはベッドの下から折りたたみ式のイーゼルを取りだすと、キャンバスをセットし始めた。服装はチェック柄のパジャマのまま。着替える気などないようだ。
「一昨日の絵は? エンピツでスケッチしていたやつ」
「後回し。あの絵は夜にしか描きたくない」
「どうしてまた」
「昼間の絵だからだよ。木漏れ日をいれる。おれはこの世界にないものを作りたいんだ。夜の世界に昼はない。だから昼間の絵は夜に描くことにしている」
「芸術家特有のこじれたこだわりだね」
須貝はあえて辛辣なものいいをした。ブラッドの場合は、むしろこうしたコミュニケーションの方が円滑に進むと思ったからだ。
「ブラッド。都先生のことは聞いたかな」
「聞いたよ」
「どう思う」
「これが殺したんだろ」
自身の胸を強く叩くと、ブラッドは鼻で笑ってみせた。
「あの医者が死んだことについてはなんとも思わない。だけどおれにまで被害が及ぶのはごめんだね。あんたら、犯人を捜しているんだってな。とっとと見つけてくれよ。こんなごたごた。いい迷惑だ」
「誰が殺したと思う」
「おれ以外の誰かだ。あんたら、明日には帰るんだよな」
ブラッドは三人を順繰りに見つめると、口もとに手を当てて考えるように唸った。
「外に行こう」
ブラッドはイーゼルからキャンバスを取り外し、左腕だけが使える須貝にそれを押し付けた。
「外?」
「あんたらを描きたい」
「え、やだ」
氷織が嫌悪感のこもった声を漏らした。
「外でスケッチをさせてくれ。ほら、ついてこいよ」
イーゼルを折りたたみ、ブラッドは早足で部屋の外に出た。三人も後を追う。氷織はうんざりとした表情。須貝は左手でキャンバスに悪戦苦闘。LAWだけが意気揚々とスキップをしている。
二階の踊り場でブラックスーツの神崎がブラッドの行く手を阻んでいた。神崎としては愛には部屋で大人しくしていて欲しいらしい。しかしブラッドはそんな神崎を一蹴し、別荘の外に向かった。
「ほら、はやく来いよ」
肌をなでる弱い風を吹き飛ばすようにブラッドは声をはりあげた。別荘からだいぶ離れた位置で足を止め、海原に向けてイーゼルを立てる。
「そっちに立ってくれ。海を背にして、ポーズは……そうだな。好きにしてくれ」
須貝から受け取ったキャンバスを慣れた手つきでセットしていく。
「別荘の中で描けばいいじゃない」
氷織が不満の声をあげる。
「トリカゴの中にいるあんた達なんて描きたくない。探偵。自由でいいよな。あんたらは自由だ。自由には海がよく似合う。海には淵がない。限界がない。青くも、赤くも、黒くもなれる。本当にいいよな、海ってやつは」
「この世界にはないものを描きたいっていうてたけど、うちらはこの世界に存在しないの?」
LAWがからかうようにいった。キャンバス越しにブラッドが苦笑を向ける。
「あんたらは明日にはこの別荘を離れる。絵の具を入れるころには、あんたらはいなくなるわけだ。この別荘にいないならおれの世界にはないも同然ってわけさ」
「詭弁やなぁ。嫌いじゃないわ」
「ほら、突っ立てるだけでいいのか。好きなポーズをとれ。自分をさらけ出せ、これが『自分』だって、おれにみせてみろ」
そういわれて機嫌をよくしたのはLAWだけだった。LAWはその短い髪に手ぐしを入れると、ほんの少しだけ身体を反らして遠くを見つめた。派手なポーズではないが、LAWがやると華がある。須貝はどぎまぎとした気持ちを抑えながら、さて自分はどうしたものかと考えた。警察官ならば敬礼のポーズをとるのが当然なのかもしれないが、探偵としてこの島を訪れている以上それは不自然だ。数秒の熟考の末に生まれた答えは――軽く足を横に開き、自由の効く左手だけを背中に回す。休めのポーズだ。何とも華のないものだと落胆したが、横を見ると氷織は棒立ちの姿勢に仏頂面でピースサインを作っていた。これに比べればマシだろう。須貝は少しだけ自分を励ました。
「それでいいんだな。そのまま、そのままだ」
ブラッドは左手に握った鉛筆を一心不乱に走らせた。LAWが『疲れてきた』と不満を口にするが、ブラッドは『もう少し』とくり返すだけだ。
「うん、まぁいいだろう」
力強くうなずき、ブラッドはキャンバスから離れた。
「ごくろうさん。もう動いていいよ」
十分近く彫刻のように固まっていた三人は、安堵の息を吐きながらイーゼルの方へと近づいた。キャンバスの下描きはそっけないものだった。短い草が生えた地面を足元に、三つの黒い影が浮かんでいる。ほんの数分で描いたにしては上出来だろう。しかし、LAWは不服そうにほほを膨らまし、ブラッドの肩を手のひらではたいた。
「なぁなぁ。顔は描かんの」
「下描きでは描かないよ」
「でも、絵の具を使うのはうちらがいなくなってからやろ。あんた、ちゃんとうちらの顔を覚えてんの」
「忘れるわけがない」
ブラッドは草の上に腰を下ろした。潮風がブラッドの長い髪をなでる。
「あんたら三人はまるで“創作”の世界の人間みたいだ。忘れがたい。見ていて楽しいよ」
「それって褒めてるの」
慣れないモデル仕事を課されたせいか、氷織の口調はいつもよりとげとげしい。しかしそんな態度がブラッドには心地よいらしく、鷹揚にうなずいてみせた。
「あんたら、あの医者を殺したやつは誰だと考えてるんだよ」
「さぁなぁ。難しいところやわ」
LAWはあくびをしながらブラッドの横に腰を下ろした。ショートパンツが汚れるのを気にする様子はない。
「姫子とシスターとハヤテ、それから愛とブラッド《あんた》は、自分は犯人やないいうた。しおりちゃんと柴田さん、それから暴風雨の意見を聞きたいんやけど」
「ん、そうか」
ブラッドは両手を地面に降ろし、ほんの数秒、微動だにせずその場で固まっていた。
「暴風雨は無理か」
ブラッドは首を曲げてそういった。
「しおりと柴田のジジイは午後にでも会ってくれるってよ。昼飯が終わったら、おれの部屋に来てくれ」
「いま、二人に訊いてきてくれたん? おおきになぁ」
LAWが小動物に触れるようにブラッドの頭をなでた。ブラッドはその手を払い、そっぽを向いた。
「暴風雨は無理だな。あいつのことは、おれもよくわからない」
須貝は別荘の方から誰かが近づいてくることに気づいた。鳥羽鉄也だ。おぼつかない足取りの鳥羽がこちらに近づいてくる。
「窓から、皆さんの姿が見えたもので」
鳥羽は恵比寿様のような笑顔でいった。しかしその笑顔は赤不動のように酒に灼けている。朝と変わらずウィスキーがなみなみと注がれたグラスを手にしている。セーターの下のシャツは裾が右半分だけズボンから飛びだしている。ファッションという言葉では看過できない見た目だ。
「それで、ここで、いったい、何を……あぁ。そうか、そういうことか」
鳥羽の目がキャンバスが置かれたイーゼルに注がれる。鳥羽は、グラスの中のウィスキーをキャンバスにぶちまけた。
皆が声をあげるよりも早く、鳥羽はイーゼルを押し倒した。硬い地面に布張りのキャンバスが跳びはねる。
鳥羽は力をこめてキャンバスを踏みつけた。画布が破ける。鉛筆で描かれた三つの人影が切り裂かれた。一度、二度、三度と、繰り返しキャンバスが踏みつけられる
「愛じゃない。お前は愛じゃない。愛は絵なんて描かない。わたしにも母親にも絵心なんてものはなかった。愛じゃない。お前は愛じゃない!」
息を切らしながら鳥羽はブラッドに指を突き付けた。鳥羽とは相反してブラッドは氷のように冷たい目で鳥羽を見つめていた。
「いいんだ」
小さな声でブラッドはいった。その手は横に座るLAWの肩を抑えていた。怒りに顔を歪ませて、鳥羽に掴みかからんと膝を立てるLAWを――
「いいから。いわせておこう」
「都先生は殺された。愛の治療を拒むお前たちに殺された。だけどな、わたしはまた次の医者をこの島に連れてくる。お前たちが愛の身体から消え失せるまで、わたしは諦めない。愛はまともだ。まともな人間になるんだ。お前たちみたいな“病気”に、愛の身体を好きにはさせんぞ」
そう言い放つと、鳥羽は別荘に帰っていった。
「暴力は抜きにしても――」
LAWがいった。
「いい返すくらいは、してもよかったんやない」
ブラッドは静かに首をふった。
「あの男におれたちの言葉は伝わらない。あんたは虫歯菌が慈悲を求めたからといって歯医者に通うのをやめるのか。いいんだ。もう、いいんだよ」
ブラッドは立ち上がり、ボロボロになったキャンバスを拾い上げた。白く細い手で土を払い、切り裂かれた三つの人影を見つめる。
冷たく、悲痛を覚えた二つの瞳で、汚れたキャンバスを見つめていた。
5
昼食の席は静かなものだった。
氷織たち三人の他に、食堂の席に着いたのは彰と建山の二人だけ。鳥羽は泥酔して自室で眠り、優里は食欲がないとのことだった。
早朝に須貝とした会話が尾を引いているのか、建山は顔をしかめて五目チャーハンを口に運んでいた。彰は無言を貫いていたが、その顔は気味の悪い花のように怪しい笑みをこぼしていた。
昼食を終え、氷織たち三人は愛の部屋へと向かった。ブラッドは午後になったらしおりと柴田が話をしてくれるといっていたが、鳥羽にキャンバスを破壊されたことでブラッドの精神に変調を来たし、上手くしおりと柴田に変われないのではないかと須貝は心配した。
しかしそれは杞憂に終わった。
「わ。わ。わ。わ」
三人が愛の部屋に入ると、当の部屋主は驚きの声をあげながらテーブルの上の皿を両手で覆い隠した。指の間から先ほど三人が食べていたものと同じチャーハンの姿が見える。こんな幼稚なふるまいをするのはひとりしかいない。須貝はくすりと笑ってから声をかけた。
「しおりちゃん。食事のじゃまをしちゃってごめんね」
しおりはバツの悪そうな顔をしてみせた。服装はパジャマから変わり、黒のジーンズにオーバーシャツとシンプルな装いとなっていた。
「好き嫌いはあかんなぁ」
腕を組みながらLAWがいう。しおりの手を払いのけると、皿の上でチャーハンのグリーンピースだけが丁寧に避けられていた。
「グリーンピースきらいなん?」
「きらい。でも、かおるさんは食べないと怒るの」
「二ノ宮はんはしおりちゃんに厳しいんやねぇ。そしたらお姉ちゃんが代わりにグリーンピースを食べたる」
そういうそばから、LAWはグリーンピースを指でつまんで食べ始めた。ほんの十分前に昼食を終えたばかりだというのに。
「しおりちゃん、お昼食べたら何するん?」
グリーンピースを咀嚼しながらLAWは飄々と訊ねる。
「何しよっかな。今日って、お外の風は強い?」
「ううん。大したことない」
「それなら、ねぇ。みんなでサッカーしようよ」
しおりはクローゼットに駆け寄ると、中から泥に汚れたサッカーボールを取りだした。靴下のまま軽く蹴ると、ボールは絨毯の上を転がってサイドボードに当たった。
「部屋の中で蹴っちゃだめ。わかった。お昼を食べたらお外に行きましょう」
氷織がボールを拾い上げながらいう。しおりは歓声をあげながらチャーハンの前に戻ると、ものすごい勢いで食べ始めた。
「事件のことを聞き出さなくていいんですか。遊んでいる暇なんてないですよ」
小声で須貝が苦言を呈した。氷織は無表情のまま流し目を送る。
「いいの。ボールを蹴りながらでも話はできる。それに、子どもから話を聞き出すのに一番大切なのは、相手の気を良くすること。接待よ接待。接待プレーを演じなさい」
「演じなさいって、ぼくもサッカーやるんですか!?」
「苦手なの」
「苦手とかじゃない。右腕! ぼくは骨折しているんですよ」
「サッカーなんだから足が動けば十分。それとも今から神崎さんに足の骨も折ってもらう?」
「どうしたらそんな悪魔的な発想ができるんですか」
食事を終えて、四人は外へ向かった。
客室棟の勝手口で、しおりはコートを羽織る須貝に訊ねた。
「ねぇ。その腕、どうしたの」
三角巾で吊った右腕をコートの袖に通すわけにはいかない。須貝の折れた右腕はコートの中におさめられていた。
「ちょっと怪我をしちゃってね。まぁサッカーをするぶんには問題ないでしょ」
「でもそれだと、キーパーもスローインもトラップもできないんじゃない?」
「そんな本格的なサッカーをするつもりだったの!?」
「しおりちゃん、わたしたちはそれほどサッカーが上手じゃないの。簡単なパス回しで許してちょうだい」
氷織の提案通り、四人は広がっててボールを蹴り合い始めた。
島を覆う海風は肌をなでる程度の微風。風にボールが飛ばされる心配をする必要はなさそうだ。
子どもの頃からスポーツが得意ではなかった須貝は、サッカーに対してそれほどポジティヴな印象を抱いていない。だが実際にこうしてボールを追ってみると、これがなかなか楽しいものだと気づいた。考えてみれば、自身のサッカー経験は体育の授業における試合形式のものしかない。サッカー部のクラスメイトが声を張り上げて、運動音痴の自分は言われるがままボールに駆け寄るばかり。相手のオフェンスを止められなければチームメイトから罵声をかけられる。そんなサッカーが楽しいはずがない。だが今は違う。今は四人で、ただただ気楽にボールを蹴り合っているだけだ。飛んできたボールを足で止めて、別の相手に向かって蹴ってみる。上手く相手のところに飛んでいけば自然と笑顔がこぼれるし、おかしな方向に飛んでも『ごめんなさい』と笑顔がこぼれる。
飛んでくるボールにはそのボールを蹴ったひとの個性が現れている。氷織のボールは正確に須貝のもとに飛んでくる。見ると氷織は、丁寧にゆっくりとプロ選手さながらのフォームでボールを蹴飛ばしている。表情は真剣そのものだ。おそらく、自身の脳内に刻まれたサッカーの知識を総動員して、パスボールを送る適切な動作を実行しているらしい。さすがはKnowledgeable Detective。だが悲しいかな、知識はあっても身体が追い付かず、どうしてもその動き緩々と緩。ボールをひとつ蹴るのにずいぶんと時間をかけている。
LAWはといえば、ジャージのポケットに両手を入れたまま、へらへらと笑いながらボールを蹴飛ばしている。須貝のもとに飛んでくるボールは、どれも須貝の身体からわずかに外れた方向に飛んでいる。姉と同じくそれほどスポーツは得意ではないらしい。当初はそう思った須貝ではあったが、LAWから飛んでくるボールの累計が十回を超えたところで気づいた。十回全てが、須貝の身体からわずかに離れたところに飛んでくるなんてことがありえるのか? わざとだ。LAWはわざと、須貝が諦めない、何とか身体を動かしてボールを止められる位置にボールを蹴飛ばしているのだ。
何たる意地悪! 須貝は敵意の視線をLAWに送ってみせた。すると、LAWは屈託のない笑顔を下地にウインクをひとつ送ってきた。それを見て須貝の敵意は真冬の空に散り散りになって消えた。
そしてしおりは――
「えい」
しおりのボールは、勢いがなく弱い。ちぐはぐなフォームで放たれたボールは、酔っぱらったもぐらのようにずぶずぶと地を這って行く。だが機嫌を損ねるわけにはいかない。須貝はボールを追いかけて足で止めながら、『ナイスボール!』と親指を立てて見せた。
「ねぇ、都せんせいって死んじゃったの?」
力なく転がるボールにのせて、しおりがぽつりと問いかけた。
「誰から聞いたの」
「ブラッド。お姉さんたちから先生のことをきかれたら、正直に答えろっていってたよ」
須貝は受け止めたボールを右足で止めたまま、氷織とLAWに目線を送った。LAWはあごでボールを返すように指示をだす。須貝は軽くボールを蹴飛ばした。
「そう。昨日のお昼のことなんだけど、覚えていない?」
「きのう……きのうって、いつだっけ。晴れてた?」
「雨だったよ」
「雨? ちがう。前におきた時は晴れてた。わたしきのうは寝てたみたい。寝てたからしらない。だれが殺したの」
「それはまだわからない。しおりちゃんは誰が犯人だと思う?」
須貝の質問に、しおりは言葉を詰まらせた。転がるボールから目を離し、怯えた様子で後ずさる。
「お姉さんたちじゃないよね」
「まさか!」
須貝は声をあげて笑いだした。しかし、氷織とLAWは能面のような表情でしおりを見つめていた。
「都先生が殺された時、ぼくたちは遠くにいた。先生を殺すことはできないよ」
「それじゃあ、だれが近くにいたの」
しおりが問いかける。須貝は答えようとして、そのくちびるが氷のように固まった。
「だれ。だれがせんせいのそばにいたの」
「それは……」
「わたし? わたしがせんせいを殺したとおもってるの。うそ。そんなことしてない。わたしは殺してない。でも、お姉さんたちはそう思ってるんだ」
「違う。そんなこと思ってない。誤解だよ」
しおりは力まかせにボールを蹴り上げた。渾身の力を込めて蹴ったはずなのに、ボールの力は相変わらず弱く、ホップして須貝の太ももにあたった。威力がないので痛みは大したことない。
しおりは何もいわず、客室棟に向かって走り始めた。慌てて追いかけようとするが、氷織とLAWは追随するそぶりをみせない。氷織は憮然とした表情で須貝を見つめ、LAWの方はこめかみに手を当てながら満足そうにうなずいている。
「放っておきなさい。追いかけたところで、話なんて聞いてくれないでしょ」
氷織は両腕を組んで舌打ちを放った。
「言葉を誤ったわね。警察で子ども相手の修辞学は習わなかったの」
須貝は無言のまま下唇を噛みしめた。
しかしこの険悪な雰囲気のなか、LAWはサッカーボールを抱えて上機嫌にカラカラと笑っている。何がそんなに楽しいのかと、須貝はひとり訝しんだ。
7
三人は冷えた身体を暖めるために何か飲もうと、本棟のキッチンへと向かった。
玄関から本棟に入り、居間へ通じる途中の廊下で使用人の二ノ宮に遭遇した。二ノ宮に温かい飲み物を用意するよう頼むと、二ノ宮は快諾して、居間で待つようにいった。
「四人前な」
廊下からキッチンにつながるドアを開ける二ノ宮の背中にLAWがいった。
「二ノ宮ちゃんも一緒に飲も。ちょっと話も聞きたいから」
暖炉の熱が浸透した居間に入ると、三人はくたびれた身体をソファーに降ろした。無言のままうなだれていてると、数分立って二ノ宮が現れた。
氷織が立ち上がり、二ノ宮が手にしていた盆からカップを取る。コーヒーがふたつ。ココアがひとつ。マシュマロとチョコスプレーで盛られたココアがひとつ。コーヒーは氷織と須貝の分。トッピングが盛られたココアをリクエストしたのはLAWだ。残りのシンプルなココアは二ノ宮の分だ。
「外にいらっしゃったのですか。汚れていますね」
二ノ宮は顔をしかめて須貝のズボンを見つめた。見るとたしかに、須貝のカーキ色のズボンはサッカーでついた土がついている。
「ついさっきまで、しおりちゃんとサッカーしてたんや」
LAWがカップを両手で抱えながらいう。
「あぁ、そういえば久しくお相手しておりませんでした。しおりちゃん、サッカーが好きでよく私どもでお相手をさせていただきました。ズボン、お渡しいただければすぐに洗濯いたしますので。あぁそれから……」
二ノ宮の顔が雨雲のように暗くなった。
「昨日のお洋服ですが、あの、事件が起きた時の」
「あぁ」
昨日の昼間、出刃包丁を手にしていた愛を止め、血を流す都を彼の部屋まで運んだ結果、須貝が着ていた上着とズボンは泥と都の血でグロテスクなまでに汚れてしまった。
事件がひと段落したあと、二ノ宮は都を助けに外に出た全員の汚れた衣服を回収していた。血と泥の汚れは落ちにくい。時間をかけて洗濯するとその時彼女はいっていたが。
「泥はいくらかマシになったんですが、やはり血の跡は……」
「残りましたか。構いません。安物ですので、捨てていただけると幸いです」
「なぁ、洗濯っていつも二ノ宮はんの仕事なの。他のひとはやっとらんわけ?」
LAWが首をかしげて訊ねた。
「わたしと三崎の仕事です。使用人の中では神崎は力仕事を担当していて、建山さんは、鳥羽の部下ですが別荘の使用人ではないので家事はなさいません」
須貝は朝の建山の言葉を思い出した。建山は、両親の借金を鳥羽に肩代わりしてもらい、その代償として鳥羽の会社で激務に励んでいる。そんな境遇から須貝は自らを『奴隷』と称した。
二ノ宮と三崎も『奴隷』なのだろうか。鳥羽は彼女たちにも逆らい難い恩を着せて権力をふるっているのだろうか。
廊下につながるドアが開き、使用人の三崎が入ってきた。氷織たちを見て顔をしかめる。
「何かありましたか」
須貝は三崎にたずねた。
「ついさきほど、客室棟の一階でしおりちゃんが泣きじゃくっていたもので。お部屋にお連れして、落ちつかせていたんです」
須貝は気まずい感情を覚えながら氷織に視線をおくった。氷織もまたバツの悪そうな表情でテーブルを見つめている。
「あの、それぼくたちのせいなんです」
須貝は正直にボール遊びからの顛末を伝えた。
「それで、本気でしおりちゃんが都先生を殺したとお考えなのですか」
口をへの字に曲げた二ノ宮が問いかける。三崎は無表情で須貝をにらみつけている。
「それは、その。絶対にないことはないというか、限りなくないとは思うけれど、限りなくないといい切る根拠はないというかなんというか」
「いんや、根拠はある。しおりちゃんは都センセを殺しとらんよ」
空になったカップを膝の上に乗せながら、LAWがあっけらかんといってみせた。
「どうしていいきれるんですか」
「どうしてって。さっきしおりちゃんと一緒にサッカーしたやん」
サッカーがどうしたというのだ。須貝の頭は疑問符に埋め尽くされた。両眉を曲げて須貝は氷織に助け舟を求める。
「須貝くん。しおりちゃんのボール、どんな感じだった」
「どんなって。まぁ、あまり上手くはなかったですね。ボールの威力も弱かったし」
「不自然に思わない?」
「不自然って、何が」
「しおりちゃんの身体は愛さんの身体なの。しおりちゃんの心は子どもだけど、身体は二十歳を越えた成人女性のもの。そんな彼女の蹴るボールは威力が弱かった。まるで子どもが蹴ったボールのように」
須貝は恒河沙の姉妹のいいたいことがやっとわかった。
しおりの幼さはメンタルの幼さでしかない。九重愛の身体は筋骨隆々というわけではないが、決して虚弱とはいい難い。そんな彼女がサッカーボールを蹴とばしたら、ボールはそれ相応の威力をもつはずだ。
それなのに、しおりの蹴るボールは弱かった。まるで、小さな身体の子どもが蹴るボールのように。
「DIDの患者の身体機能は、その時身体を支配する人格に対応することがある。ビリー・ミリガンの名前で知られたアメリカのDID患者は、“レイゲン”という暴力的な人格が現れた際、十九分と三十秒、サンドバッグを叩き続けていたそうよ。並みの男なら三分でダウンして当然だっていうのに」
「しおりちゃんは本気でサッカーをしとった。本気でボールを蹴って、精神年齢相当の身体能力しか発揮できんのや。三崎はん。犯行に使われた出刃包丁と同じものってあるかな」
LAWに頼まれ、三崎はキッチンから出刃包丁を取って戻ってきた。出刃包丁は同一のものをまとめて購入してストックしたので、愛が手にしていた出刃包丁と、目の前にある出刃包丁は全く同一の規格のものだと三崎が説明した。
「立派な木の柄がついているせいかな。ずいぶん重いわ。六〇〇グラムちょいあるんやない」
LAWが出刃包丁を手に首をかしげた。三崎が再びキッチンに走ってすぐに戻ってくる。手にはデジタル式の秤。出刃包丁の重さを計ってみると、六三〇gと表示された。
「みんなも見ていたから覚えてはると思うけど、“犯人”はこれと同じ出刃包丁を使って、都センセの腹を三回も刺した。重さに難儀して刺したんとちゃう。高々とふり上げてから、センセの腹を刺したんや。へろへろなサッカーボールを蹴る程度の体力しかないしおりちゃんには無理な話や。よって、しおりちゃんは犯人やない」
「そうだ。ぼく、“犯人”に掴みかかったとき、ものすごい力で抵抗されました。振り払われて、それからもう一度“犯人”は都先生を刺したんです。子どもの体力じゃない。あれは大人のものだった」
「しおりちゃんは犯人じゃないんですね。よかったぁ」
二ノ宮が身体を揺らしながら手を叩いた。三崎は安堵したのか無表情のまま大きく息を吐いた。
「そうだ。忘れるところでした」
三崎がその場で立ち上がり、氷織たちに向かって慇懃に頭を下げた。
「お三方を愛様のお部屋へお連れするよう申し付けられました。今からお時間をいただいてもよろしいですか」
「しおりちゃんが呼んだんですか。怖がらせたぼくたちを?」
「いえ。しおりちゃんではありません。しおりちゃんは柴田さまに替わりました。柴田さまが皆さまをお呼びです」
柴田徹。九重愛の中に宿る、老齢の男性。昨日の昼間、雨の中で事件が起きてからまだ柴田とは言葉を交わしていない。事件に関する重要な証言を得られるのではないか。
三崎の案内で三人は愛の部屋へ向かった。
室内に入ると、“九重愛”が猫背の姿勢で窓際の椅子に座っていた。
「恒河沙さまをお連れしました」
「遅かったじゃないか」
二十代の女性には似つかわしくない低音の声が“九重愛”の口から発せられた。声質は不機嫌。右手に火のついたタバコを構え、日光に照らされた紫色の煙がゆらゆらと天井に向かっている。
「探偵さんたち。しおりを泣かせたね。ぼくが必死に宥めて、無理やり引っ込ませたよ」
「悪気はなかったんです。ただ、事件のことを聞こうとしただけで」
須貝は頭を下げてから柴田に近づいた。柴田は悠々とした様子で須貝の方に顔を向けた。
「事件。事件、ね。都先生が殺されたんだってね。ぼくの用事もそれだよ。事件について、探偵さんたちから話を聞きたかったんだ」
「昨日、“九重愛”さんが都先生を包丁で刺し殺しました。しかし犯人は“九重愛”さんではない可能性が残されています」
「ぼくたちが犯人の可能性か」
柴田は顔をくしゃくしゃに潰してのどをさすった。
「ぼくじゃない。ぼくは殺してなんかいない」
「口だけなら何とでもいえます。それを証明できるものはありませんか。柴田さん。ぼくたちはいま、都先生を殺した犯人を捜しています。あなたが犯人でない証拠があるのなら少しでも真実に近づけるんです」
須貝が前に出て語気を荒げた。しかし柴田は応えない。猫背の背中を曲げたまま、憮然とした様子でくちびるを噛んでいる。
「のいて」
粒子の細かい砂のように、さらりと乾いた声が響く。LAWが須貝の右肩をつかんで前に出た。肩を掴まれた衝撃が、骨折した右ひじまで走り須貝は花火のような悲鳴をあげた。
「ここはうちに任せて。須貝もひいねぇも、三崎さんもしばらく黙っててな」
LAWは人さし指を掲げて背後に向けた。氷織はひと言、『信用してるわよ』と冷たい口調で激励の言葉を投げた。須貝と三崎はそろって憂いた表情を浮かべている。
「なぁ、柴田はん。うちなぁ、少しずつやけどこの事件の姿が見えてきたわ。あんさん混乱しとるやろ。昨日いったい“九重愛”の“中”で何が起きたのかって頭を悩ましてはるはずや。だんないふりして、タバコを蒸かして……それでも心のなかはドキドキのビクビクでうちと対峙してはる」
柴田は応えない。タバコの火をそばにあるテーブルに押しつけて消した。
「犯人はとんでもないペテンをかけたのかもしれへん。犯人はうちらに、事件の影を見せつけはった。けどなぁ。影ってのは輪郭があるだけで実体はない。影に戸籍はない。影はこの手でつかめへん。影を追いかけるだけでは、真実にたどり着けんわけや。うちはもう騙されない。影を追いかけるのはもう止めや」
「……それで、何がいいたいのかな」
「耳かっぽじってよく聞いとき」
LAWはその身体に見合わないほど大きな声を出した。柴田の両肩をつかみ、小さな顔を近づける。
「こんな事件、これまでうちらが担ってきた事件と比べたら屁でもないわ。犯人が仕掛けたこすいペテンに騙されるほど、恒河沙の姉妹は落ちぶれてへん」
「トーキングスルー」
ほんの少しだけ鼻を愉悦に曲げながら氷織がぽつりとつぶやいた。
「トーキングスルーって、昨日氷織さんがやったやつですよね」
須貝が小声で訊ねた。
「表にでていない他の人格に語りかける技法。LAWさんはいま、柴田さんを介して“犯人”の人格に語りかけているんですね」
「もしくは柴田さんが犯人で、油断させるために敢えて行っているのかも。そうね。LAWのいう通りだわ。こんな事件、わたしたちが経験してきた事件に比べたら屁でもない。もっといえもっといえ。もっていってやりなさい、LAW」
氷織が小さく拳を握りしめる。らしくないそのふるまいに、須貝は思わず苦笑した。
「こっからは徹底的に行かせてもらうで。反撃開始や。恒河沙の姉妹を敵に回したことを後悔させたる」
LAWが柴田の肩から手を離すと、花弁のようにくるりと回った。
「最初の質問にもどらせてもらうわ」
LAWの声は小さく落ち着いたものにもどった。仮面のような笑顔をつくってから柴田に問いかける。
「柴田はんが犯人やないいうなら、それを証明してもらおうか。 自分が都センセを殺してへんって、理路整然と説明ができるなら是非もなしに聞かせてもらうわ」
「帰ってくれ」
憮然とした表情のまま柴田がいった。
「もう結構だ。なんて、なんて不愉快な気分なんだろう。あんたの言葉はさっぱりわからん。すこし疲れた。休ませてくれ」
柴田は背を向けてベッドの中に入ってしまった。仕方なしに須貝は部屋を出るようLAWに声をかける。
「柴田はんは犯人やない」
廊下に出て開口一番、LAWは納得するようにうなずきながらいった。
「どうしてわかるんですか」
須貝が右腕を吊る三角巾の位置を調整しながら訊ねた。
「どうしてって。柴田はんは都センセを殺せへんもん。当然やない」
「柴田さんが老齢だからですか」
横で聞いていた使用人の三崎が訊ねる。
「しおりちゃんが“こども”であるが故に、包丁をもてなかったのと同じく、柴田さんも“老人”だから包丁がもてなかったと?」
「ちゃう。ひぃねえ。昨日、柴田はんがベッドから洗面所に向かった時のことを覚えてはる?」
「しおりちゃんに代わる前に洗面所に向かったわね。覚えてる。そう。あの時、柴田さんはしっかりとした足取りをしていた。柴田さんはたしか六十五歳だったかしら。しおりちゃんのように精神年齢が肉体を制限していたとしても、柴田さんなら出刃包丁をふり回すことは可能でしょうね」
「ん。そのとおり。でもな、確信したわ。柴田はんは都センセを殺してない。何故なら、柴田はんには殺せないから。あぁ、眠くなってきたわ。うち、部屋に戻らせてもらう。晩御飯になったら起こしてな。絶対やで。約束したからな。ほな、さいなら」




